山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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よもやま歴史情報

2018-07-29 23:06:30 | 日記


【図解】近畿の城郭Ⅴ

2018年8月上旬刊行予定
中井均 監修/城郭談話会 編

シリーズ完結! かつてないスケールで描く最新の城館バイブル最終巻!! 
【付録1】既刊5冊の城名総索引
【付録2】関西6府県に所在する全城郭の最新の一覧表を収録!
【図解】近畿の城郭Ⅴ
ISBNコード
978-4-86403-299-5
6,800円(税抜) 7,344円(税込)


井伊家歴代当主の位牌、木像 龍潭寺が特別公開 浜松 (2018/7/23 08:12)

特別公開されている井伊家当主の位牌と木像=浜松市北区引佐町の龍潭寺
 井伊家の菩提(ぼだい)寺である浜松市北区引佐町の龍潭寺内に建つ井伊家御霊屋の建て替え工事に伴い、御霊屋に安置されていた井伊家歴代当主の位牌(いはい)と木像が同寺本堂で特別公開されている。本堂には代々の当主や分家の位牌約50柱が並ぶ。井伊家初代の共保、戦国武将の直政、大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公直虎の父である直盛の計3人の木像も展示されている。
 御霊屋は寛保2(1742)年に建てられた井伊家の歴代当主を祭るお堂で、県指定文化財。老朽化が激しく6月から建て替え工事が始まり、工事完了予定の2020年3月まで閉鎖される



登録有形文化財に2件 富岡高御殿 富岡高御殿黒門
2018年7月21日 東京新聞記事

御殿の外観

 国の文化審議会が二十日に答申した登録有形文化財(建造物)に、県内では富岡市七日市の県立富岡高校御殿(旧七日市藩陣屋正殿)と、同高御殿黒門(旧七日市藩陣屋中門)の二件が選ばれた。近く官報告示を経て登録される見通しで、県内の登録有形文化財(建造物)は百二十九カ所の三百三十七件になる。
 県教育委員会や富岡市教委によると、旧七日市藩は戦国大名として知られる前田利家の五男利孝が幕府から拝領し、廃藩置県まで十二代にわたり、藩主を務めた。城は持てず陣屋を築き、今回、現存する藩邸の一部「御殿」と陣屋の中門だった「黒門」が登録対象となった。富岡高の敷地内にあり、現在も同高のシンボルとして親しまれている。
 「御殿建築は、京都府の二条城にある二の丸御殿の各種建物のほか、数例を残すのみで、部分的とはいえ残存していること自体が貴重。江戸時代の陣屋の様相を伝える」と評価された。
御殿の黒門=いずれも富岡市で(県教委提供)

 御殿は一八四三(天保十四)年に再建された正殿の一部で、玄関から御座所に至るまでの広間、板の間、書庫などが残っている。木造平屋で長さ約三十六メートル、幅九メートル余、床面積は約三百六十平方メートル。明治から昭和の学校建設に伴って移築されるなどし、玄関の位置も付け替えられた。
 黒門も一八四三年に再建され、移設などを経て現在地に戻された。細部の意匠に御殿と共通する部分が多いという。
 市教委や富岡高によると、御殿は現在も同高定時制の卒業式で使われ、同高東側にある黒門は生徒が登下校時にくぐるという。地元では、本家の加賀藩前田家の赤門(東京大学赤門)に対して黒門と呼ばれた、といわれている。

白山城②

2018-07-29 22:05:55 | 山城ー甲斐
主郭部に入ります。

坂虎口を登り

再度、大手虎口を見下ろしています。

帯曲輪が北回り

帯曲輪の南回り

大手を登ると

虎口と正面から敵を迎えた曲輪、左に入れば二の丸

二の丸虎口

二の丸、奥には本丸の城壁

二の丸の西側には空堀と二の丸南西曲輪

宮坂氏はこの曲輪を2’としています。右手奥には土橋、本丸へ通じています。

縄張り図は「甲斐の山城と館」上巻

次回 南西尾根から三の丸

白山城の築城と利用
『甲斐国志』に拠れば、白山城は「城山」と呼ばれ、甲斐源氏の祖・源清光の子である武田信義が要害として築城したとしている。信義の子である武田信光の子孫・武田信時の系統は巨摩郡武川筋に土着し、戦国期には在郷武士団である武川衆が登場する[5]。『寛政重修諸家譜』によれば、白山城は武川衆の一族である青木氏が領有し、武田信縄から信虎・晴信に仕えた八代信種が「鍋山城」を守備し、これが白山城にあたると考えられている[6]。後に青木氏から別れた山寺氏が領したという[7]。
一方で中世期の文書や記録史料には白山城に関するものは見られず、もっぱら近世期の地誌類や家譜などに見られる。寛永20年(1643年)『寛永諸家系図伝』、寛政3年(1791年)『寛政重修諸家譜』所載の青木・山寺両氏の家譜においては戦国期に武川衆の青木・山寺両氏が武田氏から「鍋山の砦」の守備を任されたとしている。
『裏見寒話』では、武田八幡宮の南に「鍋山八幡」の存在を記している。『裏見寒話』では「鍋山八幡」を源為朝伝説に付会した説を取り、これは白山神社・為朝神社に比定される可能性が考えられている。
戦国期の天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍の武田領侵攻により武田氏は滅亡し、武田勝頼は新府城を退去して家臣・小山田信茂の郡内領へ逃れる途中に、田野(甲州市大和町)において滅亡した。同年6月、本能寺の変で織田信長が死去すると甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生し、甲斐では三河国の徳川家康が新府城を本陣に七里岩台上に布陣し、若神子城に本陣を置く北条氏直と対峙した。天正壬午の乱において武田遺臣の一部は徳川家康に臣従し、白山城には武川衆の青木氏・山寺氏が配置され、諏訪口の監視を行った。白山城は天正壬午の乱において修築されていると考えられている。
江戸時代初期の寛文年間(1661年-1673年)廃城となった。