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集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

講道館名物・捏造史外伝 「姿三四郎」になれなかった弱者・富田常次郎とウソ試合 その4

2024-12-27 10:24:30 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 次に肝心の試合内容に関してです。
富田は「恐ろしい勢ひで立ち上がるや否や、前へ乗り出して吾輩をむんずと攫(つか)まへて来た」中村師範を「巴投げで一本投げた」そうですが…これは古い柔術を知っている人、あるいは富田が七段に据え置かれた原因となった戦いを知る人からすれば、噴飯物の捏造です。

 講道館のウソ歴史チームは、あらゆる文献において、総じて「相手の突進力を応用して投げる技はすべて講道館発祥」(代表的なのが西郷四郎の山嵐)などとアホなことを書き立てていますが、これは「尖閣諸島は歴史的に見て中国の領土」「竹島は歴史的に見て韓国の領土」というのと同レベル、根無し草のトンデモ主張です。
 「お侍さんの組み討ちに役立つ」ことを主用途とする伝統的柔術において、自分の上に覆いかぶさって攻め来る者を、体を入れ替えて下からひっくり返す技術は必須中の必須科目。特に、相手の金玉を蹴り上げつつひっくりかえす「巴投げ」の名人は、本当にたくさん存在しました。
 当然その中には、各種捨身技から、体を入れて抑え込むことに練達した中村師範も含まれます。
 余談ですが、明治時代に生きた伝統的柔術家の中で「巴投げの名人」といえば岡山県は竹内流・片岡(金谷)仙十郎。同郷の不遷流・四世田辺又右衛門とともに、黎明期の講道館を寝技で散々に打ち破った強豪です。
 田辺又右衛門が遺した口述筆記によると、片岡仙十郎はただ投げるだけではなく
「投げが最初に効いたときは、直ちに次の寝技に入った」
「相手の体が蹴り上げられて下に落ちないうちに、『逆(関節技のこと)だアー』と一声。たちまち腕挫ぎを取ってしまう」
と、スタンドからグラウンドへの連携も完璧でした。
 その片岡仙十郎に勝るとも劣らぬ名人で、「捨て身技とは何か?」ということを高いレベルで知り尽くしている中村師範が、富田がいうような「むんずと攫まへ」るような雑な掴みをするはずがなく、たとえそうであったとしても投げられるなんてことはありえない。
 もし中村師範の「むんず」を富田が食らった場合、巴投げで投げるどころか、単純に膂力と体格差で、動くことすらできなかったはずです。

 富田は後年、柔道普及事業を展開していたアメリカにおいて、レスリングを修めた大男に「むんずと攫まへ」られた際に全く何もできず、ペシャンコに叩きつけられて惨敗を喫していますが、要するに富田の柔道のレベルなんて、その程度のものでしかなかったのです。
 ちなみに中村師範は、左右の手に米俵を1つずつ持って風車のごとく振り回すことができた上、久留米時代には暴漢相手に大八車を横に振り回し(!)、数名を一撃のもとに屠ったほどの金剛力を持っていました。
 もし中村師範が実際に富田と戦ったのであれば、先述のアメリカンレスラー同様、富田をケチョンケチョンに投げ捨てているでしょう。
(この「アメリカにて富田惨敗」の話は後述します)

 最後に…これが最もおかしいのですが、富田が中村師範を締めで倒したという結末。
 富田の証言では、富田は中村師範を巴投げで2回投げたあと、「腰投げをかけて潰されたか、或いは両足にかぢりつかれて、そのまま抑えられたかは忘れたが、兎に角吾輩は下から十字に締めて」勝ったというのです。
 これまた少しでもグラップリングというものをわかっている人間なら、噴飯物の大嘘です。

 草創期の講道館の技術は、ひと言でいえば「相手をコケさせる」ことだけに特化した柔術であり、寝技はまるでお話になりませんでした(これは井上康生がナショナルチームの監督になる平成末年まで続く、講道館の宿痾となる)。この詳細については既に、弊ブログのいろんな「講道館ウソ歴史暴露シリーズ」でお話ししていますので省きますが(-_-;)。
 そんな草創期の講道館「だけ」でしか柔術修行をしていない富田相手に、当代随一のグラップリングの名手であった中村師範が寝技で不覚を取る道理がありませんし、また、たとえ富田の手が中村師範の襟首にかかったとしても、伝説の「首吊り芸」ができた中村師範の首を締めあげることができたとは全く思えません。
 それに「抑え込んで来た相手に対し、下から十字締め」って…ムリに決まってるだろ、そんなの。どうやってやるんだよ、富田…
 「講道館 姿三四郎余話」の挿絵では、富田を上四方固めで抑え込んでいる中村師範に対し、富田が下から絞めている?ような状況になっていますが、そもそもこの体勢から、富田の手が中村師範の襟に掛かるとは思えませんし、たとえ掛かったとしても、絞めに至ることは到底不可能です。

 …作り話をするにしても、もうちょっとマシなウソをつけよ!と呆れてしまいます。

 富田の妄想ウソ歴史を暴くこのシリーズ、もう少し続きます!

講道館名物・捏造史外伝 「姿三四郎」になれなかった弱者・富田常次郎とウソ試合 その3

2024-12-24 20:59:02 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 「その2」において中村師範VS富田の戦いはなかったという理由として「証言が富田のものしかない」という理由をあげましたが、これに付随する類の、もう一つの大きな理由があります。
 それは「この戦いに関する、治五郎先生の著述がない」ことです。

 嘉納治五郎先生は生涯を通じて病的な喋りたがり・書きたがりであり、講道館勢の勝利については必要以上に「勝った勝った~!これこそ講道館の技術が優れている精華だ!」と吹聴しまくる癖があります。
 代表的なのは「西郷四郎が楊心流戸塚派の好地円太郎と照島太郎を投げた」という話で、これはもう、あっちこっちの著作で手を変え品を変え、嬉々として吹聴しまくった挙句「これこそ『柔能制剛』の極みじゃい!」と鼻高々に語っています。
 そんなおしゃべり好きな治五郎先生が非公式とはいえ、自他ともに認める一番弟子・富田が当代随一の柔術家である中村師範を仕留めたとあれば絶対に黙っているはずがなく、西郷が好地・照島といった面々を投げた時のようにあちこちの著作で書きなぐっているはずですが…それが不思議なことに全く見当たらない。
 草創期の講道館で、唯一他流試合で「勝ちが計算できる」超弩級助っ人選手だった横山作次郎が、あわや不覚を取りかかった中村半助師範との死闘や、のちの十段・磯貝一が苦戦しまくった挙句、講道館お抱えのインチキ審判(竹内三統流の佐村正明)が不自然すぎる「引き分け」を宣して窮地を脱したVS田辺又右衛門戦ですら、何気に著作の中で触れている治五郎先生なのに、勝ってるはずの中村師範VS富田戦を書かなかった理由は?
…普通に考えて「そんな試合、やってないから」で終わりでしょう。

 と、ここまで見ただけでもう十分「中村師範VS富田戦は存在していない。富田の捏造」と断定してよいと思うのですが…ワタクシは自分たちにまつろわぬ者たちをまさしく「亡き者」にしてきた講道館の捏造史が春先の毛虫よりキライなので、さらなる追求の手を加えるため、富田が語った「中村師範VS富田戦」の内容をさらに深堀していきます。
 なお、以下の考察における出典は、生前の富田が「柔道」2巻7号で語った内容をメイン、「講道館 姿三四郎余話」をサブとして話を進めます。

 まず、この戦いがあった時期について考察します。

 富田はこの文章の冒頭、明治19年に子爵・品川弥次郎がドイツ赴任に際して自らの居宅を治五郎先生に譲り、そこが二代目講道館道場となった話を語り、「その年の秋頃」、つまり明治19年秋にこの戦いがあったとしています。
 しかし「講道館 姿三四郎余話」では「明治十九年、年が明けて早々のことである」と書かれており、時期が全くかけ離れています。
 柔術の腕はともかく、頭脳の明晰具合では講道館随一であった富田ですから、当代随一の中村師範を破ったのであれば、その時期や場所、勝利の経緯までを克明に覚えていて然るべきです。
 特に老齢になってからは、直近のことは忘れても昔のことは覚えているものですから、それを同じ年内とはいえ違えるというのは、明らかにおかしな話です。

 次に、中村師範の人相風体に関してです。

 富田の文章では「四十近くで、鍾馗さんのような顔をして居る上に、然も身長六尺何寸という大男で…」とありますが、これまた間違いだらけ。
 連載中断中の(重ね重ねすみません!)「中村半助伝」でも書きましたが、中村師範全盛時の体格は五尺六寸(170センチ)・二十六貫(105キロ)というアンコ型の体型であり、当時としては大男の部類には入るものの、「異様」と取り立てるほどの大男ではありません。
 また、たった1枚だけ現存する中村師範生前の写真を確認しても、スキンヘッドで頬骨の張ったいかつい顔ではあるものの、表情はおだやかであり、髭もきちんと剃っています。とても富田が言うような「鍾馗様のよう」な風貌ではありません。

 さらにおかしいのは、中村師範が富田に乱取りを挑んできたときの態度。
 富田証言では「一本願はうと甚だ傲慢な態度でチャレンヂしてきたのであった。」とありますが、二百石取りの久留米藩士の家に生まれ、武士としての教育をしっかり受けた柔術の名人・中村師範が人前、とくに他流他人の道場でこのような無礼な態度を表すとは到底考えられません。

 もう少し深堀りしますれば、そもそもこのころの講道館なんて、「高級官僚が経営している、ガキのお遊び道場」でしかなかったのですから、そんなチンピラ道場の門下生ごときが、日本一の格式を誇る柔術家と同じ場所で遭遇するということ自体、ありえない舞台設定…「オタクと一流アイドルが何かのはずみで遭遇して恋に落ちる」くらい、ありえないのです。

 富田常次郎と講道館のウソ歴史暴露話、まだまだ続きます!

講道館名物・捏造史外伝 「姿三四郎」になりたかった弱者・富田常次郎とウソ試合 その2

2024-12-04 21:56:02 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 続きです。
 ワタクシが「中村師範VS富田戦は、富田によって捏造されたもの」と断ずる最大の理由は「話のソースが富田常次郎の供述しかない」という点です。

 「中村師範VS富田」の戦いが初めて活字になったのは、その戦いが行われた?とされる明治19(1886)年から実に40年近い歳月が流れた、大正12(1923)年のことで、講道館の機関誌「柔道」大正12年5月号に富田が寄稿した「柔道發達の側面觀 其三」で語ったもの。
 内容は、「その1」でお話ししたことが寸分違わず書かれているのですが、実はそのことが「この話は富田の捏造」と推測できるカギともなります。

 ワタクシはまず「中村師範VS富田戦」について、「富田証言」…つまり、大正12年5月以前に書かれた文献を探し回りました。
 もし「富田が中村師範を投げた!」ということが事実であれば、当時の関係者、特に富田が言う「八谷孫六の道場開き」に講道館代表として同道した戸張瀧三郎・有馬純臣・松田文蔵といった諸氏が、口をそろえてその戦いっぷりを証言・賞賛するはずですし、また、その話を聞いた他の門人が「こんなことがあったぞ!」と機関誌や著書で吹聴して回ってしかるべきです。
 何しろ、自流が少しでも他流に対して優位な試合をすればすぐに「勝った、勝った」と針小棒大に宣伝するのは講道館の得意技ですし、しかもその相手が当代随一のツワモノ・中村師範であればなおさらこの戦いに対し、数々の証言や賞賛がなければ逆に不自然というもの。
 とくに講道館がもっとも勢力を伸ばすことに成功し、「講道館は設立当初から古流に対し、こんなに勝ちまくっていた!」的な提灯記事が溢れかえっていた明治40年代~大正初期に、この戦いに関する関連記事がなければ、逆に不自然といえます。

 しかし…ワタクシが調べる限り、それらは全く存在しませんでした。

 国立国会図書館ライブラリーで当時の関係者名・道場名など、ありとあらゆる関連ワードを打ち込んで調べに調べましたが、なんと「富田証言」より前に「中村師範VS富田」について書かれた文献は、全く存在していなかったのです。

 ちなみにワタクシが調べる限り、「中村師範VS富田戦はあった」とする文献で最も古いものは、昭和30(1955)年刊行の「講道館 姿三四郎余話」(春歩堂)。なんと終戦後のことであり、関係者は当然、死滅しています。
 著者はといいますと…富田常次郎の息子であり、「姿三四郎」という大ベストセラーをものした直木賞作家・富田常雄(明治37(1904)~昭和42(1967))。
 そんな「姿三四郎余話」に書かれた「中村師範VS富田戦」の内容は驚くことに、大正12年の「富田証言」と全く同じであり、寸分の狂いもありません。そこがまたおかしいのです。
 「中村師範VS富田戦はあった」とするのであれば、富田以外の人間から証言を取るのが普通であるべきところそうした裏取りは全くなく、「これは父親の証言だ」という一言だけで、この戦いを「あった」ことにしています。

 以上の点を勘案しますと、この時点においてだけでもワタクシは「中村師範VS富田戦」は「富田が捏造したもの」と断言することしかできません。

 余談ですが、富田常雄が「中村師範VS富田戦のきっかけとなった、講道館への道場破り」でメインの敵役となっていた奥田松五郎なる人物は実在しており、調べてみますとなんとビックリ、あの有名な!!!!新選組の隊員であったばかりか、修行時代の近藤勇とは、柔術修行におけるマブダチだったのです( ゚Д゚)
 「姿三四郎余話」では、奥田松五郎は「六尺を越える」(原文ママ)大男と書かれていますが…これは大嘘!
 昭和2(1927)年に岩手日報の記者だった斗ケ沢尚基という人が書いた「奥田松五郎伝」によると「西郷四郎と同じか、それより小さい」小兵だったそうです(西郷四郎の身長は5尺1寸=153センチ)。
 ただしその強さは折り紙付きのスゴさで、しかも驚くことに両腕両足の各種関節を自由に嵌脱でき(病気などによるものではなく、柔術修行の成果によるものなのがまた恐ろしい)、それによって「何時間でも正座でき」(奥田松五郎伝より抜粋)たそうです( ゚Д゚)。

 「姿三四郎余話」内で奥田松五郎は、西郷四郎に腰投げや足払いで散々に吹っ飛ばされたことになっていますが…小兵だった奥田松五郎を「大男」と書いていることや、松五郎が新選組にも在籍したバリバリの武闘派ということを全く知らず、ただの柔術無頼漢のように書いている時点で、もう「姿三四郎余話」の内容は富田常雄の創作ファンタジー・史料的価値ゼロと断じてよく、従って同著に書かれている「中村師範VS富田戦は、富田が圧勝した」という話も「奥田松五郎たちが講道館に道場破りに来て、散々に打ち破られた」という話も、全ては「親子二代にわたる捏造、ただの創作物」と断じてよいと思います。

 「中村師範VS富田戦」が富田常次郎の捏造と推察する論証、まだまだ続きます。

講道館名物・捏造史外伝 「姿三四郎」になれなかった弱者・富田常次郎とウソ試合 その1

2024-12-03 21:57:33 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 「海を渡った柔術と柔道」(坂上康博監修、青弓社)という書籍に、こんなエピソードがありました。

 ある柔道の専門家が渡韓、某大学に赴いた際、そこの学生から「先生は、わが国から日本に伝わった柔道の歴史について調査に来られたのですか?」と質問されて驚きまくり、あわててかの国の辞典を繙いたところ、「柔道」の説明書きには「日韓併合前の1909(明治42)年、嘉納治五郎によって我が国に逆輸入された格闘技だ」と書かれていて二度驚いた…

 朝鮮半島は有史以降、易姓革命と文化破壊ばかりが繰り返されたため、まともな歴史書が一切残っていません(「満鮮史」が明確に学問として確立されるのは、日本統治まで待たなければならなかった)。
 従って現在、かの国では「誰かによって都合よく捏造された歴史」を作って国民に教える以外の選択肢がなく、それを学校教育でやった結果、荒唐無稽な「ウリナラ起源説」を臆面もなく量産するようになった、というわけです(-_-)。
 そうした背景を鑑みれば、先述のバカ質問をした学生に悪気は一切なく、教科書や辞書に書かれていたことをほんとうに何気なく聞いただけ、ということがわかります。
 講道館の黒歴史を調べ続けているワタクシはこれまで、「なぜ人々は、講道館が垂れ流し続けているウソ歴史を、無批判に信じ続けているのか?」と不思議でなりませんでしたが、この「ウリナラ柔道」の話を読んだとき、氷解した気がしました。
 「講道館の正史と柔道ウリナラ起源説は、病根が同じだ!」

 講道館の「格闘技として極めて高いレベルで完成された講道館柔道は、因循姑息な古い柔術をバッタバッタと圧倒した!」と、韓国人の「柔道は日本から逆輸入されたものニダ!」「ウリナラの舞踏塚古墳に描かれた壁画こそ柔道の原型ニダ!」…
 「捏造された我田引水の歴史」という点において、全く相違点はありません。

 それを証明するひとつのお題として今回は、「警視庁初代柔術世話掛のひとりであり、良移心頭流柔術の達人であった中村半助師範が、講道館四天王・富田常次郎に完敗した」というお話を取り上げたいと思います。
(以後中村半助師範については「中村師範」、富田常次郎は「富田」とします(;^ω^))

 冒頭、富田常次郎の略歴を簡単にお話しします。
 富田は慶応元(1865)年、現在の静岡県沼津市に生まれ。
 生まれつき機転の利くタチであったことを嘉納治五郎の父・治郎作に見込まれ、若くして(数え年の14歳)治五郎先生の腰巾着となり、そのまま講道館の門弟第1号となります。
 その後、柔道のアメリカ普及の尖兵を務めますが、ここでヘタを打ったため(これについては後述)、段位は七段止まり。
 とはいえ自他ともに認める「治五郎先生一の子分」であったことや、講道館黎明期の事業経営に大いに貢献したことより、後世「四天王」の1人に数えられるようになったという御仁です。では、本題に戻ります。

 「富田が中村師範を投げた」という経緯はこうです。
  • 明治19年の正月に行われた天神揚心流・八谷孫六の道場開きに、講道館から富田を含め4人が参加した。嘉納先生は学習院で仕事があったため不参加。
  • このとき同じく来賓として呼ばれていた中村師範が富田に突然、乱取りを申し込んだ。これより前、古流柔術を学んだ奥田松五郎なる人物ら3人が講道館に道場破りに来たが返り討ちにされており、そのことを恨んだ中村師範が、意趣返しのために勝負を仕掛けてきた。
  • 中村師範は両手を伸ばして富田に突進してきた。対する富田は両手をだらりと下げたままの状態。二人の体が接触したと思った瞬間、中村師範は宙を舞った。見事に巴投げが決まった。
  • 怒りに燃えた中村師範は富田の襟を両手でつかみ、羽目板に何度もぶつけたが富田は動ぜず、またもや巴投げを決めた。
  • 投げられた中村師範が立ち上がろうとするところを、富田はさらに腰投げに決めようとしたが体が崩れ、逆に中村師範に抑え込まれてしまう。
  • しかし講道館柔道は無敵!立ち技のみならず、寝技も鍛え上げていた富田はその抑え込みを辛くもかわし、下から十字締めを極めた。締め技は深々と極まり、紫色の顔をした中村師範を見た道場主の八谷孫六があわてて勝負を止め、富田の勝利を宣した。
 …中村半助師範の生涯や、それに付随する「古い柔術」を調べたワタクシの感想としましては
「格式のある武士の家に生まれ、その訓育を受けて育った中村師範の身の処し方や性格、何より格式の高い柔術家としての強さや格から考えて、こんなことはありえない。こんなヨタ話を信じることができる人は、余程ものを知らないのだ」
と断ずることしかできません。

 次稿以降、この戦いが「捏造」と断ずる理由を、各種資料をもとに申し述べて参ります。
 柔道という格闘技の技術体系に疑問を抱えている方や、講道館のウソ歴史にモヤモヤしたものを抱えている方はぜひ、続きをお読みいただければ幸甚に存じます。
(原稿はある程度できていますので、「その2」はすぐお届け致します)
 

そこにはミスタードラゴンズ「ブンちゃん」がいた(その1)

2024-11-03 20:35:05 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 長々長々と新規投稿を怠っており、言い訳のしようもございません。本当に申し訳ございませんでしたm(__)m。
 弊ブログを9年間に亘って支え続けたパソコンが10月末日に突如逝去(´;ω;`)したこともあったっちゃーあったのですが…すべてはワタクシの不徳の致すところでございます。本当に申し訳ございませんm(__)mm(__)m。

 「次に何を書くか?」という題材はたくさんあるのですが、長くサボっていた怠け心に高潔な息吹を吹き込む意味も込め…今回は中日ドラゴンズ史上最高、いや、昭和11年に日本プロ野球ができてから現在まで、おそらくトップ3に入る打撃成績と人格の高潔さで知られる、心優しき大選手のお話をしたいと思います。

 西沢道夫。
 大正10(1921)年、東京都品川区生まれ。
 昭和11(1936)年、名古屋軍(現・中日ドラゴンズ)に現在でいう「育成選手」として、わずか15歳で参入し、以後終戦直後のゴタゴタに伴う一時的かつ短期の移籍???以外、ずっとドラゴンズ一筋。
 通算20年間の選手時代、投手として年間20勝(通算60勝)、打者として年間40本塁打以上(通算本塁打212、安打1717)と、投打に亘って真のハイレベルな活躍を果たし、ドラゴンズの監督(昭和39~42年、通算勝率5割4分2厘)も歴任。

 選手としても監督としても一流だった西沢氏が、こうした数字以上にスゴいのは…接した人間の誰もが「いい人だった」「優しく、気遣いのできる人だった」という言葉を惜しまず、しかもそれが球界のみならず、政界や芸能界でも同様の評価だったということ。

 西沢道夫氏の人となりについて記された文献は、その活躍に比して本当に少なく、その実態をつかむのに結構時間がかかりましたが…日本スポーツ界は今も昔もプロ野球だけに限らず、声がデカいだけのバカ、インチキ野郎、ウソツキ、そのほか人間のクズが跋扈し続けていますが、西沢氏はその傾向が特にひどかった戦前・戦中・戦後の動乱を経ても高潔な精神と優しい心を失わず、ゴミのような人間たちからも神様のように慕われたという事実が多数発掘され「これは単純に数字の成績だけでは測りきれない、真の偉人だ」と大いに感服するに至りました。
 また、ネットで検索しても、西沢氏に関する記事はウィキの記事を上回るものが一切!!!!!なく、全くのブルーオーシャンであったことも、本稿を書くきっかけとなりました(;^ω^)。
(世の中の「野球マニア」なるバカどもは、イマドキの選手のくだらん数字を数えたり分析したりするヒマがあるなら、もっと戦前や戦中、終戦直後ころに苦労した名選手に着目しろよ!…といつも思っています)

 今回は「プロ野球二刀流の元祖のひとり」にして、個人的には「唯一無二、以後も出てくることはない真のミスタードラゴンズ」である西沢道夫氏の生涯に触れていきたいと思います。
 以後、本稿では西沢道夫氏のことを、生前のニックネームであった「ブンちゃん」と呼称します。「西沢」にも「道夫」にもひっかからないこの「ブンちゃん」というニックネームの語源は、作中でお話しします。

【その1 荏原に「ノッポのミっちゃん」現る】
 ブンちゃんの出生年・場所については上記のとおり。もう少し詳しく生年月日を書きますと、大正10年9月1日生まれ。
 西沢家はもともと、長野県内に広い土地を持つ素封家でしたが、ブンちゃんの父・忠造が病弱で「とても地主の仕事に耐えられない」ということで、田地田畑をすべて売り払い、東京に移転。その直後に西沢家の次男として生まれたのがブンちゃんだったのです。
 ブンちゃんには年の離れた忠彦という兄がいたのですが、これが攻玉社中(現・攻玉社中・高)の名選手で、ブンちゃんは尋常小学校進学前から、期せずして野球英才教育を受けることとなります。

 その英才教育の成果は、ブンちゃんが下目黒小学校に入ると同時にすぐさま開花。尋常4年時にして学校チームの押しも押されもせぬ大黒柱で、荏原郡内の大会は無双状態。
 そのレベルの高さは町の大人たちも注目するところとなり、小学生ながら、街の草野球チーム「桐花クラブ」に所属。
 ちなみに桐花クラブは軟式チームとはいえ、荏原郡内の大会で平然と優勝したり、実業団相手にも普通に勝ってしまうようなハイレベルのチームですが…ブンちゃんはそのチームに小学校5年生から参加し、エースで3番バッターだったといいますから「栴檀は双葉より芳し」を字で行くような人物だったわけです。
 ちなみに「ブンちゃん」の身長は小学5年時点で身長166cm。これは当時の日本人の平均身長(155cm)をはるかに上回っており、このころは「ノッポのミっちゃん」と呼ばれていました。

 ブンちゃんが小学生の時分、中等野球(いまの高校野球)の名門といえば、早稲田実業と慶応商工の二強。
 ブンちゃんも「いつかはどちらかの学校で甲子園を…」という夢を抱いていましたが、その矢先、もともと身体が強くなかった父・忠造が病に倒れます。
 家運が傾いたブンちゃんは中学への進学を断念しますが、 桐花クラブの監督である地域の名物オヤジ・床屋の飯野力蔵はその才能を大いに惜しみます。
「ミっちゃんの野球の腕を生かす、ナ~ンかいい手はねえもんかなあ~」

 野球の才能を自認しつつも、家庭の事情の前にすべてをあきらめる覚悟をしたブンちゃんと、その才能を大いに惜しむ飯野オヤジところに、ブンちゃんの人生を左右する「時の氏神」ならぬ、「球界の氏神(高潔なほう)」がやってきたのは、けだし球史の必然!というべきでした。