曲輪4周辺
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本丸の南土塁上から空堀を隔てて4の北下曲輪(仮に)
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北下曲輪の東先端部、本丸東脇からくる追手の壕道
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4の北下曲輪から本丸城壁を見ています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/ea/3b92036efc37fb2060ce6cd316c3bdac.jpg)
北下曲輪を見渡しています。土塁を越えると
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4の曲輪
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現地では曲輪3の西としています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/00/d422c072a2092285a3049128339f9f3e.jpg)
縄張り図「群馬県古城塁祉の研究 上巻」山崎一氏著、曲輪3は本丸と二の丸との間の追手道で区切られており曲輪4としたほうが分かりやすいと思い、あえて現地の棒標には合わせませんでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/10/b76dee681d99a010a512b40fd70cb455.jpg)
南土塁から曲輪4を見下ろしています。
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曲輪4の東側にある追手道
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/5c/7fce0b3dd1a8f41ce41175261246517d.jpg)
追手道を北に歩き北下曲輪の東側に立って、本丸との空堀を見ています。
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北下曲輪から本丸の南西にある虎口(山崎氏は虎口として描いています。)
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追手道、二の丸の脇
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本丸城壁を見ています。
次回 二の丸の南側(曲輪5とします)
沼田景義(顕泰の子、庶子)
沼田 景義(ぬまた かげよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。摩利支天の再来といわれた勇将。
沼田氏は上野国利根郡を治めた国人。
庶子であったが、父・沼田顕泰に寵愛され、隠居の地である天神城に同行した。永禄12年(1569年)、顕泰による異母兄・朝憲の殺害に端を発する沼田氏の内紛に敗れ、父・顕泰と共に家臣に追放されたと伝わる(「加沢記」)。しかし、考証によって沼田氏の内紛は永禄4年(1561年)以前のことで、沼田へ進出してきた後北条氏への対応を巡り、旧主・上杉憲政を支持する顕泰と、北条氏へ帰属しようとする朝憲らの対立だったとされている。この内紛には朝憲室の実家で北条方となった厩橋城主長野氏が介入し、顕泰は越後へ逃亡したとみられ、沼田氏の名跡は北条方の沼田康元が継いだ。永禄4年(1561年)、長尾景虎(上杉謙信)が憲政を奉じて沼田城へ進攻してくると康元は敗れ、顕泰は上杉方で沼田衆をまとめる立場に復権したが、沼田城は上杉の城代支配となり、以後の顕泰の動向は不明である。この間、景義は父・顕泰と同じく越後へ逃亡のち沼田へ復権したとみられるが、彼の名は「加沢記」などの後世史料以外にみられず、その生涯ははっきりしない。
景義の行動で明確なのは、由良氏方の上野女淵城主でみえることである。景義は由良国繁の援助を受け、天正9年(1581年)2月に旧領への復帰を目指して沼田城へ兵を進めている。なお景義が由良方に入った時期は不詳。しかし、甲斐武田氏より沼田の地を任されていた真田昌幸が沼田氏旧臣であり沼田城将・金子泰清(景義の母方の伯父、又は祖父とされる)に景義の謀殺を命じ、景義は泰清らに沼田城に誘い出され城内で殺害された。これにより沼田氏は断絶した。ウィキペディアより
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本丸の南土塁上から空堀を隔てて4の北下曲輪(仮に)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/1e/4f6eb5293b00c4f853d523ca0f2b2964.jpg)
北下曲輪の東先端部、本丸東脇からくる追手の壕道
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4の北下曲輪から本丸城壁を見ています。
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北下曲輪を見渡しています。土塁を越えると
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4の曲輪
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現地では曲輪3の西としています。
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縄張り図「群馬県古城塁祉の研究 上巻」山崎一氏著、曲輪3は本丸と二の丸との間の追手道で区切られており曲輪4としたほうが分かりやすいと思い、あえて現地の棒標には合わせませんでした。
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南土塁から曲輪4を見下ろしています。
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曲輪4の東側にある追手道
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追手道を北に歩き北下曲輪の東側に立って、本丸との空堀を見ています。
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北下曲輪から本丸の南西にある虎口(山崎氏は虎口として描いています。)
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追手道、二の丸の脇
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本丸城壁を見ています。
次回 二の丸の南側(曲輪5とします)
沼田景義(顕泰の子、庶子)
沼田 景義(ぬまた かげよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。摩利支天の再来といわれた勇将。
沼田氏は上野国利根郡を治めた国人。
庶子であったが、父・沼田顕泰に寵愛され、隠居の地である天神城に同行した。永禄12年(1569年)、顕泰による異母兄・朝憲の殺害に端を発する沼田氏の内紛に敗れ、父・顕泰と共に家臣に追放されたと伝わる(「加沢記」)。しかし、考証によって沼田氏の内紛は永禄4年(1561年)以前のことで、沼田へ進出してきた後北条氏への対応を巡り、旧主・上杉憲政を支持する顕泰と、北条氏へ帰属しようとする朝憲らの対立だったとされている。この内紛には朝憲室の実家で北条方となった厩橋城主長野氏が介入し、顕泰は越後へ逃亡したとみられ、沼田氏の名跡は北条方の沼田康元が継いだ。永禄4年(1561年)、長尾景虎(上杉謙信)が憲政を奉じて沼田城へ進攻してくると康元は敗れ、顕泰は上杉方で沼田衆をまとめる立場に復権したが、沼田城は上杉の城代支配となり、以後の顕泰の動向は不明である。この間、景義は父・顕泰と同じく越後へ逃亡のち沼田へ復権したとみられるが、彼の名は「加沢記」などの後世史料以外にみられず、その生涯ははっきりしない。
景義の行動で明確なのは、由良氏方の上野女淵城主でみえることである。景義は由良国繁の援助を受け、天正9年(1581年)2月に旧領への復帰を目指して沼田城へ兵を進めている。なお景義が由良方に入った時期は不詳。しかし、甲斐武田氏より沼田の地を任されていた真田昌幸が沼田氏旧臣であり沼田城将・金子泰清(景義の母方の伯父、又は祖父とされる)に景義の謀殺を命じ、景義は泰清らに沼田城に誘い出され城内で殺害された。これにより沼田氏は断絶した。ウィキペディアより