ある材料で
構築するということは
決まったキャンバスに絵の具を使い描くこととはかなり違うのです
絵と同じように
素材がいつもきれいに準備されるのとは違い
素材を見て
癖を見て
色々考えて構築するのですけど
多様なデザインを構築するには
たくさんの材料が必要だが
しかしそれだけじゃないんです
素材を見つめていると
浮かぶイメージがあり
それに従えば楽しくていい作品になります
型を作り構築していくのはちょっと違うんですね
型を作ればそれはもうキャンバスみたいになり
そのキャンバスを作るためにまた買わねばならないし
同じような型のものを作るのは相当なストレスになるんだと言うことを
誰もご存知ない。
私が常に新しい物を求めるのは
苦しいことでもなんでもないんです。
みんな逆のことを考えられる。
新しい事を常にヒラメキ作り出すことはしんどい事だって思われるし
少しでも楽に作れるようにって
優しさからいろんなことを考えられる。
けれどもそれによって
段々と追い詰められてしまうこともあるんです。
そうじゃない
って夢の中で叫んでた
違うよって叫んでた。
私は常に新しい世界を想像しながら作ることが楽しくて楽しくて仕方ないんですね。
例えば限られた材料が目の前にあったとして
そこに調和のとれた物を作ろうとするのが作家さんだとしたら
出来上がったものはとても安心感のある調和のとれた美しいものです
でも
でも
欲求不満になるんです。
うまくいえないけど
まるで身体が爆発してしまいそうになるんです。
インテリアとして美しい
素晴らしい
それはわかるんです
そういうものは必要かもしれません。
けれども百歩譲ってそんな作品があったとしても
時々私を野に放ってください
調和も美しさも安心感もかなぐり捨てて
どことなく不安定で
どことなく欠落感のあるような何かしら。
そんなスガタが浮かぶ事が多いのです
型や図面じゃなく
私が型なんですね
息子はそれを見ている
彼はいずれ自分の世界を想像するだろうけど
私がそのまんまの自分を見せられないと間違う気がします。
効率的にスマートに行うのはちょっと違うし
感だけに
勘だけに頼ってもものは構築できません
うまくいえないけど
勘や感と言うもので荒削りで稚拙だけど出産して
そこから洗練や創意工夫と言う衣服をその子に着せて
栄誉を含ませて行くような
そんな感覚がするんです。
夢の中で
色々説明されて
「今年の段取りを印刷してもらった。色々しんどいとは思うがこれに従ってやると楽だ」
と、様々な色付けした段取りを作られた物を渡された。
極めて事務的なその、段取りの印刷物を見た途端苦しくなった。
その途端私の身体から一斉に雑草が生えてきました。
その人が車に乗り込み去って行くとき
私は渡された冊子を見ないで地面に置いて
身体から生えた雑草をひとつひとつ引き抜きました。
気持ちいいくらいスポッと抜けていきました。
その後
複雑に停められた狭いガレージの奥にあった1台のワゴン車に私は乗り込み
迷路のようにひしめき合ったガレージから抜け出しました
どこに向かって走ってるのかわからないけど
その時橋を見ました。
大きな橋でしたが
その橋が途端に変形してきてある作品となりました。
あ、これ作る
と、決めました。
不思議なんですけど
ヒラメキを
作っていくことは
本当に楽しい
また京都でも木を買おう
いい木があればあちこちで買おう。
それは本当に
経済的に逼迫するとかどうとか
何にも考えていないのでありました。
だからこそ
そんな不安定でダメな生活を安定させるために
色々考え腐心してくださってるんです
こんなありがたいことはないんです
その恩がよーくわかってるんです
なのになのになぜ
時々
突拍子も無い不安定に憧れるのか
私にはよくわからないんです
安定と不安定
安心と不安
喜びと、悲しみ
かたさとやわらかさ
古いことと新しいこと
縦と横
明るさと暗さ
反対のものがうまく合わさったみたいな
そんなのを求めてるのかなあ?
相容れないような物を
含む事ができるようになるにはまだまだなのだろうなあ
払暁目を覚まし
ただ座り込み想っている自分は
やはり1人ポツンと
そこにいるんです。
うまくいえないけど
わがままでも
今はとにかく
やってみたい事をしてみようと考えています
計画は?と聞かれた
計画など辻褄合わせて意気揚々と述べるのはたやすい事です。
合理的に理屈をキチンと積み重ねれば簡単に計画はできるんですね。
けれどもそれだけじゃ本当に行き詰まってしまうからこそ
自分の中の情熱やら
わけのわからないものを
力みたいな
なんだろうなあ?
そんなわけのわからない怪物みたいなものを
常に心の中に飼っているわけですから
その怪物に時々暴れてもらわないと
壊れるんですね。
今はそれをやりたいと密かに想っているんです。
きっとそれは
本当だねえと
言ってもらえる気がします。
私が
まるで鶴の恩返しみたいだから
作るところを見ないで
と言っているのは
危ない機械があるとか木の粉まみれとか
本当はそんな事を言っているのではなくて
ブツブツと夢と向き合って作っている世界は
とてもお見せできるようなものではなくて
完成した夢を見て頂きたいと思うからですね。
今の工房でも狭くて考えられないとみんな言います
広い工房お持ちの方々が
私の持っていない機械や道具、空間を見せてくださり理想を語られます
素晴らしいなあと思うんですね。
私にはそんな理想は実現できる力も何も無いけれど
今与えられた環境が一番だと感謝して感激して
うまく工夫しながら
回り道してでもつくることは
鶴が織物を羽を抜いて作るようなものだと言われても
ハゲることはないので(笑)
羽は次々と生えてくるので(笑)
大丈夫なのでした。
ちょっと笑うなあ。
でもね
前の私なら
色々と広い工房や機械や恵まれた場所を見せられると
ちょっと引け目を感じてしまったり劣等感抱きましたけど
国東にあとりえを構えた時から
広さも狭さも
環境としてどうかとか色々言われても
あまり気にならなくなりました。
人に恵まれ
つくるためのヒラメキの栄養素が溢れているこの地は最高なんです。
素晴らしいところだ
だから見ていてほしい
私のつくる世界を
見ていてほしい
これから始まる舞台を
幕が開けるまで
少しお待ち下さいませ
私は本気なんです
超越していきたいです
今という自分自身を常に破壊しながら
次の自分自身を構築していきたいです
新陳代謝みたいなものです(笑)
表現の、世界では
表現の、世界では
工房の広さとか利便性とか
そういうものは実は二の次三の次なんですね。
工芸作家でも家具作家でもないからでしょうね。😄