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集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

日本レスリング黎明史≒講道館の激烈!黒歴史(その8)

2024-02-22 20:51:21 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 五輪という檜舞台でのメダル獲得を狙って様々な謀略を巡らせておきながら、自分の足を自分で引っ張って自滅した講道館には、体協を始めとしたスポーツ界隈から白い眼が向けられ、五輪後はしばらく、地下に潜伏せざるを得ませんでした。
 小谷、吉田の両選手には五輪終了と同時に、「派遣解除」の命を出し、ふたりは逃げるようにして日本に帰国しました。小谷の渡米が五輪開会式約3ケ月前の4月16日、撤退が8月末日。おお、満鉄の社命にしては、なんという偶然でしょうか(;^ω^)。
 こうしてとりあえず、ロス五輪を悪用した「講道館の猿芝居」は全て終わりを見ました。

 国辱のようなマネをして大失敗した挙句、地下に潜伏した講道館レスリング部を尻目に、八田一朗率いる大日本アマレス協会だけは意気軒高でした。
 早大レスリング部員・佐藤竹二の姉による高額寄付を元手に、大隈講堂裏手に日本初のアマレス専用道場(体育協会史に「バラック」と書かれた粗末なもの)を設置して本格的な練習を開始した早大レスリング部は、オリンピック翌年の昭和8(1933)年にはハワイ遠征を実施。さらには全国の中等学校への巡回講習等の活動といった地道な活動が実を結び、昭和9(1934)年、アマレス協会は体協が認可するわが国唯一のレスリング競技統括団体となります。
 天下晴れて統括団体の認可を受けたアマレス協会は同年、ほんとうにきちんとした「全日本選手権大会」を開催したのですが…この大会に、地下に潜伏していた「亡霊」が起きて出てきたのです。
 言うまでもなくその亡霊の名は、講道館レスリング部。講道館レスリング部はまだ「日本レスリングのイニシアチブ獲得」をあきらめていなかったのです。

 フリースタイル・ライト級の決勝に勝ち進んだのは、早大レスリング部のホープ、わずか19歳(戦前は数え年なので、満17~18歳くらい)の風間栄一。
 風間は新潟商業学校で相撲部に所属しており、早大高等学院に入ってからレスリングで叩き上げたという、柔道の手あかに染まっていない「純粋培養レスラー」。八田も大きな期待をかけていました。
 もう一人の決勝進出者は…「専大柔道部にその人あり」と言われた柔道の大豪・矢田部勇次五段。
 じつは矢田部五段、小谷や吉田に続く講道館レスリング部の次期エースと目されており、五輪後まる1年息をひそめていた講道館レスリング部が再起を賭けるのに、うってつけの選手でした。
 意地悪い見方をすれば講道館は、新免伊助・小谷澄之・吉田四一といった「鉄砲玉柔道家」たちの失敗から何も学ばず、またしても柔道の高段者でアマレスの派遣を握ろうとしたわけです。本当に救いようがありません。

 大方の予想は「矢田部圧勝」でしたが…なんとこの予想を裏切り、勝負は僅差の判定で風間が勝利。
 この勝利については「ジャッジが早大系だったから風間が勝った」という噂が絶えませんでしたが、レスリングを初めて2~3年の若者が、わが国の柔道史上、選手のレベルが最も高かった時代のトップ選手と互角以上の戦いをしたという事実は間違いなく、「やはりレスリングはレスリングの練習をしなくちゃダメだ」という八田や体協の見解が、ようやく満天下に知らしめられたわけです。
 しかし、執念深さと嫉妬深いさでは人後に落ちない講道館レスリング部は、八田にとんでもない「復讐」をしかけます。

 翌昭和10(1935)年4月、専修大学にレスリング部が発足しましたが、その陣容を見た八田は、わが目を疑いました。
 なんとその陣容は先の矢田部や、矢田部の敗戦にいきり立って「風間を(物理的に)殺す!」と息巻いていた矢田部の後輩部員・住吉壽(すみよし・ひさし。なんと大学生のくせに、玉ノ井遊郭の用心棒をしていた( ゚Д゚)ので、「物理的」というのはガチだったんです)などなど、講道館レスリング部の面々ばかりで構成されていたのです。
 詳細はだいぶ端折りますが、八田率いるアマレス協会(≒早大レスリング部)と専大レスリング部(≒講道館レスリング部の亡霊)との戦いは、この直後に行われたベルリン五輪予選の選手選考に始まって、大東亜戦争をはさんで、昭和27(1952)年の八田会長排斥クーデター(専大レスリング部監督の畠山達郎らが明大レスリング部幹部を抱き込み、「八田はカネに汚い、不明朗会計がひどい」ということを理由に会長不信任案を提出。八田を追い落としてお飾りの会長を立て、自分たちがアマレス協会を牛耳ろうとした事件)まで続き、八田を大いに苦しめることとなりました。
 けっきょく八田と「講道館レスリング部の亡霊」との闘いは、昭和29(1954)年のレスリング世界選手権東京大会の開催を前に、「世界大会をやるのに、ケンカなんかしてる場合じゃない」という形でウヤムヤのうちに収束するまで、実に20年以上も続いたわけです。

 本連載のシメに、上記の八田会長排斥運動の際、造反組・明大側の幹部でありながら「八田信任」に票を投じ、八田の続投を支えた明大OB・村田恒太郎の言葉を書き残します。
「八田は早稲田ばかりひいきして、協会の役員もほとんど早稲田。だからもちろん八田批判はあったさ。でも造反組は戦前から反早稲田勢力でアタマの悪いヤツらばかり。単なる八田憎しで何のポリシーもなかった。」
 村田の言葉はこのクーデター問題のみならず、日本スポーツ界が誇る一代の傑物・八田一朗のやることなすことを全て邪魔し続け、日本レスリングの発展を阻害した汚物である「講道館レスリング部」の本質と、それを野放しにした晩年の治五郎先生の不明の双方を、正確に表現しています。

 以上、8回にわたって講道館公式HPはおろか、講道館が山ほど発行してきた公刊雑誌・史書からもその存在を抹殺されている「講道館レスリング部」の誕生から滅亡までの歴史を見てまいりました。

 こうやって「講道館レスリング部」の陰謀や悪行、そしてそれが上滑りしての大失敗の数々を仔細に眺めていきますと、講道館レスリング部はオリンピックという国際スポーツの祭典を「日本レスリング界のイニシアチブ獲得」という薄汚い野望を実現するための道具と化し、散々ひっかきまわしたという点において、「嘉納健治伝」で紹介した「サンテル事件」を大幅に超えて悪質なできごとと言わざるを得ません。
 そのあたりは講道館も後ろめたさが相当あったようで、「レスリング部」に関する記録や資料を、驚くほどきれいに消し去り、あるいは核廃棄物並みの封印を施して、全てを亡きものにしています。
 このあたりは、外務省が「外交電報」を、満州事変まではきっちり残しているクセに、自らのミスや不手際を隠すため、シナ事変から敗戦までのものを全て焚書したのと全く一緒です。

 そうした事情から、「講道館レスリング部」の当事者が残した資料が驚くほど少ないなか、最も参考になったのは「大日本体育協会史」と「オリムピック大会報告 第10回」の2冊。
 八田や小谷の自伝も大変参考になったのですが、けっきょくは「当事者」の証言ですので、話を美化したり、盛ったり、あるいは意図的に記載を避けている箇所がけっこう見受けられました。
 しかし体協は、柔道やアマレスとは一線を画した統括団体ですから、その記録は詳細、かつ、戦評は非常に公正で、「講道館レスリング部」の闇を照らす懐中電灯の役割を果たしてくれました。
 ワタクシが体協の岸清一会長(当時)や平沼亮三選手団長(当時)らに深く感謝したのは、言うまでもありません。
 
 講道館レスリング部とは我が国のスポーツ史に短期間だけ咲いた、黒く汚い「悪の華」であり、燦然?と輝くひどい「黒歴史」でした。

【本連載は、以下の書籍を参考としました】
「私の歩んできた道」八田一朗 立花書房
「勝負根性」八田一朗 実業之日本社
「柔道一路 海外普及に尽くした五十年」小谷澄之 ベースボール・マガジン社
「柔道年鑑」 昭和40年版
「秘録日本柔道」工藤雷介 東京スポーツ社
「大日本体育協会史 下巻」大日本体育協会編・刊
「オリムピック大会報告 第10回」大日本体育協会編 三省堂
「新体育」第25巻8号(昭和30年) 新体育社
「日本レスリングの物語」柳澤健 岩波書店 

日本レスリング黎明史≒講道館の激烈!黒歴史(その7)

2024-02-20 08:14:14 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 今回は、ロス五輪における日本レスリング陣の大惨敗と、庄司彦雄の団体の消滅、そして講道館レスリング部の「潜伏」についてです。

 五輪開会式を数週間後に控えた7月中旬、大日本体育協会・岸清一会長に率いられた選手団は2班に分かれてロサンゼルスに到着。レスリング選手として出場が決定した小谷・吉田も選手団とともに選手村に入村します。
 日本選手団の監督は佐藤信一。小谷とは東京高師の先輩後輩の間柄でしたが、この佐藤は陸上の選手で、格闘技は全くの門外漢でした。これはおそらく、柔道選手ばかりの選手団にどこかの柔道家を監督にした場合、必ずケンカが起きると踏んだ体協の配慮と考えられます。
 ちなみに主将は講道館レスリング部の鈴木英太郎。日本初のレスリング部を作った八田を差し置き、鈴木が主将になるといったあたりに、講道館が他2団体より頭一つ上のイニシアチブを取ったことが伺えます。

 日本選手団の到着を待ちわびていた在米コーチ・モアー(小谷と吉田のコーチ&日本選手団公式コーチ)は「早速練習しよう」と持ち掛けますが、なんと驚くべきことに、選手7人による合同練習はけっきょく、競技開始のそのときまで、ついに行われなったのです。
 今まで見てきましたとおり、7人の選手は利益を全く異にする団体から2:2:3で拠出された寄り合い所帯であり、お互いが「コイツらと一緒に練習なんかしたくない」というギスギスした空気を、バリバリ醸し出していました。
(※ この話のソースは小谷自伝。なお小谷自伝では、「早速練習しよう」と持ち掛けたのは小谷自身となっているが、小谷も所詮講道館の一味であり、信憑性に欠けることから取り上げず、コーチであるモアーが呼びかけた説を採用した)

 驚くことはまだありました。
 選手・役員の誰一人として「最新の国際式ルール」と「計量の詳細」を知らなかったのです。

 何をしたらフォールになって、何をしたらなったら何ポイントを取られるか?試合は何分何ピリオドなのか?そして計量は前日軽量なのか、当日計量なのか?こうしたルールは参加国の利害によって、大会ごとにコロコロコロコロ変わりますから、しっかり確認しなければなりません。
 特に日本の場合、レスリング競技の審判には日本人がいませんから、僅差判定の場合、「人種差別は当たり前、スポーツは白人様の娯楽」だった当時、日本人不利となるのは明白ですから、なおさら細かいルールをしっかり押さえておく必要があります。

 しかし日本選手団のアタマのなかにあったのは、庄司彦雄がアメリカから持って来た「カレッジ・スタイル」という、国際式ルールとは似て非なるレスリングの知識と、「柔道の前にはレスリングなどひとたまりもない」という、神がかり的な頭の悪さだけでした。
 お笑い沙汰なことには、講道館が満を持して海外派遣していた鈴木・小谷・吉田も結局は「カレッジ」の練習しかできておらず、国際式に対応する能力はなかったのです。
 八田は五輪後、こう反省しています。
「大きな敗因はオリムピックルールがはっきり解っていなかった事で試合後に解ったルールなどもたくさんある」
 そうしたシビアな点に戦後気づいたのは、八田だけでした。

 さらにさらに、出場選手の中に小谷と吉田が割り込んだため、もともとフリースタイル5階級に1人ずつ出場する予定が大幅に狂い、イチから出場する枠を再調整しなければならなくなりました。
 これを意地悪く見れば、講道館は自分たちが送り込んだ「隠し玉」によって、自分たちのメダル獲得の可能性を狭めてしまったと云えます。「策士、策に溺れる」とはまさにこのことでしょう。

 けっきょく日本選手団はドロナワの出場調整をせざるを得なくなり、以下の競技・階級での出場となりました。
※八田一朗の記録に依る。段位は柔道のもの。なお当時は「フリースタイル」ではなく「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」が正式呼称。

①フリー・ライト級 鈴木栄太郎(四段・講道館レスリング部)
②フリー・フェザー級 八田一朗(五段・アマレス協会)
③フリー・ウェルター級 河野芳男(四段・レスリング協会)
④フリー・ミドル級 小谷澄之(六段・講道館レスリング部)
⑤グレコ・フェザー級 加瀬清(五段・レスリング協会)
⑥グレコ・ライト級 宮崎栄一(三段・アマレス協会)
⑦グレコ・ウェルター級 吉田四一(四段・講道館レスリング部)

 この7人のうち、1勝以上を上げたのは小谷だけ(5位)。あとは皆、1ポイントも取れずに惨敗を喫しました。
 ちなみにそのほかの講道館勢ですが、鈴木はハンガリーの選手を相手に何もさせてもらえず惨敗、吉田は慣れないグレコに出場した挙句に、フィンランドの選手にフルネルソンという、初歩中の初歩の固め技を食らって肩を負傷、これまた惨敗しています。
 日本国外で練習していないアマレス協会やレスリング協会の選手ならさておき、講道館が考えた「海外レスリング留学」っていったい、何だったんでしょうか(;^ω^)。

 この惨敗の評価については、レスリングの門外漢でありつつも、当時日本で一番「スポーツ」というものを真剣に考えていた大日本体育協会のものが最も的を射ているので、少し長くなりますが抜萃して紹介します。
「羅府大会に、多くの柔道高段者を送り乍(なが)ら惨敗を喫した事は、日本のレスリング技術を再検討せしめる好機となった。
 すなはち、従来の日本のレスラーは、柔道家なるが故にレスリング技術を研究しなくても、柔道を奥の手として勝てる―と云った自信を持ちレスリングのマットの上で尚、柔道を頼り、柔道の技術を有効として信じて疑わなかったことだ。
 所が、この柔道信頼が実際は、案外無効であり、レスリングは矢張(やはり)、全然柔道とは別個のものである事を、羅府大会参加の失敗が如実に認めさせてくれた。」
 
 体育協会は次いで、アメリカ式のアマレスである「カレッジ・スタイル」をちょっとかじっただけのアメプロ・マニアでしかなかった庄司彦雄を、名指しで批判しています。
「また庄司が日本に伝えた従来のレスリングは米国流レスリングで有って、オリムピック・レスリングと相当開きのあることを発見した等惨敗を喫したとは雖(いえども)、羅府大会参加はレスリングに対する正しい認識を収穫として齎(もたら)した。」
 
 ちなみにこのロス五輪における日本勢は、南部忠平や西田修平といった陸上陣、宮崎康二・北村久寿雄・清川正二・鶴田義行ら競泳男子陣、馬術の西竹一らが大活躍。最終的に金7・銀7・銅4という、戦前最大のメダルラッシュとなりました。
 その成功の裏で、最後の最後まで日本選手団の足を引っ張り回してくれたレスリング勢、とりわけ後になってノコノコ出てきてレスリング界を引っ掻き回してくれた庄司のレスリング協会、そして講道館レスリング部に対し、体協はかなり怒りを覚えていました。

 庄司の団体に対しては上記のとおり、「体育協会史」で静かな言葉ながら「このインチキヤローが!」と名指しで批判しています。
 講道館レスリング部については、嘉納治五郎大先生が体協の生みの親であり、且つアジア人唯一のIOC委員ということもあり、名指しでの批判こそ避けましたが、「柔道信頼が実際は、案外無効であり、レスリングは矢張(やはり)、全然柔道とは別個のもの」として、講道館の柔道式レスリングは「失敗」と言い切っており、また、五輪後の大会報告・戦評を、監督の佐藤でも主将の鈴木でもなく、五輪においてはいち選手でしかなかった八田に書かせているあたり、体協がいかに「講道館レスリング部」を嫌っていたかがわかります。

 ロス五輪後のレスリング3団体ですが、まず庄司は日比対抗戦で大借金を作って逐電したときと同様、すぐさま行方をくらませました。庄司の作った団体には、「類友」…つまり庄司と同じく、レスリングを出世や売名の手段としか考えていないヤツばかりで、八田のような気骨ある男は皆無。
 こうして「大日本レスリング協会」はすぐさま瓦解しました。
(ちなみに庄司はその後地元・鳥取に戻り、日本社会党から国会議員に立候補し、衆院議員を1期務めました。ちなみに9回立候補して当選は1回だけ。やはりこういう図々しく、しぶといヤツって政治家に向くんですね( ゚Д゚))

 次いで講道館レスリング部ですが、こちらは「何かあったらすぐトンヅラ」の庄司と違い、やることに手が込んでおり、従って非常に見苦しい「往生際」を見せました。
 最終回となる次回は、少し長いエピローグになりますが、「五輪後の講道館レスリング部とそのゾンビに、最後までカラまれ続けた八田一朗」のその後を見てみます。

日本レスリング黎明史≒講道館の激烈!黒歴史(その5)

2024-02-04 14:09:33 | 集成・兵隊芸白兵雑記
「その3」「その4」では、早大レスリング部と八田一朗の動静を2回に分けて見てみましたが、今回はとても気になる「講道館レスリング部」の動きの方も見てみましょう。

 八田たちのアマレス協会発会と相前後して、あの日比対抗戦で大借金を作った挙句に逃亡した庄司彦雄元コーチが夢よもう一度、と「大日本レスリング協会」を発会。講道館もほぼ同時期に「講道館レスリング部」を立ち上げます。
 「裏番長」が治五郎先生なのはわかりきっていることなのですが(;^ω^)、表向きの代表は、立教大学柔道部を創部した講道館の大幹部・田口利吉郎。 
 発会したばかりの講道館レスリング部ですが、実はこの時、アマレス協会やレスリング協会に先んじて強力な「隠し玉」をアメリカ向け派遣していました。
 それは後にロス五輪レスリング競技に「講道館代表」として出場した選手3人のうちの1人、小谷澄之(明治36(1903)~平成3(1991)年、最終段位十段)。
 ちなみに小谷澄之とはいかなる人物かと申しますと、身長162センチ・69キロ(全盛期)という小兵ながら明治神宮大会制覇、昭和4(1929)年の天覧試合には指定選士となるなど、要するに「戦前最強クラス柔道家の1人」です。

 小谷の自伝「柔道一路 海外普及に尽くした五十年」(ベースボール・マガジン社)によると、満州鉄道大連本社勤務&満鉄柔道部のエースであった小谷が、日本郵船が誇る最高級旅客船「秩父丸」に乗ってサンフランシスコ向け出港したのは、オリンピックが始まる約4か月前、3月下旬のこと。
 小谷の自伝によると、派遣理由は満鉄から「米国における体育ならびに厚生施設をはじめ、特に鉄道関係の厚生事業を見学」(前掲著より)せよという、取って付けたようなものでしたが、その本当の派遣理由はこれです。
「ロス五輪のレスリング競技に出て、メダルを取ってこい。」

 講道館のこの「密命」は、小谷に対して明言されたものではないのですが、前掲著から判明している状況証拠として
・この米国派遣は小谷だけでなく、同じく小兵の業師で、のちに小谷と共にロス五輪レスリング競技に参加した吉田四一五段も同道する予定だった。
(ビザ発給に手間取ったため小谷だけ先行。吉田は後から追いついた)
・派遣時期が五輪の数か月前、しかも講道館レスリング部発会とほぼ同時期
・渡航先が五輪開催地・ロサンゼルス
・小谷・吉田とも、渡米直後に「偶然にしては出来過ぎ」というような状況でレスリングをやるようになった(詳細は「その6」で述べます)
というものであり、はっきり言って「講道館が小谷をレスリング選手に仕立てようとしていた」ことは明白。小谷も当然そのことは分かっていたはずであり、「柔道の普及のために渡米したら、なんとなく成り行きで五輪に出るようになってしまった」と言っても、誰も信じないと思います。
 自伝において、小谷はあくまで「成り行きのまま五輪出場した」と主張していますが、後世「柔道海外普及の父」と謳われ、十段まで授与され、「柔道界の生き神様」みたいな存在となった小谷にとって、講道館自体の黒歴史である「講道館レスリング部」に所属したことも、五輪に出場して不調だったことも、すべては「封印したい過去」であったため、「全ては成り行きだったんだ」という体を保ち続けたかったんだと思います。
 閑話休題、話を講道館レスリング部の方に戻します。
 
 講道館の「日本レスリング乗っ取り計画」の骨子をお話ししますと、以下のようなものでした。
「八田の協会も庄司の協会も、所詮は部活の延長みたいなものであるうえ、何より慢性的な金欠で、海外に選手を派遣できるようなカネはない。
 そこへ行くとわが講道館は分厚い選手層と豊富な資金、広い海外ネットワークを持っている。
 五輪に先駆けて有望選手を先に外国に送り込んでレスリングに慣れさせ、八田のところの選手や庄司のところの選手よりハイレベルなレスリング選手を先に作ってしまえば、体協も八田も庄司も、その出場を認めざるを得ないだろう。
 あとはメダルさえ取ってしまえば、水が低きに流れるがごとく、日本レスリングのイニシアティブは講道館の手に落ちる。」

 これを裏付けるように、講道館は発会と同時に「五輪選手を講道館から独自に推薦する」ことを発表します。
 4月10日、講道館レスリング部長・田口利吉郎は体協理事会において、コロンビア大学に留学中の鈴木英太郎四段を推薦。しかしこのときはまだ「隠し玉」の存在を明かしていません。


 勢いに乗る講道館はさらに、八田のアマレス協会に対して「降伏勧告」も行います。
 当時のアマレス協会幹事で、八田とともにロス五輪にも出場した宮崎米一の証言によると、講道館は八田のところに使者を送り、「日本レスリングを作るなら本部を講道館に置きなさい。そうすれば諸君たちの段を1つずつ昇段させてあげよう」と勧告しましたが、八田は「そんなバカなことはできません!」と一蹴したそうです。
 
 いっぽう、庄司のところの「大日本レスリング協会」は、体協の許可なしに勝手に「オリンピック予選会」なる大会を開催。明大・立大の柔道部員や相撲部員が参加したこの「予選会」に対して体協は「去年公式大会をしたくせに、今頃になって何をふざけたことをしているんだ!」と激怒。当然、公式な五輪予選とは認められず終わりましたが、こっちも講道館・アマレス協会に対し、明確な敵対姿勢を見せます。

 五輪をわずか3か月後に控えた日本レスリング界は、こうしてにわかにカオスの様相を呈してきました。

雑記・一見「正論」の正体は「変質した汚い攻撃性」

2024-01-28 10:51:55 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 「講道館の黒歴史」をちょっと中座しまして、ひさびさの雑記です。

 もう縁が切れて久しいのですが、N村という上司がいました。
 コイツはワタクシの長い会社員生活の中でも「最狂」の称号を与えてまず間違いないキチガイで、「よくこんなヤツを病院に閉じ込めず、一般社会に野放しにしているもんだ」と感心する位でした。
 ベストセラー「ケーキの切れない非行少年たち」(宮口幸二・新潮新書)の作中、「非行少年の多くはその劣悪な生育環境から、見たものをそのまま受け入れることができず、ゆがんだ状態で認知する。そんな状態の人間に対して、常人に行うような情操教育を施すことはムダ以外の何物でもない」という意味の論を展開していましたが、N村はまさに「非行少年」と同じ認知能力しかなく、記憶違いや歪んだ認識に基づいて「アレができてない」「コレがない」「オレしか真実を知らない」などとわめいては、部下のワタクシや、他係の同僚の迷惑をかけつづけるという、とんでもないトラブルメーカーでした。
(なので、「迷惑な人間を缶詰にして外に出さない」部署に7年も閉じ込められていたわけですが…たまたま所用で、1年ほどその「缶詰」の中に、「部下兼キチガイのお守り役」として入ってしまったため、エラい目に遭ったわけですね(;^ω^))

 そんなN村はものごとの認知能力に問題があるため、「他者との雑談が続かない」という欠点がありました。
 コイツは雑談や説教の導入パターンが大体同じで、まずは誰もが知る「正論」から入るのです。「●●の法則というのがあって…」とか「機械というのは●●という原理があって…」みたいな感じに。
 そしてそこから「こういうことを知っているオレは賢い」「知らないお前はバカ」という話にズレていき、最後には人の悪口や罵倒に至る、という感じでした。
 今思い返してもN村の「雑談の導入」はまさにこのワンパターンで、ほかの導入を見たことがありません。「会話が続かない」というより、そもそも「コイツと雑談したい人間が周りにいない」というのが正しい表現なのかも知れませんが(;'∀')。

 N村の例はちょっと極端としても、世の中にはこうした「正論から入って人に迷惑をかける」ヤツは大変多い(一番顕著な例は、最近猖獗を極めている「フェミニズム」とか「ポリコレ」とかいうアレ)わけですが、N村も含め、こいつらの操る「正論」の本質が何かというというと「変質した攻撃性」です。
 
 昭和40(1965)年1月から約60年近く続く長寿ラジオ番組「テレフォン人生相談」の司会でおなじみ、加藤諦三氏の著書「テレフォン人生相談 心の仮面をはずそう」(ニッポン放送出版)によりますと、憎しみや怒りから発する人間の攻撃性は
①異様な陽気さ
②みじめさの誇示
③復讐的行動
④過保護な愛
⑤攻撃的不安(不良少年とかが寂しさから非行に走ったりするアレ)
⑥「べき」の暴君(正論を盾に「アレがけしからん」「コレがけしからん」というもの)
⑦嫉妬、妬み
に変化して顕在化するということで、N村やポリコレなどはまさに⑥に該当します。

 では、こうした人間に出会ったときどう対応するのが良いのか?
 これに決まった答えはありませんが、上策としては「関わり合いにならないようにして、時々適当に頭を下げる」中策としては「適当にあしらう、無視」下策は「説明して説き伏せる」でしょう。
 ⑥に狂っているヤツは歪んだ認知を正義と信じて疑っていない、いわゆる「無敵の人」なので、口論はするだけムダです。
 それは吠え掛かってくる犬に対して、こちらも四つん這いになって吠え合っているのと同じで、不毛以外の何物でもありません。前出「ケーキの切れない非行少年たち」で宮口氏が指摘した「頭のおかしい非行少年に、常人向けの矯正教育はムダ」と喝破した、まさにあの理由と同一です。同様の理由から「暴力でわからせる」のも全くムダで、ただ更なる恨みを買うだけとなります。
 また、中策として掲げた「適当にあしらう、無視する」は、うまくやればキチガイをあしらう有効手段となりますが、「あしらう」「無視する」があまりにあからさまだと、恨みを買う可能性がありますので、完全なる上策とはいえません。

 「時々適当に頭を下げる」はどこかの本で読んだ「愚人にはひたすら頭を下げよ」という記述のアレンジですが、これは意外と有効でした。
 いくら認知が歪んだクズ人間でも、下げた頭にさらなる攻撃を加えることはなかなかできません。攻撃性が変質した行動には、攻撃性を満足させてやる行動をとるのが一番ですから、こうした行動が一番角が立たない「キチガイの鎮静化」といえましょう。
(下げた頭に更に攻撃を加えてくる真のキチガイの場合は、正当防衛または緊急避難攻撃を繰り出すこともできますしね(;^ω^))

 世の中にはこのN村やポリコレ馬鹿のみならず、自らの歪んだ攻撃性を、何かの行動に変質させて絡んでくるクソ野郎がいっぱいいます。
 それに対して直接対決することは、はっきりいって時間と体力、精神力の無駄遣いですのでやめましょう。そんな馬鹿とからんでいる時間があるのなら、それを楽しいことに振り替えたほうがよほど建設的です。
 また、そのような馬鹿からは間違いなく人が離れていきます。
 お金と幸せは、人が運んできます。それを自分から排除するような馬鹿は、必ず社会から復讐されます。

 弊ブログをお読みの諸賢におかれましては、そのようなキチガイに遭遇した場合は、「珍獣が吠えている」程度に認識され、穏やかに過ごされますよう切望致します。

 あ、あと、キチガイと1年ばかり過ごした数少ないメリットとしましては…「多少の変な人間や出来事には、全く動じなくなった」「バカやキチガイの行動パターンが読めるようになった」ことくらいですかね。
 まあとにかく、今は普通の職場に復職でき、ほっとしています。

日本レスリング黎明史≒講道館の激烈!黒歴史(その4)

2024-01-22 18:37:33 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 早大柔道部や講道館から白眼視されたため、ありとあらゆる道場から締め出され、練習場所を持たなかった早大レスリング部ですが、現在の新宿区小滝橋に所在した中沢六段(当時)の道場が全面協力を表明したことでようやく練習拠点ができ、その後、部員・佐藤竹二の姉(出版社・日映社の社長)が600円(現在の200万円弱)もの大金をポンと寄付してくれたことにより、大隈講堂の横に「三十坪の倉庫のような」(「私の歩んできた道」八田一朗)ジムが作られたこともあって、意気は非常に軒昂でした。
 ただ、前回お話ししたとおり、庄司コーチにレスリングの基礎知識はないに等しかったことから、せっかく常設道場ができたにも関わらず、そこで当時の早大レスリング部が行っていた練習は、どこからどう見ても「裸の柔道」(「大日本体育協会史 下巻」)でしかありませんでした。
 こんにちの我々から考えますれば、「こんな状態でよくもまあ、来年開催のオリンピック出場を企図したものだ」と呆れるばかりであり、その無鉄砲さは、ひと昔前の少年ジャンプやコロコロコミックの主人公すら凌ぐ!としか思えません。
 しかし、当時の早大レスリング部のメンバーは素朴に純粋に、本気の本気で五輪出場を狙っており、熱心に「裸の柔道」の練習を繰り返していました。

 日本唯一のレスリング部だったため、対外試合もなく、同じメンバーで同じ練習を繰り返すこと数か月。いろいろ煮詰まった早大レスリング部は「五輪出場を視野に入れるなら、国際試合をしなければ!」と思い立ち、本邦から最も近いレスリング競技国国…当時アメリカの植民地だったフィリピンのレスラーと国際試合をやろう!と衆議一決します。
 さっそく大学当局に「国際試合をやりたい。カネの援助を」との申し入れましたが、大学の正式な「運動部」として認可されていない、現代でいう「サークル」扱いだったレスリング部の要望など承認される道理がなく、「何を夢みたいなことを。ふざけんな」の一言であっさり却下。
 しかし八田主将と庄司コーチは全く気落ちすることなく、「されば、我々が自力でやろう」と決意。政治家志望の庄司コーチはここで「無から有を生ずる経済学」なるものを唱え、この国際試合開催にも、それを当てはめようとしました。
 その軽薄な考えが、早大レスリング部を存亡の縁に追いやります。

 庄司コーチが言う「無から有を生ずる経済学」なるものの実態を簡単に言えば「野球部の部費を、うまいこと言って掠め取る」ことでした。
 弊ブログで連載中(長期休載中でゴメンナサイm(__)m)「霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝」でも書きましたが、昭和ヒトケタ初年のこのころ、東京六大学野球、とりわけワセダの試合は驚くべき集客数を記録しており、当然部費は潤沢そのもの。昭和2年の時点で、鉄筋コンクリート製の1軍合宿所がいとも簡単に作られていたくらいですから、その潤沢さは、今日のプロ野球球団に伍するほどでした。
 それに目を付けた庄司は、野球部に対しては「レスリング部の国際試合開催計画が、レスリング部の喜多部長から総長に対して申請され、総長は『野球部の部費を一部回してやれ』とおっしゃった」、大学総局側に対しては「国際試合開催について野球部に話をしたところ、快く『部費の一部を回してやってもいい』と言っていただいた」と説明することで野球部費をくすね、それを試合の開催費用に充てようとしたわけです。

 双方にとりあえず説明を済ませたことで「計画成功」と踏んだ庄司コーチと八田は、フィリピンのレスリング連盟に対して「大会開催決定、アゴアシマクラ完備」を通知。フィリピン側はこれを受け、わざわざ予選会まで行ったうえで、5人の選手の派遣を決定。ジュアン・ビネダ監督に率いられた5人のフィリピン選手は昭和6(1931)年11月12日に来邦しました。

 この「日比対抗戦」は、12月18日~昭和7(1932)年1月15日にかけ、東京・名古屋・横浜の6会場を巡るツアー形式で行われました。
 その結果を「勝ち負けの数」から単純にいえば「日本側の圧勝」でしたが、試合ルールは「試合会場はリング」「フォールは3カウント」「体重制無視」という完全なアメリカン・プロレス。
 当時フィリピンは米領であったため、選手がアメプロに近い「カレッジ・スタイル」のレスリングに慣れていたことや、アゴアシマクラを日本側に持ってもらっているという弱みがあったため、フィリピン側はこの珍妙なルールに従いましたが、今こんなことをやれば、大問題間違いなしです。
 「大日本体育協会史 下巻」はこの試合を
「各試合を通じて、深く省察すれば、多くの場合比島選手は日本選手より重量軽く、重量の差が相当勝敗に影響している」
「日本選手も、レスリング技術を十分消化しているものは少なく、裸の柔道からあまり遠いものではなかった」
と評しており、技術的に全く見るものがない試合であったことが伺えます。

 それはともかく、「国際試合」を勝利のうちに打ち上げた早大レスリング部一同は得意満面だったのですが…その直後から一転、早大レスリング部、とりわけ八田主将には、強烈な試練が待ち構えていました。

 「無から有を生み出す」庄司コーチの謀略???は完全なる不首尾…どこからも全く相手にされず、当然、アテにしていたカネは一銭も入ってきません。
 まず困ったのは、フィリピン選手団を帰国させる船賃がない!
 驚くことに早大レスリング部は、フィリピン選手団が帰国する船賃を全く用意しておらず、「カネがない、カネがない」と騒いでいる間に、フィリピン選手団が乗るはずだった客船は横浜を出港。置いてけぼりを食らったフィリピン選手団は、アメリカ領事館に「早大に騙された!」と駆け込み、大騒ぎとなります。
 領事館からはレスリング部に対し「カネを出せ!」と矢の催促。こうした場合、まず対応すべきは喜多部長、あるいはコーチの庄司なのですが、喜多部長は部を学校側に認めさせるための「お飾り部長」であり、この対抗戦自体あずかり知らぬこと。となれば、次はコーチである庄司が金策の責を負うべきなのですが、なんと庄司はこの事態に際し…なんと、トンだのです。
「『無から有を生む』の先生、庄司は逃げてしまい、行方不明である。」(「私の歩んできた道」八田一朗)
 いまだ本邦に滞在しているフィリピン選手団の滞在費、そして帰国のための船賃を賄う責務は、主将・八田の双肩にかかることとなりました。

 八田は「早大レスリング部の不始末は、親である早大が負うべきだ」との甘い認識のもと、まず早大本部に駆け込みますが、当然一切相手にされません。さればということで、田中総長邸前で座り込みをしますが、これまた門前払い。その足で八田が一縷の望みをかけて訪問したのは、部長・喜多壮一郎教授宅でした。 
 深夜に強引な訪問を受けた喜多教授は、怒りを露わにしながらも、八田をこう諭します。
「キミのやったことは悪いとはいわん。(中略)だがそれは、学生の分に過ぎたことだ。勝手に借金をつくっておいて、それを学校に尻ぬぐいさせようなどと考えたって、そうはいかない。」(「私の歩んできた道」より抜粋)
 喜多教授は「レスリング部は庄司と縁を切る事」を条件に、総長や監事に話をつけることを承諾。なんとか千円の旅費を借り受けることに成功した八田は、フィリピン選手団を汽車に乗せ、神戸港で予定していた船に乗せることに成功しました。
 しかしこの千円も、大学当局が「立て替えた」という性質のカネであり、借金であることに変わりはなく…それ以外にも、早大レスリング部が合宿で食べたソバの代金、選手たちの銭湯代などなど、この「国際試合」に関連した、ありとあらゆるカネが八田の下に請求され…その負債額、当時の金額で実に5000円!現在の貨幣価値に換算すると、2000~3000万円の大借金です。
 けっきょくこの借金は、八田が一芝居打って、はっきり言えば「踏み倒す」形で決着しましたが、この一大事に際して逃亡した庄司と早大レスリング部は完全決裂しました。
 しかし庄司の離脱は金銭面だけではなく、思わぬ形で早大レスリング部に負の影響を与えます。
 
 といいますのも、もともとロス五輪の出場を目的に結成された早大レスリング部ですが、そのためにはまず、早大レスリング部を大日本体育協会(現在のJOC。以下体協)配下の団体として登録しなければ、五輪に代表選手を出すことはできません。
 実は早大レスリング部を体協統括団体とするための交渉の一切は庄司が請け負っていたため、「庄司の逃亡=早大の体協加盟が宙に浮く」ということとなってしまったのです。
 八田は「こうなったら、自分が全てやるしかない」と発奮し、庄司逃亡の直後となる昭和7年4月12日、大日本アマチュア・レスリング協会を設立します。
会長が早大を卒業したばかりの八田、そしてあの怪著「レスリング」の翻訳者・山本千春、宮崎米一といった早大レスリング部関係者が幹事となり、早大・慶大・明大レスリング部が参画しました。

 体協は「これで初めての統括団体ができた」ということでホッとしたわけですが、八田の協会発会を面白く思わない2勢力が、開催まで残り3か月となったロス五輪出場に向け、猛スパートをかけてきます。
 その2勢力とは、まだまだレスリングに色気と未練を残している講道館、そしてこのときは逐電中なれど、まだまだ燃える野望だけは満々と持している庄司。
 ようやく安定化に向かい始めるか?と思われた日本レスリング界は、講道館と庄司の野望の顕在化により、にわかに混迷の度を増してきました。