次に肝心の試合内容に関してです。
富田は「恐ろしい勢ひで立ち上がるや否や、前へ乗り出して吾輩をむんずと攫(つか)まへて来た」中村師範を「巴投げで一本投げた」そうですが…これは古い柔術を知っている人、あるいは富田が七段に据え置かれた原因となった戦いを知る人からすれば、噴飯物の捏造です。
講道館のウソ歴史チームは、あらゆる文献において、総じて「相手の突進力を応用して投げる技はすべて講道館発祥」(代表的なのが西郷四郎の山嵐)などとアホなことを書き立てていますが、これは「尖閣諸島は歴史的に見て中国の領土」「竹島は歴史的に見て韓国の領土」というのと同レベル、根無し草のトンデモ主張です。
「お侍さんの組み討ちに役立つ」ことを主用途とする伝統的柔術において、自分の上に覆いかぶさって攻め来る者を、体を入れ替えて下からひっくり返す技術は必須中の必須科目。特に、相手の金玉を蹴り上げつつひっくりかえす「巴投げ」の名人は、本当にたくさん存在しました。
当然その中には、各種捨身技から、体を入れて抑え込むことに練達した中村師範も含まれます。
余談ですが、明治時代に生きた伝統的柔術家の中で「巴投げの名人」といえば岡山県は竹内流・片岡(金谷)仙十郎。同郷の不遷流・四世田辺又右衛門とともに、黎明期の講道館を寝技で散々に打ち破った強豪です。
田辺又右衛門が遺した口述筆記によると、片岡仙十郎はただ投げるだけではなく
「投げが最初に効いたときは、直ちに次の寝技に入った」
「相手の体が蹴り上げられて下に落ちないうちに、『逆(関節技のこと)だアー』と一声。たちまち腕挫ぎを取ってしまう」
と、スタンドからグラウンドへの連携も完璧でした。
その片岡仙十郎に勝るとも劣らぬ名人で、「捨て身技とは何か?」ということを高いレベルで知り尽くしている中村師範が、富田がいうような「むんずと攫まへ」るような雑な掴みをするはずがなく、たとえそうであったとしても投げられるなんてことはありえない。
もし中村師範の「むんず」を富田が食らった場合、巴投げで投げるどころか、単純に膂力と体格差で、動くことすらできなかったはずです。
富田は後年、柔道普及事業を展開していたアメリカにおいて、レスリングを修めた大男に「むんずと攫まへ」られた際に全く何もできず、ペシャンコに叩きつけられて惨敗を喫していますが、要するに富田の柔道のレベルなんて、その程度のものでしかなかったのです。
ちなみに中村師範は、左右の手に米俵を1つずつ持って風車のごとく振り回すことができた上、久留米時代には暴漢相手に大八車を横に振り回し(!)、数名を一撃のもとに屠ったほどの金剛力を持っていました。
もし中村師範が実際に富田と戦ったのであれば、先述のアメリカンレスラー同様、富田をケチョンケチョンに投げ捨てているでしょう。
(この「アメリカにて富田惨敗」の話は後述します)
最後に…これが最もおかしいのですが、富田が中村師範を締めで倒したという結末。
富田の証言では、富田は中村師範を巴投げで2回投げたあと、「腰投げをかけて潰されたか、或いは両足にかぢりつかれて、そのまま抑えられたかは忘れたが、兎に角吾輩は下から十字に締めて」勝ったというのです。
これまた少しでもグラップリングというものをわかっている人間なら、噴飯物の大嘘です。
草創期の講道館の技術は、ひと言でいえば「相手をコケさせる」ことだけに特化した柔術であり、寝技はまるでお話になりませんでした(これは井上康生がナショナルチームの監督になる平成末年まで続く、講道館の宿痾となる)。この詳細については既に、弊ブログのいろんな「講道館ウソ歴史暴露シリーズ」でお話ししていますので省きますが(-_-;)。
そんな草創期の講道館「だけ」でしか柔術修行をしていない富田相手に、当代随一のグラップリングの名手であった中村師範が寝技で不覚を取る道理がありませんし、また、たとえ富田の手が中村師範の襟首にかかったとしても、伝説の「首吊り芸」ができた中村師範の首を締めあげることができたとは全く思えません。
それに「抑え込んで来た相手に対し、下から十字締め」って…ムリに決まってるだろ、そんなの。どうやってやるんだよ、富田…
「講道館 姿三四郎余話」の挿絵では、富田を上四方固めで抑え込んでいる中村師範に対し、富田が下から絞めている?ような状況になっていますが、そもそもこの体勢から、富田の手が中村師範の襟に掛かるとは思えませんし、たとえ掛かったとしても、絞めに至ることは到底不可能です。
…作り話をするにしても、もうちょっとマシなウソをつけよ!と呆れてしまいます。
富田の妄想ウソ歴史を暴くこのシリーズ、もう少し続きます!