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集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

(書いたヤツはそう思っていませんが)大極論!「柔道は日本伝武道に非ず」(その3)

2025-04-04 18:34:47 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 治五郎先生が3人目の師匠?となる起倒流・飯久保恒年師のところで修行したのは、単純計算で1年弱という、武道修行としては異例と言える短い期間であり、明治15(1882)年2月には、小さな道場であったとはいえ、講道館を設立しています。
 さらに驚くべきは、たった1年くらいしか在籍していなかった治五郎先生に対し、飯久保師が明治16(1883)年、「皆伝」を允許していること。
 これは先に天神真揚流を修行していたという前提があっても、また、同時代の他武術家の「皆伝」までにかかった年季を勘案しても、あまりに早すぎる「皆伝」です。
 ちょっと考えてみてください。
 現代において、東大在学中の二十歳そこそこのガキが現在の講道館に入門し、在学期間中、熱心に稽古をしたとしても、卒業時に六段(柔道も剣道も、六段からは地方連盟審査でなく全国組織審査となるので当時の「皆伝」に近い資格と推測)になるということが、物理的に可能でしょうか?
 誰がどう考えても、そんなことは絶対不可能でしょう。しかし治五郎先生は、その不可能を可能にしてしまいました。

 この「不可能を可能にした理由」は当時の武道が置かれていた状況、そして当時の日本社会における治五郎先生の社会的地位、そうしたものを含みに含んでから考察しないといけません。
 講道館の「中のヤツ」や、講道館がばらまいたデタラメなプロパガンダを信じたバカな柔道家&作家(講道館の御用作家ながら、ずっとシニカルな目を以て「公式史」を担当していた異才・丸山三造だけ除く)は、治五郎先生が柔術修行を始めてからたった5年弱で天神真揚流・起倒流双方で免許皆伝となった「治五郎先生がすばらしい武道家だったからだ!」などとほざいていますが、その主張は中共や北朝鮮の「国家創設物語」以下の信憑性しかありません(;^ω^)。

 以下は、ワタクシが柔道はもとより、当時の世相関連の各種資料を収集してトレースし、推察したものです。もしかすると泉下の治五郎先生や、頭の中に道着しか詰まっていないような柔道家が読んだら「♪違う違う違う、そうじゃな~い」と、鈴木雅之のように歌い出すかもしれませんが(;^ω^)、まあ、ほっときましょう。

 治五郎先生が、物理的にありうべからざる短期間で免許皆伝となった最大の理由ですが…もろもろ調べた結果「治五郎先生は我が国トップクラスの権力者・大金持ちで、対する柔術家はド貧乏だったから」という身もフタもないものに落ち着きました。

 まず、明治10年代の武術家の状況を見てみます。
 結論から言いますと当時の武術家は軒並み、まともな生活すらおぼつかないレベルの窮乏ぶりであり、また社会的認知度も、経済状況と同様、どん底の状態でした。  
 ご一新によって日本伝武道は「因循で古臭いもの」あるいは「幕末に吹き荒れた、人殺しの道具」というレッテルを貼られたため、道場生は集まらず、非常な困窮状態にありました。 
 これは極端な事例ですが、幕末、斬殺によるテロが毎日のように起きた京都府では府知事が「武術、特に撃剣を修行するヤツは反社だ!」と言い放ち、京都市中に道場を開くことを許さなかったほどです。
 この時代の武術家の窮乏ぶり、社会的地位の零落ぶりについて、治五郎先生も「柔道家としての嘉納治五郎」のなかで、このように語っています。
「当時かういふ武術をやる人は、相当に残っていは居たが、世間の大体からいふと、武術などほとんど省(かえり)みられない状態であったから、武術は極端にすたれていたといってよい。それ故、武術家は糊口の道にすら困って来て、かの有名なる剣客榊原健吉でさへ、撃剣仕合を興行して、木戸銭を修めて糊口の資となし、或柔術家は、相撲取りと取り組んで木戸銭をあつめたといふ」

 では、対する治五郎先生はというと…その出自は令和の現在でも名高い銘酒「菊正宗」「白鶴」を作っている酒造業界の超名門・嘉納一族出身であり、御父上の希芝(まれよし。通称治郎作)は商人とはいえ、幕府に直接仕えた大廻船業者で、ご一新後は「商船業界のプロ」として、明治政府にそのまま使えた大立者。
 治五郎先生自身はといえば、「大学と言えば東大」しかなかった時代の東大で学び、また、学生の時分から学習院で講師をするという超絶エリート…
 柔術家連合とはもう、「雲泥の差」という月並みな表現では足りないくらいの、壮絶な格差があります。
(余談ですが、現在話題沸騰中の「中居正広とフジテレビの性加害問題」で引責辞任したフジ・メディアHD前代表取締役・嘉納修治は同じ嘉納一族の乾嘉納家出身だったりします(;^ω^))

 そんな超弩級のエリートが、経営もままならない柔術の道場に一生懸命通って「柔術を世に広める」と力強い発言をしてくれ、しかも持っていたとて、薪の代わりにすらならない各流派の伝書を「貴重なものなので買う」などと申し出てくれるのです。師匠たちの機嫌が悪かろうはずがありません。
 また、治五郎先生を見た3人の師匠は、治五郎先生の技術が拙劣であることを間違いなくわかっていたはずです。
 それでも皆伝を授けた理由は、各師匠が治五郎先生を「現代の殿様」と認識しており、「武術で身を立てるならともかく、殿様の柔術なんて、この程度でいいや」という諦観もあったものと思われます。

 以上のとおり、治五郎先生の「皆伝」は名誉段のようなものであり、少なくとも「実力・見識抜群につき…」という、完全なる実力で勝ち取ったものではありません。
 「柔道家としての嘉納治五郎」を読む限り、治五郎先生が3人の師の下で気を入れてやっていたのは、ほぼ寝技のないスパーリングだけ!であり、型の稽古は「練習のカリキュラムに入っているから仕方なくやる」というスタンスでした。その点だけを見ても、とても実力で「皆伝」を得たとは思えません。
 後年、治五郎先生が率いた柔道は「型はあっても全く無意味」「スパーリング以外に練習方法がない雑巾踊り」となり、きちんとした技術体系や上達機序を持たない、グニャグニャの「自称武道」となりましたが、その最大の理由は、実力にそぐわない「皆伝」を受けたことが発端といって間違いないでしょう。

(書いたヤツはそう思っていませんが)大極論!「柔道は日本伝武道に非ず」(その2)

2025-03-29 20:30:51 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 「その1」において、ワタクシが掲げた「真の日本伝武道が持つ特色」①の説明ですが…これはワタクシのような無学の徒が何百万言を費やすより、ワタクシが尊敬措く能わざる空手の一大名人である山城美智・沖縄拳法首席師範(諸事情により弟子にはなっていませんが、講習会には5回以上行きました)が近著「沖縄拳法 山城空手」のなかで語られたこの一文が、最も正鵠を得ていると思いますので、そのまま引用致します。
「私はいつも弟子たちには『沖縄拳法はすべて答えから始まっている』と伝えています。正しい、間違っている、より良い、より合理的だ、そういうのは後から出てくること。最初にまず理想の突き・蹴り・受け・崩しがあり、それを紐解いていく作業から始まっています」
 上記山城師範が言われた「すべて答えから始まっている」というのは沖縄の古伝唐手のみならず、スジの良い日本伝武道も全く同じ同じことが言えます。そしてその「答え」に導くための水先案内人として、前稿の日本伝武道条件②で掲げた「もののわかっている先生」が必要になるわけです。

 ②に適合する先生が初伝の弟子に課すのは、習う武術の種別を問わず「型」と「対練」。いわゆる基礎稽古です。

 型は攻防のエッセンスと、戦いに最適な体の使い方、そして戦いに最も必要な「相手の中心を取る」メゾットがギッシリ詰まったもので(なので山城先生を始め、空手の有識者はいずれも「型は古ければ古いほど使える」と言っていました)あり、テキストとしてはこれ以上ない最適解です。
 また、型をはじめとする基礎練習は「覚えて終わり」ではなく、何回も同じ動作をすることによって「必勝法を無意識化に叩き込む」「脳内の意識を戦闘モードに替える」ことが可能になります。
 師匠はその出来栄えを見つめ、ときおり「口伝」を授け、ときに「対練」を行ってその練度を確かめる。これを繰り返すことで弟子は螺旋階段上に「答え」に向かって突き進んでいく…というのが真の日本伝武道です。

 これら「真の日本伝武道のありかた」を知ってから柔道の技術・稽古形態を顧みた場合、柔道は「こうした技術に立脚すれば、このように強くなる」という技術の背骨を持たず、「スパーリングを繰り返していたら、そのうち強くなるかもしれないよ!」という無邪気で原始的、かつ「生き残ったヤツが強いのだ」という無責任極まりない指導形態しか持っていないことがハッキリわかります。 
 では、講道館を作る前の治五郎先生が、いったいどんな修行を積んで、このようなデタラメな指導形態を構築するに至ったか?を知るため、その修行時代の経緯を、詳細に見ていきたいと思います。

 皆様ご存じの通り、「治五郎先生修行物語」は世の中にあふれかえっていますが、そのほとんどは作家や弟子の手垢がつきまくった作り物の「聖人物語」、あるいはその「聖人伝説」の子引き・孫引きばかりであり、その内容は闇バイトが手下を募集するときに頻出させる「ホワイト案件!」という広告以下の信憑性しかない(;^ω^)ので全部ボツ。
 なるべく事実に近い「治五郎先生が『柔道の実戦化』を語る以前に発表したものであって、砕けた文章でなされた、可能な限り最も古い」文献を必死こいて探しましたところ…講道館の機関誌「作興」に連載された「柔道家としての嘉納治五郎」(昭和2年刊行の6巻1号~同4号まで連載)という治五郎先生の口述筆記が見つかりましたので、それを種本として見ていきます。

 同連載において治五郎先生は、柔術修行を開始した時期を「明治十年(1877年)に創立となった東京大学文学部に入学」したころとしています。これは大切な事なので、少しだけ覚えていてください。
 最初に師事したのは天神真楊流・福田八之助。元気なころは幕府講武所の「世話心得」(要するに助教)だった御仁ですが、このころは高齢で、しかも柔術修行者が極めて少ない時代であったことから「九畳が道場で、次の三畳の間を整骨の治療所にしている。此の九畳の道場も、時に患者の待合になる」といった状態。従って門人も「偶に来る人が四、五人あり、毎日来る人が一人、隔日位に来る人が一人」という練習環境でした。
 治五郎先生はこの福田道場で、師匠八之助の逝去まで約2年半を過ごし、八之助死去後はその師匠筋にあたる天神真楊流・磯正智の道場に入門。その磯正智も、治五郎先生入門から1年ちょっとしか経たない明治14年に死去。さらに次は起倒流・飯久保恒年(いいくぼ・つねとし)の門下生となり、最終的に明治15年2月に講道館設立、と相成ります。

 こうやって見てみると、師匠の死去というアクシデントに祟られたとはいえ、3つの道場に所属していた期間がそれぞれ2年半・1年ちょっと・1年足らずと、やたら短いのが気になります。
 しかも治五郎先生が各道場所属時の思い出話で語っているのは徹頭徹尾「乱取」のことばかりで、各師匠についての評価を「乱取が強いか、強くないか」という、ありうべからざる基準で行っています。たとえば2番目の師匠である磯正智について治五郎先生は
「(磯先生は)若年から乱取ではあまり名をなさなかったが、形はいかにも名人であった。」
「乱取の方は殆ど他(の門人)に教へながら自得したので、先生から得る所はあまり多くなかったが、形については先生から学ぶ所甚だ多かった。」
などと言っています。

 この口述筆記から読み取れることは、治五郎先生は自分の師匠を「スパーリングができない、弱い」という理由でバカにしていること、そして治五郎先生は柔術の修行者でありながら、そのエッセンスを詰め込んだ「型」を覚える気も、その有用性を理解しようともしていなかったということ。
 取ってつけたように「形はいかにも名人であった」とか「形については先生から学ぶ所甚だ多かった」などと言っていますが、後年の治五郎先生の発言や事跡から勘案すると、治五郎先生は型の本来意義を全く!理解していない(断言。理由は次回以降述べます)無知な人ですから、それをふまえてのこの発言は間違いなく、師匠を「スパーリングができない、死にぞこないの弱いジジイだった」とバカにしているとしか思えません。

 冒頭に掲げた山城師範の格言を再掲しますが、真の武道は「最初にまず理想の突き・蹴り・受け・崩しがあり、それを紐解いていく作業から始」まります。
 ところが治五郎先生はその「最初に…」の理想像を一切顧みず、ヘタクソ同士がドッタンバッタン乱取りをするなかで「アレがいい、コレがいい、俺が強い、アイツ弱い」と、レベルの低い取捨選択とマウンティングをすることが「武道だ」と捉えているわけです。

 いくら治五郎先生が、当時日本最強のインテリであったとはいえ、これは余りに無見識かつ傲慢な見解ですし、柔道が「武道ならざるジャケッティッドレスリング」になるのは、けだし当然のことと言えましょう。

(書いたヤツはそう思っていませんが)大極論!「柔道は日本伝武道に非ず」(その1)

2025-03-26 18:59:03 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 まず冒頭、物凄く更新が滞ってほんとうに申し訳ございませんでした!
 これは間違いなくブログ主の不徳&不徳の致すところであり、言い訳のしようもございません。幾重にも幾重にもお詫びいたしますm(__)m。
 では、本題のほうに行かせて頂きます。

 弊ブログではこれまで「嘉納健治伝」、「黒歴史・講道館レスリング部」、そして現在連載している「ウソツキ富田常次郎伝」と、ずっと柔道サゲ(途中1回「増田俊也サゲ」を挟みましたが(;^_^A、これも柔道サゲ関連に入れていいでしょう)と思われる記事を書いてきました。
 その理由は、ずいぶん前に連載を終えた「警察術科(主に逮捕術と柔道)の長い長い歴史」シリーズを書くための必要に迫られ、柔道の歴史を調べ始めたことが発端なのですが…国会図書館に蔵されている完璧な一次資料や、きちんとした学術論文だけを当たる過程で、「柔道の公式史はウソと改ざんだらけであり、いわゆる『柔道発達史』なるものの正体は、一言でいえば『治五郎先生の思い付きの歴史』でしかない」ということが明確になったからです。
 それらの研究によってワタクシがこれまで、柔道に対して抱いていた各種モヤモヤの正体がある程度明瞭になったことから、今回はそれらをまとめてお話ししようと思った次第でございます。

 まず冒頭、本稿は「柔道原理主義派」「柔道を心から愛する修行者」から見れば、間違いなく「極端過ぎるアンチ意見」と認識される内容となっています。ですからそういった方々におかれましては、タバコのパッケージに書いてある注意書きじゃないですが「あなたの健康を害するおそれがある」ため、そもそもブラウザバックして読まないことをお勧めします。
では始めます。

 ワタクシのいち個人としての主張は、以下のとおりです。
「柔道は日本伝武道ではないから、日本伝武道と名乗ってはいけない。名乗るなら他スポーツのように『嘉納治五郎先生が整備した、日本発祥のジャケッティッドレスリング』と名乗るべきだ。」

 この主張に対し、格闘技ヨカタや柔道原理主義派(これは講道館柔道だけでなく、高専柔道の原理主義派も含む。なぜならどちらも自流を「武道」と認識しているから)は、即座にこう思うでしょう。
「え、日本の古流柔術発祥の武道であり、世界中に普及してオリンピック競技にもなり、今や押しも押されもせぬ『日本武道の盟主』となった柔道に、日本伝武道を名乗るなだって?コイツは頭がおかしいんじゃないのか?」
「こんなことを言うやつはただの格闘技ヨカタで、迷惑系ユーチューバーやツイフェミみたいに、火をつけて喜んでいるだけのバカじゃないのか?」
うん、それが普通の反応です…講道館が作り、それに乗っかったマスゴミや物書きが広めたウソ歴史しか知らず、武道・格闘技の何たるかが分かっていない人なら!ですが…(;^ω^)。

 弊ブログの常連様には周知のことであり、また、自分の身の上話で恐縮ですが…ワタクシのそもそもの「格闘技はじめ」は柔道であり、いちおう二段位を持っていますので、曲がりなりにも「柔道の有識者」ですし、柔道を放棄した後は20数年間、打撃系・グラップリング系双方を真面目に修行してまいりました。また並行して「古い武術の実戦性」についても機会をとらえて研究を続けて参りました。
 多少語弊があることを承知で申し上げますれば、今から申し述べる意見はいちおう「有識者の研究結果」ですから、まず「迷惑系ユーチューバー的ヨカタの世迷い事」という指摘は全く当たりません。
 また以後、ワタクシの展開する論はあくまで「ワタクシが必死こいて文献をあさりまくった結果」でしかありません。もしかすると取りこぼしや、史料の誤読があるかもしれません。それに対し「いや、柔道はこういう文献と理由があるから、真の日本伝武道なんだ」という意見があれば、どんどん聞かせて頂きたいと思っています。
(柔道原理主義派による感情的な反論…も大歓迎ですよ(;^ω^)!)

 では、本論に入ります。
 まず冒頭、ワタクシが各種の修行・研究の結果得た「日本伝武道が本来持つ定義」を掲げます。
(なお現在、日本武道館が認定している「日本伝武道」は柔道・剣道・空手・合気道・相撲・銃剣道・長刀・少林寺拳法ですが…そうしたものは一旦脇においといて下さい(;^_^A))

① 「こうすれば強くなる」という機序と手段が明確である。
② ①をリードできる師匠がいる(師匠の名前を人前でもちゃんと言える)。
③ スポーツ的なものだけでなく、いわゆる「実戦」への供与に充分堪えるだけの技術が明確に存在する。
④ 道場の外のことを道場の内に持ち込まず、内のことを外に持ち出さない。

 はっきり言いますが、講道館柔道は①~④をすべて満たしていません。従って、日本伝武道ではありません。
 余談ですが、競技形態は違えども、略同じ「自称武道」の有名どころを挙げろと言われれば…真っ先に思い当たるのは「極真空手」ですね(;^ω^)。

 次回以降、①から順々にあてはめ、講道館柔道が日本伝武道じゃない理由を解説していきたいと思います。

講道館名物・捏造史外伝 「姿三四郎」になれなかった弱者・富田常次郎とウソ試合 その5

2025-02-03 06:39:11 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 久々の投稿となります。理由はオカにいなかったからではありますが、投稿頻度が下がりっぱなしの現状が変わっていないのは事実であり…本当にすみませんm(__)m。

 さて数日前、何気なく「南日本新聞」(鹿児島に住んでいるもので…)を読んでおりますと「国際柔道規定に『有効』が復活した。相手が尻もちをつく程度の投げ、5秒以上の抑え込みなどが『有効』となる」という記事を目にしました。
 記事には書かれていませんでしたが、おそらく「有効」が復活した理由は、「技あり」までしかポイントがつかない従前のIJFルールだと双方が疲労している、または実力伯仲している場合に「決め手」を欠き、そのため長時間の試合がやたらと増えたから…とは思いますが、個人的に柔道は「ジャケットレスリング世界一決定戦という枠だけがしっかり作られている、技術スッカスカのスポーツ」としか思っていませんから、「有効」が復活しようとそうでなかろうと、心の底からどうでもいいと思っています。
 とくに、治五郎先生を筆頭とする草創期の講道館幹部連中が、試合審判規定を作る過程において行った「我田引水」っぷりをよく知っているだけに「少なくともグラップラーとして生きる上で、柔道から学ぶことなんか何もない」との意を強くするばかりです。
 …という導入をしたところで(;^ω^)、お話を「富田常次郎のバカ話」に戻します。

 さて、本連載「姿三四郎になれなかった男」ではここまで、老境に達した(大正12年当時、富田58歳。当時は日本人の平均寿命が60歳以下だったのでじゅうぶん爺さんの範疇に入る)富田のウソ話を縷々引用し、そのウソを検証してきました。
 その内容はまさに「センミツ」(1000のうち3つくらいしか真実がない)であり、ほんとうに許しがたいものなのですが、ワタクシが特に許せないのは、このウソ話のラストのほう。
 富田は中村師範に勝った、勝ったと吹いた挙句、こんな文章でシメています。
「(講道館は)戸塚側(=楊心流戸塚派のこと。警視庁柔術世話掛の一角を担っていた)を屠り、警視庁の驍雄(ぎょうゆう。強い、勇ましいの意)を斬った為め、豊臣方とも見る可き柔道諸流は遂に屏息したようであったが、同時に、武士道にあるまじき卑劣な事をその後の試合に申し出してきた。それは勝負の審判に関する不公平な規定であった。」

 これまで弊ブログをお読みの諸賢には周知の事実ですが、これは完全に事実と真逆のことを書いており、「♪西から登ったお日様が 東へ沈む~」でおなじみ、バカボンの歌も真っ青なトンデモ主張です。
 史料を丹念に読み解けば読み解くほど、「勝負の審判に関する不公平な規定」を自分で勝手に決めてゴリ押しするという「武士道にあるまじき卑劣な事」をしたのは、ほかならぬ講道館です。
 これも文献を丁寧に当たればわかることですが、講道館以外の柔術勢力が「勝負の審判に関する不公平な規定」を定めた事実はひとつもありません。

 ここで、話が草創期の講道館による「勝負の審判に関する不公平な規定」に波及しましたので、草創期の講道館はどのように「武士道にあるまじき卑劣」な「勝負に関する不公平な規定」を取り決め、実行していったのかを見ていきたいと思います。
 ここで柔術側と講道館側から1人ずつの証人を登場させ、彼らの回顧録のなかから、より真実に近い(100%の真実なんてのは、再現することが不可能なので…)ものをあぶりだしていきたいと思います。
 
 まず講道館側の証人、磯貝一(1871~1947)。
 いわゆる「四天王」の少し後、講道館が「上級国民の子弟を鍛える場所」になったばかりの時期に入門し、のちに永岡秀一、宗像逸郎らとともに「講道館第二世代」のエースとなった男。
 明治26(1893)年に第三高等中学校(いまの京大)の英語教諭兼柔道師範として関西に送り込まれ、以後、「講道館の西の番頭」として君臨し続けた人物。最終段位十段。

 続いて柔術側の証人、田辺又右衛門(1869~1946)。
 岡山に本拠地を置く不遷流柔術の四世宗家。三世虎次郎から猛烈な稽古をつけられ、長じては当時、岡山や香川で盛んに行われていた「柔術角力」で、自分の何倍もデカい力士を相手に実力を磨き、その結果「寝ては無敵、サブミッションの鬼」の柔術家となります。
 明治23(1890)年、兵役を終えた又右衛門は同郷の竹内流・金谷仙十郎の推挙で警視庁柔術世話掛に就任。当時同じく警視庁柔術世話掛となっていた講道館の戸張瀧三郎・山下義韶らをケチョンケチョンに倒してしまいます。
 明治26(1893)年帰郷中の帰郷中、講道館の陰謀によって一度は世話掛の座を追われますが、金谷(のち片岡)仙十郎のとりなしにより復職。
 しかし明治28(1895)年、その金谷仙十郎がなぜか警視庁柔術世話掛を辞任して台湾へ渡航(そのまま明治30年に客死)。それにショックを受けた又右衛門はしばらくの間地元に引っ込みますが、大日本武徳会が発足して間もなく大日本武徳会の「会員」となったことが、すぐさま「講道館との死闘」につながり、結果として講道館の西下を近畿付近で止める役割を果たしました。

 講道館の「関西以西制圧の鉄砲玉」である磯貝と、寝技当代随一の田辺又右衛門との初対決ですが、田辺又右衛門は「明治31(1898)年の稽古始め」と明記しています。しかし磯貝の自伝「わが70年を語る」には、田辺と試合をしたことこそ書かれているものの、その具体的な日時を書いていません。
 ちなみに、講道館の関係者は試合で負けた場合、その日時場所を意図的に明記しない傾向があり、「四天王」以外で初めて十段に達した生粋の講道館子飼い・磯貝も全く同じことをしています。

 磯貝自伝における「対又右衛門戦」の試合描写は以下のとおり。
「予想にたがわず、始めから寝て来るのである。だから引き分けようと思へば、立ってをればそれで良いのである、(しかし)自分は勝たねばならぬ試合だ。だからどうしても寝ていかなければならぬ。相手の得意技に向って、本当に猪突の勢で立ち向かった。(中略)精の続く限り、根の続く限り攻め抜いたが、到頭引分になった。」
 
 磯貝証言だけを読むと「磯貝VS又右衛門戦」はたった1回のように思えますが、実は確認できるものだけで4回あり、その戦績は周防平民珍山判定では「又右衛門の2勝2分」。
 それを明らかにしなかった理由は単純で、初戦・二戦目は磯貝の完敗であり、しかもその内容が非常に情けないものであったから。
 だから自伝において「講道館門人が文章を書く時の作法ww」に則り、詳細な日時場所、そして内容に触れなかったわけです(断言)。

 次回は「又右衛門2勝2分」に終わった磯貝VS又右衛門戦の詳細を見ていくことで、治五郎先生はじめ講道館の幹部たちがいかに「武士道にあるまじき卑劣な事」をして「勝負の審判に関する不公平な規定」を定めたのかをあぶりだしていきたいと思います。

令和7年年頭あいさつ

2025-01-03 07:54:46 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 新年あけましておめでとうございます。「文字を書く」から「絵を描く」ほうに時間を取られるようになったため、更新頻度が恐ろしく下がってしまっている弊ブログですが、本年もよろしくお願いいたしますm(__)m。

 さて、昨年行われたパリ五輪・柔道競技では、柔道という競技や、講道館(&全柔連)が抱えている諸問題が、目に見える形で噴出して大変趣深いものがありました(;^ω^)。
 ワタクシが驚いたのは、それに関する有効な論説がネット上にほとんど転がっていなかったこと。唯一それっぽかったのが弊ブログで取り上げた、高専柔道原理主義作家・増田俊也によるお笑い論評くらいのものでした。
 またこれに付随し、柔道とは真逆に、驚くべき好成績を挙げたレスリング種目において、日本人がグレコで金を取ることが如何にむつかしいか、如何にそれを可能たらしめたかという論評も、ついぞ見ることはありませんでした。

 ワタクシはこうした、パリ五輪における格闘系競技に関する論評の動静を見て「今や我が国から、まともな『格闘技マスコミ』は絶滅したのだ」と確信しました。
 弊ブログでは、「まともな論者がいないブルーオーシャン」である格闘技関連の論評や知られざる歴史などを、これからも「格闘技実践者の視点で」「出典を明らかにし」「詳しく、わかりやすく」をモットーにお送りしていきたいと思います。

 あと今年は、更新をしっかりするよう気を付けますm(__)mm(__)m。