本丸から南西岩尾根へ
本丸
碑
南西から本丸を見ています。北側の土塁
南西下曲輪
南西第二腰曲輪
南西第三曲輪
南西第四曲輪
下ってきた斜面を見上げています。
こんな巨石を西側下に見ながら下ってゆきます。
岩尾根を下り、南に廻れます。奥に見える岩を西から下ってきました。(歩くのは曲輪の連絡がよく安全です。)
南に廻って、南東第一曲輪
南東第二曲輪、この先南東尾根に通じていますが次回とします。
縄張り図は「信濃の山城と館4」本丸から南西尾根の岩場を下り、南東尾根の上部の曲輪まで来ました。
麻績城を築城した服部氏を追い払い青柳氏が麻績城を居城とした。
青柳氏について
青柳清長【あおやぎきよなが(15??~1569)】
安曇郡青柳城主。仁科盛国の男。小笠原長時家臣。官位は伊勢守。1548年、小笠原長時は「塩尻峠の戦い」で、武田晴信勢に敗れると、筑摩郡の諸城を次々に失い村上義清を頼って落延びた。1550年、小笠原長時は、村上義清の支援を受け筑摩郡に侵攻して、青柳清長と共に武田晴信勢と対抗した再び敗れ、長尾景虎と頼って落延びた。1553年、青柳清長は、武田晴信に降ると、が長尾景虎勢の侵攻を受け攻撃を受けた。武田晴信の後ろ盾で麻績城を奪い筑摩郡での勢力を伸張させた。 兄に仁科盛能、弟に古厩盛兼、飯森盛春、渋田見盛家がいた。
青柳頼長【あおやぎよりなが(15??~1587)】
青柳清長の男。官途は伊勢守。1550年、小笠原長時が武田晴信に敗れて長尾景虎を頼った際、父青柳清長と共に武田晴信に降った。1573年、青柳頼長は、父青柳清長の菩提を弔うため清長寺を創建した。1580年、青柳頼長は麻績宿から青柳宿の街道を整備した。1582年、小笠原貞慶は長尾景勝に敵対していたが、青柳頼長は、小笠原貞慶に属した。長尾景勝が越後国に撤退したため、小笠原貞慶は勢力を回復した。青柳頼長も青柳城、麻績両城を奪還した。1583年、長尾景勝と小笠原貞慶の両者は戦い小笠原貞慶は敗北、青柳頼長も所領を失った。1587年、長尾景勝に内通したとし嫡男青柳長迪と共、松本城内で謀殺された。戦国武将録より
本丸
碑
南西から本丸を見ています。北側の土塁
南西下曲輪
南西第二腰曲輪
南西第三曲輪
南西第四曲輪
下ってきた斜面を見上げています。
こんな巨石を西側下に見ながら下ってゆきます。
岩尾根を下り、南に廻れます。奥に見える岩を西から下ってきました。(歩くのは曲輪の連絡がよく安全です。)
南に廻って、南東第一曲輪
南東第二曲輪、この先南東尾根に通じていますが次回とします。
縄張り図は「信濃の山城と館4」本丸から南西尾根の岩場を下り、南東尾根の上部の曲輪まで来ました。
麻績城を築城した服部氏を追い払い青柳氏が麻績城を居城とした。
青柳氏について
青柳清長【あおやぎきよなが(15??~1569)】
安曇郡青柳城主。仁科盛国の男。小笠原長時家臣。官位は伊勢守。1548年、小笠原長時は「塩尻峠の戦い」で、武田晴信勢に敗れると、筑摩郡の諸城を次々に失い村上義清を頼って落延びた。1550年、小笠原長時は、村上義清の支援を受け筑摩郡に侵攻して、青柳清長と共に武田晴信勢と対抗した再び敗れ、長尾景虎と頼って落延びた。1553年、青柳清長は、武田晴信に降ると、が長尾景虎勢の侵攻を受け攻撃を受けた。武田晴信の後ろ盾で麻績城を奪い筑摩郡での勢力を伸張させた。 兄に仁科盛能、弟に古厩盛兼、飯森盛春、渋田見盛家がいた。
青柳頼長【あおやぎよりなが(15??~1587)】
青柳清長の男。官途は伊勢守。1550年、小笠原長時が武田晴信に敗れて長尾景虎を頼った際、父青柳清長と共に武田晴信に降った。1573年、青柳頼長は、父青柳清長の菩提を弔うため清長寺を創建した。1580年、青柳頼長は麻績宿から青柳宿の街道を整備した。1582年、小笠原貞慶は長尾景勝に敵対していたが、青柳頼長は、小笠原貞慶に属した。長尾景勝が越後国に撤退したため、小笠原貞慶は勢力を回復した。青柳頼長も青柳城、麻績両城を奪還した。1583年、長尾景勝と小笠原貞慶の両者は戦い小笠原貞慶は敗北、青柳頼長も所領を失った。1587年、長尾景勝に内通したとし嫡男青柳長迪と共、松本城内で謀殺された。戦国武将録より