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山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

平賀城②

2018-07-25 22:25:04 | 山城ー信州
曲輪4から北側帯曲輪


東第一曲輪の城壁には石垣が残っています。

西に歩いてゆくと、下段に東第五曲輪

第五曲輪を見渡しています。

東第一曲輪(余湖さんの俯瞰図では出丸)と囲む階段状の曲輪を見返しています。

俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より

曲輪4

曲輪4の北下袖曲輪

曲輪4から西に登り、見下ろすと二段の腰曲輪

北へ廻り、第二段曲輪

第二段曲輪から、さらに下に第三段曲輪

段曲輪を登って来ると第一段曲輪、本丸城壁を見上げています。

第一段曲輪

第一段曲輪の東先端部から上部に登る道があり



東側からは搦め手でした。

次回 本丸へ
小山田虎満(昌辰)について
武田氏は晴信(信玄)期に信濃侵攻を本格化させ、天文15年(1546年)5月には佐久郡内山城(長野県佐久市内山)の大井貞清を攻め落としている[5]が、虎満の初見資料は『高白斎記』における同年7月条の記事で、「上原伊賀守」が武田晴信により内山城代に任命され、西上野口へ通じる佐久郡を確保したという記述がある。
『陽雲寺旧蔵文書』によれば、天文17年(1548年)の佐久郡前山城(長野県佐久市)攻めにおいては虎満旗下の在城衆・足軽大将が「三郎殿」(武田三郎)の指揮下に出陣している。「三郎殿」は系譜関係は不明であるが、武田氏の御一門衆の人物で、天文19年から天文20年を終見とし、「三郎義信」を称していることから甲斐源氏の一族・安田義定の名跡を継承した人物であるとする説がある[6]。
『高白斎記』によれば、天文20年(1551年)3月29日において内山城代は前城主貞清に交代し、虎満は甲府へ帰還した。同9月20日条では貞清が更迭され再び内山城代となっており、石田小山田氏を継承して小山田備中守を称するようになった[7]。
天文22年(1553年)1月には、信濃守護小笠原氏・村上氏の連携に対し、晴信は虎満に対し、村上方の本拠である葛尾城攻めに際した出陣を秘匿するため戸石城修築の虚報を流させている自筆書状を送っている[8]。また、信濃国衆真田幸隆(幸綱)との取次も務めており、幸隆とともに軍事行動も行っている。
天文23年(1554年)7月には村上義清の監視のため飯富虎昌とともに再び内山城に在番している。ウィキペディアより つづく