松井田城には熊が縄張りとして生息しており、熊の威嚇行動を受けたと、安中教育委員会に通告し、駐車場にクマ出没注意の看板を出すよう進言たが返事がなく、無視しているようである。このブログを読まれた方は単独での登城は控えたほうがよいです。熊ベルを鳴らして、遺構を見て歩いていましたが、熊は逃げませんでした。
青柳城は長野県筑北村にあります。
青柳城地図
国道403号線の信号六工から左折しますと(松本方面に向かって)、すぐに青柳城址の案内板が出ています。さらに500m先で青柳城址と青柳城址公園との二つの案内が出ています。今回私は青柳城址(清長寺)に向かいました。清長寺は青柳清長の館跡があります。ただし、城山までは1kmの登山歩きをしなければなりません。青柳城址公園に向かえば復元城門に着き、尾根筋を歩いて200mくらいで城内です。
青柳宿の入り口にある案内板
清長寺、青柳氏館跡、この手前に駐車場があります。
清長寺の本堂西から登り道があります。
林道を200m歩くと、山道にぶつかり、そのまま道を進むと、看板が左にあり、正面には城池、この池の左手から山に入ります。右手の道を進めば復元城門に付きます。(車で)
標高905mですから登りがいはあります。
山のつづら道には所々に段曲輪が配されています。城内手前で帯曲輪に柵が構築されていました。
登りつめると、冠木門が構えた青柳城です。
次回 二の丸から本丸へ
青柳城について
青柳城はこの地の豪族で、麻績氏の一族である青柳氏の城であった。
信濃守護の小笠原長時が武田晴信に敗れた後、小笠原氏に臣従していた青柳清長は武田氏に従った。
天文22年(1553年)の第1次川中島の戦いでは、晴信が一時ここに居城した。また、この合戦では長尾景虎(上杉謙信)は更級郡から筑摩郡へ進出し、青柳城に放火した。
武田氏滅亡後、青柳頼長は上杉景勝に従い、信濃府中を回復した小笠原貞慶と青柳城・麻績城を争い、後に和議を結んだが、天正15年(1587年)には深志城(松本城)で誅殺される。その後は小笠原氏の家臣の松林氏が在番したが、慶長年間には廃城になった。ウィキペディアより
青柳城は長野県筑北村にあります。
青柳城地図
国道403号線の信号六工から左折しますと(松本方面に向かって)、すぐに青柳城址の案内板が出ています。さらに500m先で青柳城址と青柳城址公園との二つの案内が出ています。今回私は青柳城址(清長寺)に向かいました。清長寺は青柳清長の館跡があります。ただし、城山までは1kmの登山歩きをしなければなりません。青柳城址公園に向かえば復元城門に着き、尾根筋を歩いて200mくらいで城内です。
青柳宿の入り口にある案内板
清長寺、青柳氏館跡、この手前に駐車場があります。
清長寺の本堂西から登り道があります。
林道を200m歩くと、山道にぶつかり、そのまま道を進むと、看板が左にあり、正面には城池、この池の左手から山に入ります。右手の道を進めば復元城門に付きます。(車で)
標高905mですから登りがいはあります。
山のつづら道には所々に段曲輪が配されています。城内手前で帯曲輪に柵が構築されていました。
登りつめると、冠木門が構えた青柳城です。
次回 二の丸から本丸へ
青柳城について
青柳城はこの地の豪族で、麻績氏の一族である青柳氏の城であった。
信濃守護の小笠原長時が武田晴信に敗れた後、小笠原氏に臣従していた青柳清長は武田氏に従った。
天文22年(1553年)の第1次川中島の戦いでは、晴信が一時ここに居城した。また、この合戦では長尾景虎(上杉謙信)は更級郡から筑摩郡へ進出し、青柳城に放火した。
武田氏滅亡後、青柳頼長は上杉景勝に従い、信濃府中を回復した小笠原貞慶と青柳城・麻績城を争い、後に和議を結んだが、天正15年(1587年)には深志城(松本城)で誅殺される。その後は小笠原氏の家臣の松林氏が在番したが、慶長年間には廃城になった。ウィキペディアより