治五郎先生が3人目の師匠?となる起倒流・飯久保恒年師のところで修行したのは、単純計算で1年弱という、武道修行としては異例と言える短い期間であり、明治15(1882)年2月には、小さな道場であったとはいえ、講道館を設立しています。
さらに驚くべきは、たった1年くらいしか在籍していなかった治五郎先生に対し、飯久保師が明治16(1883)年、「皆伝」を允許していること。
これは先に天神真揚流を修行していたという前提があっても、また、同時代の他武術家の「皆伝」までにかかった年季を勘案しても、あまりに早すぎる「皆伝」です。
ちょっと考えてみてください。
現代において、東大在学中の二十歳そこそこのガキが現在の講道館に入門し、在学期間中、熱心に稽古をしたとしても、卒業時に六段(柔道も剣道も、六段からは地方連盟審査でなく全国組織審査となるので当時の「皆伝」に近い資格と推測)になるということが、物理的に可能でしょうか?
誰がどう考えても、そんなことは絶対不可能でしょう。しかし治五郎先生は、その不可能を可能にしてしまいました。
この「不可能を可能にした理由」は当時の武道が置かれていた状況、そして当時の日本社会における治五郎先生の社会的地位、そうしたものを含みに含んでから考察しないといけません。
講道館の「中のヤツ」や、講道館がばらまいたデタラメなプロパガンダを信じたバカな柔道家&作家(講道館の御用作家ながら、ずっとシニカルな目を以て「公式史」を担当していた異才・丸山三造だけ除く)は、治五郎先生が柔術修行を始めてからたった5年弱で天神真揚流・起倒流双方で免許皆伝となった「治五郎先生がすばらしい武道家だったからだ!」などとほざいていますが、その主張は中共や北朝鮮の「国家創設物語」以下の信憑性しかありません(;^ω^)。
以下は、ワタクシが柔道はもとより、当時の世相関連の各種資料を収集してトレースし、推察したものです。もしかすると泉下の治五郎先生や、頭の中に道着しか詰まっていないような柔道家が読んだら「♪違う違う違う、そうじゃな~い」と、鈴木雅之のように歌い出すかもしれませんが(;^ω^)、まあ、ほっときましょう。
治五郎先生が、物理的にありうべからざる短期間で免許皆伝となった最大の理由ですが…もろもろ調べた結果「治五郎先生は我が国トップクラスの権力者・大金持ちで、対する柔術家はド貧乏だったから」という身もフタもないものに落ち着きました。
まず、明治10年代の武術家の状況を見てみます。
結論から言いますと当時の武術家は軒並み、まともな生活すらおぼつかないレベルの窮乏ぶりであり、また社会的認知度も、経済状況と同様、どん底の状態でした。
ご一新によって日本伝武道は「因循で古臭いもの」あるいは「幕末に吹き荒れた、人殺しの道具」というレッテルを貼られたため、道場生は集まらず、非常な困窮状態にありました。
これは極端な事例ですが、幕末、斬殺によるテロが毎日のように起きた京都府では府知事が「武術、特に撃剣を修行するヤツは反社だ!」と言い放ち、京都市中に道場を開くことを許さなかったほどです。
この時代の武術家の窮乏ぶり、社会的地位の零落ぶりについて、治五郎先生も「柔道家としての嘉納治五郎」のなかで、このように語っています。
「当時かういふ武術をやる人は、相当に残っていは居たが、世間の大体からいふと、武術などほとんど省(かえり)みられない状態であったから、武術は極端にすたれていたといってよい。それ故、武術家は糊口の道にすら困って来て、かの有名なる剣客榊原健吉でさへ、撃剣仕合を興行して、木戸銭を修めて糊口の資となし、或柔術家は、相撲取りと取り組んで木戸銭をあつめたといふ」
では、対する治五郎先生はというと…その出自は令和の現在でも名高い銘酒「菊正宗」「白鶴」を作っている酒造業界の超名門・嘉納一族出身であり、御父上の希芝(まれよし。通称治郎作)は商人とはいえ、幕府に直接仕えた大廻船業者で、ご一新後は「商船業界のプロ」として、明治政府にそのまま使えた大立者。
治五郎先生自身はといえば、「大学と言えば東大」しかなかった時代の東大で学び、また、学生の時分から学習院で講師をするという超絶エリート…
柔術家連合とはもう、「雲泥の差」という月並みな表現では足りないくらいの、壮絶な格差があります。
(余談ですが、現在話題沸騰中の「中居正広とフジテレビの性加害問題」で引責辞任したフジ・メディアHD前代表取締役・嘉納修治は同じ嘉納一族の乾嘉納家出身だったりします(;^ω^))
そんな超弩級のエリートが、経営もままならない柔術の道場に一生懸命通って「柔術を世に広める」と力強い発言をしてくれ、しかも持っていたとて、薪の代わりにすらならない各流派の伝書を「貴重なものなので買う」などと申し出てくれるのです。師匠たちの機嫌が悪かろうはずがありません。
また、治五郎先生を見た3人の師匠は、治五郎先生の技術が拙劣であることを間違いなくわかっていたはずです。
それでも皆伝を授けた理由は、各師匠が治五郎先生を「現代の殿様」と認識しており、「武術で身を立てるならともかく、殿様の柔術なんて、この程度でいいや」という諦観もあったものと思われます。
以上のとおり、治五郎先生の「皆伝」は名誉段のようなものであり、少なくとも「実力・見識抜群につき…」という、完全なる実力で勝ち取ったものではありません。
「柔道家としての嘉納治五郎」を読む限り、治五郎先生が3人の師の下で気を入れてやっていたのは、ほぼ寝技のないスパーリングだけ!であり、型の稽古は「練習のカリキュラムに入っているから仕方なくやる」というスタンスでした。その点だけを見ても、とても実力で「皆伝」を得たとは思えません。
後年、治五郎先生が率いた柔道は「型はあっても全く無意味」「スパーリング以外に練習方法がない雑巾踊り」となり、きちんとした技術体系や上達機序を持たない、グニャグニャの「自称武道」となりましたが、その最大の理由は、実力にそぐわない「皆伝」を受けたことが発端といって間違いないでしょう。