喜寿をむかえた男の遊々生活!

喜寿を迎えた老人の日々を日記に・・・

お世話になった方が また一人・・・

2018-11-07 12:04:21 | 日記
 11月、この頃になると、しばらく出会ってない方から喪中のハガキが
届きます。
 今のところ 届くのは父が亡くなったとか、母が亡くなったとかのハガキ
が多いのですが、
昨日 お昼に 郵便物を見に行くと 2枚の喪中のハガキが・・・
 1枚は東播染工㈱時代、染色の営業をしていた桑村君、母が亡くなったとの事。 
もう1枚を見ると 氷上町常楽の足立一勝氏が差出人で お父さんの忠男氏が亡く
なったとの事で これは吃驚しました。
 長い間出会っておりませんが、年賀状のやり取りは以前からしていました。

 もうかれこれ20年前になるでしょうか?私が宅建業に飛び込んで3~4年
経った頃でした。
中区森本で土地分譲を行っていると聞き、現地へ見に行くと この足立氏が居られ
名刺交換しました。足立氏は丹波綜合不動産協業協会の従業者でしたが、
会社とは別に 貫氏と言う お医者さんの奥さんでしたが、スポンサーになり
お二人で9区画の分譲を手掛けたとの事でした。
 数日後 私の事務所に貫氏とお見えになり、「私たちは氷上と遠方なので
分譲地の代理販売を願えないだろうか?」と嬉しいお声掛けに 二つ返事で
引き受けました。
 9区画の内、私は自社名義で4棟を建築、残りは積水ハウスやパナホーム
などで建てる お客に譲りました。
その後、数年して元お医者さんの奥さん、貫氏が亡くなったと聞き、香料を
持って行ったことが有りましたが・・・

中区森本で手がけた分譲地に建てられた家々

真面目に取り組んだせいか? 後日 「氷上町犬岡(イヌカと言う)で20区画
分譲する予定だが、引き続き販売して貰えないだろうか?」との依頼が有り
現地にプレハブ小屋を建て、毎月チラシを2回ほど入れては 土日に 客待ちで
通ったものでした。
ところが、この頃 高速道路が近くを通る予定で 販売は容易いと見ていたのが
遺跡がでてきたとやらで工期が すっかり遅れ、そのとばっちりで、完売するのに
時間が掛かりました。
 それでも足立氏は気長に待っていただき、ようやく2年ほど掛けて完売できた
事を思い出します。

 これを足がかりに 私は加古川市新野辺北町はじめ滝野町や西脇市富田町、郷瀬町
などで次々分譲を行うのですが 全部 完売してきました。
思えば 私が宅建業で成功をおさめたのも、この方たちが有っての事だったと
思います。
その後、数年後に安売りをするファースト住建が進出し、分譲から撤退したの
ですが・・・それが正解でした。


 
 



 


紅葉も色づき秋も終盤を迎えました。

2018-11-06 11:05:19 | 日記
 さて今週日曜日、加西のM君と、福崎のT君と私の3人で 妙見富士カントリーへ
行きました。
皆、一応 メンバーですが、私を含め、3人は年に数えるしかプレーをしません。
年会費が勿体ないのですが、さりとて二束三文で売るのもケッタクソ悪い。

 スタートは8時16分、インから 時間通りティグランドへ向かうと前が居ない
こりゃ好いと早速スタート順の棒を引くと 私が1番、出だしのショットはまずまず
元刑事のT君は 体格がいい、なんと330ヤードのところをバンカー手前まで
飛ばしてきた 距離は300ヤードは出ているだろう。
 私とM君は精々200ヤード程度、出だしはダブルボギー、ショートホールでは
珍しくバーディを取ったものの、46と まぁ最近では良いもののボチボチ

 10時半に上がってくると待ち時間は調整のため、12時ジャストになるという
昔は1時間待ちは普通だったが最近では珍しい。
早めの食事だが 10月25日頃から 酒を断っているので時間を持て余し
サンルームでソファに座りウトウト、そうしてスタート時間が来る。
午後のプレーも スコアはボチボチ、4番ショートホールに立つと紅葉が色づいて
いる。ここの紅葉は普段も赤みを帯びている紅葉だが、ひときわ綺麗。

4番ショートホールの紅葉。

 プレーを終えたのが3時半、T君が「今日 玉ねぎの苗を買っているので植えなければ
ならない」。と言って風呂に入らないという。一緒に来ていたM君も帰ろうということで
一人 風呂に浸かって帰る。ここはサウナもあるので一人で来ているしゆっくりできた。

 小学校での仕事は 夏場程忙しくなくなったが、それでも行うことは沢山ある。
先日も北側出入口にウオシュレットの便器のカバーが捨ててある、それも小さく
持参しているディスクグラインダーで小さく切って生ごみで出すことに、その前など
オロナミンCの空き瓶が何日かに分けて沢山出ていた。茶瓶の収集日を忘れずに
出したり、電池や壊れた硝子など出しているので不燃物の日を携帯から知らせる日を
セットして忘れないようにしたり、月曜日は箒が2本捨ててある。
箒の柄が有ったので修理すれば使えるだろうと思い、ドリルで穴を開け、ボルトナットで
締め付けて治す。新品より しっかりしただろう。
百葉箱も治そうと思い、脚立を持って行って棟木と言うのだろうか? 端っこが腐っているので
取り替えようとしたのだが、上の木もさることながら、屋根部分の板も端っこが腐っている。
うっかり棟木を取り外そうとすれば屋根板も崩れてしまう。
こりゃ 大分 お金を掛けなくては治らない。 この百葉箱 実際に活かしているのか
どうかも分からないし、触るのは止めることにする。
それにしても屋根も木製板、その板に水性のペンキを塗っただけなのだから、年数が経てば
腐って当然

修理した箒。


空も深まり、身体を動かすには絶好の季節!

2018-11-02 10:44:41 | 日記
 学校での仕事は専ら 溝掃除と北側駐車場の草引き、そして南東端の落ち葉搔き
そして校舎内の 先生から依頼されたフックの取り付けや、ストーブの囲いの組み立て
等々、楽な仕事。
 あんなに暑かった今年の夏が嘘のよう、今年の夏は例年に比べ特別暑かったように
思う その中で 雑草は伸びにのび、猛暑の中で 校舎内の広い範囲を5~6回草刈り
機で刈っただろう。
 それに比べ日に日に寒くなってきたが動くには最適な季節だ。

 さて日和が良ければ毎日 朝食後は1時間程度かけてウオーキング、腕を上げて
歩くのが好いと聞き、トレッキングポールを使って歩くのだが、最初抵抗があったが
最近では慣れてきた。今朝は曽我井から森本へと向けて歩いてきた。

堤防道、左はクワムラ食品工場、前方に見えるのは森本橋

 さて思いつくままに・・・は、写真の整理が できなくて掲載しなかったが
大阪の福島工業を辞めて帰ってきてからの写真を整理した。
父の病気が原因で帰って来たのだったが、大阪から帰るのに後ろ髪をひかれる
事はなかった。
何故なら、私は小学校時代からだったが、銃が好きだった。
都会ではできない。田舎だからこそ 銃を持って思い存分 狩りとかができると
思っていた。
 二十歳になると 直ぐに銃を買うべく、警察や農林事務所などへ行き、試験を
受けて狩猟免許を取得し、猟銃を買った。
レミントンやブローニング、ウィンチェスター 有名なブランド銃は その頃も
売っていたが、価格は50万、100万、とても手に負えない価格。
仕方なく、国産の三和と言ったか? 5万円程度の上下ニ連銃を買った。
装弾は高くつくので 黒色火薬を加西まで買いに行き、プラスチック容器を買い
雷管も買い、5号の鉛玉を買って弾を作った。

当時家に有った空気銃


購入した上下二連銃。

西脇へ帰って来たのが昭和41年と記憶する。縁あって 市会議員をされていた
遠藤武男氏の娘さんで、遠藤春子さんと言う方が、家に来られた。いわく「まっさん
私の父が経営している中央工業と言う加工場へ来てくれないか?」と言われる。
篠原縫工所時代から春子さんを知っていたので二つ返事でOK
 工場へ行くと、加工前の布が沢山 台車に積んで有り、機械がごうごうと音を
ならして動いている。
春子さんが「私の旦那」と言って 主人の邦男さんを紹介してくれた。
持ち場は シルケット機で邦男さんと一緒だった。シルケットと言うのは布を
アルカリ液に浸けてテンターと言う両側にクリップが付いていて幅出しをして
水洗いしてドラムで乾燥させれば強度と光沢が出せる機械だった。

 しかしこの工場は技術者や人材が不足していたのか? 扱う織物はブローカ屋の
ものが多かった。
したがって、直ぐに東播染工㈱が介入してきて、いつの間にか東播加工㈱に
会社名が代わった。

 東播染工から技術者や、人材が派遣されてくる、その中に 後日 懇意になる
私の人生を変えてくれた森脇忠氏が居たのだった。
森脇氏は昭和4年生まれ、私より15歳も年上の方だったが、毎週のように矢田川
へ渓流釣りに行った。
森脇氏は当時、東播染工㈱酒井社長の懐刀とまで言われた方で人望も厚かった。
入社してから3年は経っていただろう。
繊維業界は この頃、昭和48年頃までは順調だった。 ここでも毎年、慰安旅行が
有り、楽しい時代を過ごした。

慰安旅行での一幕、会社仲間と兼六園❓


何処かの旅館前だろうか?

 入社して3年後に 5月1日はメーデーの日だが、組合員だったので、組合仲間と
会社の空き地に鉢巻きを締めて座っていたところを、酒井社長が通りかかった。
そして私に声を掛けてきた。「増田、お前何をしてるのだ」。と言われるので
「組合員なので、メーデーなので・・・」と言うと、「そんなこと分かっとる。
事務所へ来い」。と呼びつけられた。

 何か不始末をやらかしたか? そういえば、東播染工㈱から出向してきた者で
気に入らない男を 仕事仲間と吊るしあげた事がある。
ヒヤヒヤしながら事務所へ入ると 「増田、今すぐ 組合員を辞めなさい。そして
営業部に就任を申し付ける」。との言葉だった。