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集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

サバキ、ふしぎ発見!(テキストとしてのサバキ編)

2016-05-23 16:11:47 | 芦原会館修行記
 長々と更新をサボってしまい、すみません。それもこれも全て、本稿を書くために時間を要していました。ごめんなさい。
 やっとこさ、「サバキ、ふしぎ発見!」第一回を書き上げることができました。
 なるべく短く、と思いましたが予想通りやはり長くなりまして・・・空手に興味がない方は、適当に読み飛ばしてくださいね。

 私ごときが言うまでもなく、芦原会館開祖・芦原英幸初代館長が「強かった!スゴかった!カッコよかった!」ということを語る書籍は枚挙に暇がありません。何しろ現在は未曾有の出版不景気なのに、その筋の界隈では未だに「芦原英幸」「サバキ」という言葉を検索ワードのように表紙に入れておくだけで、売れ行きが全然違うとか・・・。
 没後20年を経てこの人気。なんともすごいことです。
 
 しかし「先代が強かった!」「その弟子も強かった!」という話の陰で、サバキというものの姿、サバキを作ることによって先代が目指した本当の指向方向というものがあまりにもなおざりにされていないか、と最近思うようになったわけです。
 サバキを学べば誰でも先代のような強さを身につけられる…わけではない。しかし、近年のフルコン諸派がいう「既に研究し尽くされた古いテクニック、試合では使えないテクニック」というのも、全く的外れで、サバキの本質を突いていないと思うのです。
 「ケンカ空手」という先代のイメージそのままのフレーズや、「フルコンルールの殴り合いに使うテクニック」というヘンクツなメガネでは、サバキの本質を確実に見誤るのではないか。もっと違うメガネでサバキを正しく見る必要があるんじゃないのか。
 そんなことを、元門下生が僭越ながら考えてみました。
 実に僭越なサバキ論、どうかお優しい気持ちで、お読みください。

 第1回目のサバキ論は、サバキを「指導要領」「マニュアル」というメガネをかけて見てみることにしましょう。
 武道や格闘技を、学校教育や職場教育と一緒にすんな!という声もあるかもしれませんが、「人が人にものを教える」という括りにおいてあまり相違はない、ということで見ていただきたいと思います。

 日本の学校教育は、学校教育法に規定された「学習指導要領」に基づく内容を教えるようになっており、よほどへそ曲がりな私立を除き、例外はありません。
 その教育に使用されるテキストは、教科用図書検定規則に基づくいわゆる「学校教科書」が使われます。
 教える教諭の恣意によって指導内容を勝手に改変することや、端折ることは不可能です(ただ、未だにそういう奴がいるので困るんですが)。

 こうしたテキストは、椅子に座って勉強することの多い学校教育のみならず、非常な体力を使う軍隊や警察、消防の初任教育にも当然存在しますし、同じく頭も体もフル回転させないといけない、企業の初任教育や技術教育にも存在します。
 大勢の人に多くの確かな技術を教え、その教えが属人的なものとならないためには、マニュアルやテキストの存在は必要不可欠である、という証左です。
 もうひとつ、マニュアルやテキストの大きな存在意義として「どんな人でも、マニュアル記載の手順をきちんと踏めば、一定の正解にたどり着く」ということです。
 教育は属人的・属地的なものであってはならず、平均した教育成果がなければならない。習う人の素質によって教育の成果が左右されてはならない。
 マニュアルというものが必要な理由は、概ねこんな感じでしょう。

 んで、なんで長々とマニュアルやテキストの存在骨子や意義を説明したかといいますと、おそらく、先代がサバキをマニュアル化し、それを普及させることに心血を注いだ理由というのはまさにそこではないのか。そして、それまでの(そして現在も)フルコンをはじめとする各種格闘技業界が持つ一番大きな問題が「属人・属地的でない指導ができてない」、「習う人の資質によって、稽古の効果が大きく左右される指導ばかりが横行」という、2つではないかと思うわけです。

 サバキが概ね完成し、先代がそれを著書やビデオ化して世に問うていたころ、そのほかのフルコン諸派は、そのほとんどが「既存のフルコン大会で好成績を上げる」か「自流で大会を立ち上げる」ことを指向しました。
 しかし先代はそういうことを組織の指向方向とせず、地道なサバキの普及活動と、さらなるマニュアル化に心血を注ぎました。
 この取り組みの違いが何を生むか、ということを考えてみます。

 試合や大会をやる武道・格闘技団体は数多いですが、「武道の振興団体としての組織」と「ゲームを提供する場としての組織」のいずれに、どの程度の重心をかけていくか。これは非常に難しいものがあります。
 ボクシングやレスリングなどは、組織自体が完全に「ゲームをやって、それに勝つ」という方向に重心が置かれています。
 数ある格闘技的攻撃のうち、「手だけで殴る」とか「絞め・逆関節技なしで取っ組み合う」という限定されたルール自体が既にゲーム性満点です。なので、基本的な指導マニュアル自体も完全に「試合に勝つ」ことに特化して作られています。
 こうしたところでは、すべての価値観が「試合に勝つ」ということに収斂されても全く問題がないと思います。
 また、攻撃種類の限定は技術の専門化・高度化を可能にしますので、そういった意味でも、指導体系や指導要領を組みやすいと思います。

 しかし、もともとの成立目的が試合やゲームをしてそれに勝つことではない「武道」を自出とし、これを標榜しているばあい、厄介なことになります。
 「武道」はもともと殴り合う、蹴りあう、あるいは取っ組み合うということを限定しない中で技術ができていますので、よほど気をつけてルールを組まないと、道場の中でやる「武道としての技術」と、試合の中だけでやる「試合のテクニック」がどんどん乖離してくる可能性が高い。古くは柔道剣道、新しくはフルコンがこの自家撞着に陥り、結局、道場でやることと大会でやることがどんどんかけ離れていって現在に至っています。

 また、新興のフルコン諸派がそうなのですが、自流の技術もきちんと整理できていない状態なのに、「試合で勝つテクニック」ばかりを先行させると、完全な私の意見ですが、以下の3つを招きます。
・属人的で、万人受けしない技術の横行
・道場での基本稽古からかけ離れた稽古の横行
・下克上の気風
 並べてみてふと気がついたのですが、これは学生スポーツが持つ宿痾と、全く共通しています。
 ちなみに、試合や大会を開くことだけを第一義に持ってきている流派に対し、先代は自著でこう述べています。
「アメリカでも(フルコンの)大会が毎週のように繰り返され、空手が飽きられる原因となった。2、3年で消えてしまった道場も多い。そうまでして、人を集めたいのだろうか。そうまでしても集められるべきものを持っているのだろうか。私には疑問に思える」(「空手に燃え、空手に生きる」)

 先代がサバキに託したのは、武道を自出とする格闘技が持つ「属人的」「基本とかけ離れた試合テクニックの横行」「試合の結果だけが全てとなる下克上の気風」の存在しない、マニュアル立てられた指導体系ではなかったのでしょうか。
 芦原会館にはトレーニング・プログラムというものがあり、これについて先代は自著で「週刊誌の見開き2ページ分の大きさの紙を十枚綴りにしたもので、各支部に配布してある」「これがあれば、私がいなくても、各支部指導者が十分私の空手のエッセンスを道場生に教えていけるものだと自負している」(「空手に燃え、空手に生きる」より)と、完成度への自負を覗かせておられます。
 そしてもと門下生で、先代直伝のサバキを広島で正しく教えてもらった私は、その完成度に深く感心しております。

 芦原カラテには、「誰にでもできるカラテ」というキャッチコピーがありますが、これは、冒頭に掲げた2つの「マニュアルの存在意義」の後者と全く同じです。
 テキストに書いてあることを正確に履行すれば、習う人の資質を問わず、一定の成果に行き着く。
 武道や格闘技の世界でそこまで言い切れるだけの技術は、なかなか作れるものではありません。

 先代の目指した「誰にでもできるカラテ」とは、皆が理解できるきちんとした上達体系と機序を有し、それを文章や映像で可視化し、正しく履行することで、習う人の資質に頼らずに確実に、各自のペースでの上達できるもの・・・

 先代にまとわりついて離れない「ケンカ最強」とか「すごくてカッコいい」とかいうメガネを捨ててみると、いろんなことが見えてくるものですね。

 また、研究成果がきちんとたまったらサバキ論をやりますが・・・本当に久々にマジで研究・作文しました。
 サバキ論はしばらく休憩。またいつもの形態に戻します(^_^;)

無駄な修行と、その効能

2016-01-15 19:22:49 | 芦原会館修行記
 若くてバカかったころには、「一見無駄」どころか、「体力の無駄」以外の何者でもないトレーニングをよくしていたものです。

 今はもう、格闘技の「活字媒体」は、ほぼ死滅状態にありますが、私が若く、空手に狂っていた10数年前には、まだその活字媒体が生きていた最後の時代だったため、各種の格闘家の本や、雑誌でのインタビュー記事に書いてあるトレーニング方法を読み、自らの体力も、その目的をも全く無視し、ただ「同じことをしている」という満足感だけで成り立つ自主トレーニングが、まだできた時代でした。今から考えれば、まあ、しみじみとバカですね(笑)。

 そんな中でも最も思い出に残るのは、このブログや旧ブログでも何度かお話した、砂袋蹴りです。

 私は若い頃、現在では極真から又別れした、K館というフルコン流派を率いているR館長という方の本を読んでいました。
 R館長はその著書で、「バキ」の愚地独歩のモデルになった中村日出夫先生のお弟子であった時代に、砂がパンパンに詰まった袋をバシバシ殴り、蹴りして鍛えた、という話を書いしていました。
 若くてバカかった私は、たちまちその伝説に飛びつきました。
 
 まず最初に、職場で不要廃棄されていた土嚢袋をもらい、家の敷地内から採取した砂をいれて蹴ると・・・死ぬほど痛い!しかも土のう袋ですから、蹴る度に砂がボロボロ落ちてきて、まあ、いろいろと悲惨な状態に(ノД`)。
 そんなことがあったので、砂袋鍛錬はしばらく沙汰止みとしました。

 それからしばらくして、某格闘技用品会社が「砂袋用の架台と袋」を発売しました。すぐさま飛びついた私は、砂袋に砂をパンパンにつめ、蹴り始めました。
 そして・・・やっぱり、死ぬほど痛い!

 通常市販されている「サンドバッグ」なるものは、直径10~15センチほどの太いウレタンの芯が入っていて、外皮と芯の間に、ウエスをパンパンに詰めて形成しています。
 ではなぜ、未だに「サンドバッグ」と呼ばれているかというと、太古の昔にはほんとうに砂を詰めていたから、だそうです。しかしやはり、「痛い」「硬い」ということで、現在のような姿になったとのことです。
 そんなことすら知らないバカな私は、パンパンに砂を詰めたものを、おもっくそ蹴りました。そして毎回、脳天が痺れる痛みを味わっていました。

 R館長の本では「血尿が出て、皮膚が裂けて、それはそれは壮絶な修行だった」みたいなことが書いてありましたが、1000本蹴ると、それはウソじゃないんだということは分かりました。
 砂袋1000本蹴り、私の場合は片足500本ずつでしたが、1000本蹴ると、都合2回血のションベンが出ます。1回目は真っ赤っか、2回目は普通のションベンと混じって黒い・・・
 面白いことに、血のションベンを出すにはきっちり1000本蹴らないとダメでした。900本とか、800本では全然ダメでした。990本とかでもダメ。あれは面白い経験でしたね。
 ちなみにこの「血のションベン」なるものは、運動や外部刺激によって細胞の中の組織が潰れまして、通常であればこうした不純物は腎臓で濾されるのですが、腎臓での処理が間に合わないことから、潰れた細胞がそのまんま小便に混じって出てくるという現象らしく、はっきり言って体に悪いですよ(^_^;)。
 
 ただ、その蹴り込みのおかげで空手が強くなった、ということは全くなかったですし、スパー中にスネ同士がカチ当たれば、いくら鍛えていようが痛いものはイタイんですよ!
 しかも、その後おっさんになって解剖学を勉強する過程で、「部位鍛錬」というのは、効果ゼロとは言いませんが、突きというものの威力を上げる上では、はっきり言って非常に費用対効果の低いものであるとの結論を得ております。
 この砂袋蹴り、空手という競技能力を強くする、という意味では、その労力に全く見合わない、愚かなトレーニングであったと思いますが、弱い自分を無理やり動かすということや、きついことを望んでやるという根性については、一皮むけたような気がします。

 労力に全く見合わない、理不尽でムダなトレーニング。今はネットに代表される情報化社会ですので、若い人は無駄なことをせず、スマートで必要最小限の限度で結果を得ようとします。それはそれでいいことだとは思いますが、世の中は結局、理不尽なのです。
 今はものを知ったげな悪い大人が、「若い人に阿諛追従すること=若い人を理解していること」と主張し、「愛なき優しさ」を大安売りしていますが、理不尽に耐えるには理不尽な思いをするしかないですし、自分の限界を知るには、限界に近い負荷をかけるしかないのです。
 そういう意味では、私は最後の「古き悪しき?時代」を過ごすことができたのかなと思いますし、合理的な練習や勉強だけではなかなか「突き抜けられない」若い人は、ぜひそういったムチャクチャなことを、一度我が身に課してみてはどうかと思います。オススメはしませんけどね・・・。

 ちなみにこうしたムダ、無益なトレーニングに関してググると、最近私のブログが比較的すぐに出てくることが多いのですが・・・とてつもなく広く、合理的なネット社会にあっても、私のような古くてイタい事柄を語る人(しかも人体実験の結果付き)っつうのは少ないんですかね??? 

「あの子の」・・・じゃなくて、あの頃の気持ちは「ひこうき雲」

2015-11-01 20:54:41 | 芦原会館修行記
 一昨年前、国民的アニメ作家と呼ばれた宮崎パヤオという人の最終作「風立ちぬ」という映画が上映されました。
 私はこの原作を映画公開前から「モデルグラフィックス」という雑誌で読んでおり、大変アカ臭い匂いがしたのでまったく見に行く気がしませんでしたが、なぜかその主題歌に、ユーミンが大昔に歌っていた「ひこうき雲」を使ったと聞き、そのことだけが妙に記憶に残りました。

 私にとって、若き日に空を見上げて、何かに死ぬほど打ち込んだことって、なんだったのかなあ…と回想すると、すぐに答えが出てきました。
 私にとってのそれはまさしく、芦原空手でした。

 平成9年10月から平成14年3月までの4年半、まだ21~25歳と、若くてバカかった私にとって、芦原空手は人生そのものでした。
 詳細は省きますが、本当にあの頃の私は、気が狂っていたと思います。
 今も覚えています。平成10年の4月、芦原会館徳山支部から中国本部に移って初めての稽古の時。このブログでもよく紹介する、水曜のインストラクターだった、尊敬するU先輩にローキックをぶち蹴られ、「遠慮したらつまらんスよ!」と注意されてから、本当に気が狂ったように練習しました。
 今からすれば「若いねえ~」と笑ってしまうようなヤル気と稽古内容でしたが、当時は本当にマジでした。
 血のションベンが出るまで、あるいは手の甲が裂けて血が出るまで、砂袋やサンドバッグを殴るのはあたりまえ、基本の正拳中段突きを、意識がもうろうとするまでやったり(たしか3000回までは数えた記憶がある)、自主トレを終えて家に帰って玄関で倒れ、翌朝までそのまま寝てた・・・なんてこともありました。
 今も思います。岩国在勤時の3年間、週3回のペースで広島まで通って稽古し、それ以外は自宅付近で自主トレ。どう考えても39歳の現在では、絶対にできない出席率、稽古状況であったと・・・。
 で、それで劇的に強くなったかというとそんなことはなく、芦原会館を辞め、そのほかの格闘技をある程度修めた現在でも、いまだに「ワシは弱い、まだ弱い、あれができてない、これができてない・・・」と戦々恐々としているのですが(^_^;)。

 そういえば、河島英五の名曲「なにかいいことないかな」では、河島英五は「中学校の頃の僕はバスケがこの世のすべてのような顔をしていた」と歌っていましたが、20代前半の私にとっては、芦原空手がまさにそれでした。

 その成否はともかくとして、若い頃に後先考えず、体を張った一事に没頭することは、人間がしょせん動物である以上、とても重要なことだと考えています。おじさんになってからそれがない人と付き合う機会があっても、考え方の根底が違うのか、なんか私はとっつきにくい・・・。
 
 松任谷由実「ひこうき雲」の一節です。
「ほかの人にはわからない あまりにも若すぎたと ただ思うだけ  けれどしあわせ」

 私にとって、「ほかの人にはわから」ず、「若すぎた」からできて「しあわせ」だったこと。それは間違いなく、芦原空手でした。
 その後、格闘技の「母港」となったのは、大阪府泉佐野市の格闘技吉田道場でしたが、その前段階、何者でもなく、ただ若かった私が「空に憧れて、空をかけてゆく」・・・みたいな感じで、無我夢中で駆け抜けることができたのは、まぎれもなく、芦原空手でした。今も感謝の気持ちでいっぱいです。
 
 今私の手元にある修行の遺産としては、1着の空手着と、初段の黒帯だけです。
 
 

あー夏休みと夏合宿

2015-03-31 19:58:08 | 芦原会館修行記
 今は昔、芦原会館は愛媛県北条市(今は松山市の領地になりましたが)のスポーツセンターで、4日間に亘る夏合宿をしていました。
 4日間、といっても、某フルコン流派のように、バカ高い参加費を取られた上、全部参加しないと昇段審査も受けさせてもらえない…なんていう、カツアゲ寸前のようなことは全くなく、1日間からでも参加OK、参加費は1日単位でリーズナブル、1日の練習練習は2時間程度(そのかわり体育館は常に開けており、マジで練習したい人は朝から晩まで練習しても大丈夫・・・でした)、レクレーションもいっぱい、ご飯もおいしい、という、夢のように楽しい合宿でした(今はやっていませんよ)。
 そういえばあの当時でも、目を三角にして、どエライ人数で参加していた東京本部は、何か秘するところがあったのでしょうか(謎)。まあ今はただの部外者なので、どうでもいいのですが。

 合宿の楽しみといえば、まるで違う支部のおもしろい人と、酒を飲みながら聞く昔話。合宿はいちおう建前としては禁酒だったのですが(汗)、そこは社会人の多い芦原会館の合宿、飲酒は黙認、という状態でした。当時の話ですよ!
 
 平成10年、緑帯(4級になりたて)のころから、平成13年(初段取って満2年目)まで参加し続けた夏合宿。
 伝説の中元師範(現・中元会館館長)にお会いさせていただいたり、同じく伝説の原田師範(現・如水会館館長。そういえば平成11年3月には、芦原会館をご退職なさる数日前に広島に来ていただき、原田師範に直々に稽古をつけて頂きました。そのときの写真はいまでも宝物です。ボッコボコにされましたが・・・)にお会いできたり、その他他支部の有名支部長様や、強豪様と出会わさせて頂きました。おもに西日本の方ばかりでしたが・・・・。
 合宿でお会いできた東日本の「有名支部長」といえば、4年目の合宿の時班長だった、藤田田園調布支部長くらいでしょうか。
 知る人ぞ知る「ムチムチ会館のムチムチ空手」という出し物の実施者です。これを知っている方は相当コアな芦原空手ファンです。

 平成27年2月。船をドックに回航する道すがら、北条の沖を通りました。スポーツセンターは何も変わらず建っており、海の水は、私が21歳の時と変わらず、綺麗なままでした。
 あそこに集った人々の間にはあれからいろんな離合集散があったのになあ。おっと、私も今は部外者だったなあ。

 強豪が集い、楽しく、リーズナブル、そして強くなれる合宿。
 空前にして・・・・絶後(しみじみ)。
 

 

ありがとう、芦原空手

2015-03-01 19:03:58 | 芦原会館修行記
 21歳の秋から、もうすぐ26歳になんなんとする25歳の春ににかけ、私は新国際空手道連盟芦原会館の門人でした。
 満4年半の修行歴のうち、最初の半年は今は亡き山口県徳山支部、あとの4年は広島の中国本部に所属していました。
 最終取得段位は初段。異動がなければ2段を受けようと準備していました。
 大阪への異動をきっかけにいろいろあって、自然消滅的にやめてしまいましたが、私に初めて本物の空手を示していただき、素晴らしい技術を付与していただき、たくさんの素晴らしい先輩や同輩に会えた芦原会館には、未だに感謝でいっぱいです。

 先代の芦原英幸館長は、今も多くの空手マンの夢として存在しています。
 空手に関する勤勉さ、先見性、卓越した技術の発掘及び整理、教授方法の合理化、そして物理的な強さ。
 どれをとっても、先代以上に輝きのある人を、私は知りません。
 そしてその、先代に感化され、懸命に鍛え上げて生き残った諸先輩もまた、魅力たっぷりな方々ばかりでした。

 私が今だに格闘技の指標としている、中国本部時代の先輩がいます。
 金曜のインストラクターだったK田先輩と、水曜のインストラクターだったU野先輩です。
 K田先輩は昇段に全く頓着のない人で、ボロボロの初段の帯をつけ、メチャメチャ厳しい稽古をつけてくれました。
 蹴りもパンチも恐ろしく重く、早く、今だに勝てる気がしません。よく金玉を蹴られ、悶絶していました・・・。
 私の記憶が正しければ、金曜はマジでやる気のある人以外全く近寄らない稽古で、確か1回の出席人数が10人前後でした。
 この金曜稽古には、平成11年から14年3月まで、ほぼ毎回顔を出していたのが、私のハナクソほどの自慢です。

 U野先輩は、水曜のビギナークラスの担当でした。
 ただ、個人的に私によく目をかけてくださり、時間外に約束組手を徹底的にやってくれました。
 ちなみにU野先輩の「課外授業」に引きずり込まれたビギナー黒帯には、その前蹴りがよけられず、稽古に嫌気がさし、やめていく人がままいましたが、私はありったけの勇気を振り絞って、なんとか食らいついていきました。そのおかげで、黒帯になって下の帯の方のサバキを受けるようになっても、そんなに困った記憶はありません。
 U野先輩の名言。「サバキもろくにできんくせに、たまに稽古に来て威張ってる黒帯を見ると、腹立つ」。
 黒帯には黒帯にふさわしい強さを備えるべきだと強く信じ、その強さを自他に求めたU野先輩の前蹴りは怖かった・・・腹に刺さる左の前蹴り。今思い出しても、チビりそうです。

 そうやって当時のことを思い出してふと気づいたのは、「基本」と「約束組手」で技を練ることの重要性です。
 当時芦原会館には試合や自由組手というものが存在せず、約束組手や「サバキ」と呼ばれるもので、技を練ることに眼目が置かれていました。
 「自由組手をしないなんて、強さがわからない」なんて人も、たまにはいました。
 今もそうですが、東京本部は勝手に試合に出たり、勝手に試合用の練習をしたりしていました。
 今はそれが黙認じゃなく、公認状態になっているのがどうなんだろうと思うんですが。
 しかし、様々な格闘技の修行を経て、たくさんの試合やスパーを行い、10本以上の黒帯を持つに至った今思いますが、あの修行方法は極めて合理的で正しいものだったと、断言できます。
 試合でいい成績を残して、太く短く終わるというのであれば、勝つ方法は簡単です。
 フィジカルトレーニングをやりつつスパーやミットを行って試合勘を養う練習をひたすらすればいいのです。
 ボクシングがまさにそうじゃないですか。
 世に「実戦」を謳う空手の多くがこれを勘違いしています。
「試合に勝てば実戦だ」「顔面を手で殴れば実戦だ」・・・・いずれも空手というものが持つ可能性を勝手に制限し、勝手なレッテル貼りをしているだけに過ぎません。

 空手というものの可能性。あるいは体力作りであり、あるいは街でならず者に絡まれた時の護身であり、といった、多種多様なニーズに応じた多種多様なあり方を考えた場合、試合に出るとか勝つとか言うのも、確かにひとつの目的ではありますが、それが空手の全てではありません。
 試合をしないから弱い、試合をするから強いというのは、とても短絡的で単細胞な考え方です。
 先代のエラいところは、そういう単細胞な考え方を熟慮の末切り捨て、自分の納得するレベルになるまでやろうとしなかった、というところにあると思います。
 そして基本を見直し、約束組手で技を練り上げる。
 芦原会館は、極真から派生した他の流派に比べ、ダントツに技のバリエーションが豊富であるとの評価を受けますが、それは約束組手を重要視し、その実効性を絶えず探求する姿勢にあると思います。
 技の有効性は二の次、とにかく優勢に試合を進めることだけがすべての価値観であるガチカチのスパーや自由組手からは、絶対に自由度や柔軟性の高い技は出てきません。
 指導者は大いに、いにしえの芦原会館を参考にすべきでしょう。

 空手と名前のつくものを始め、結構な年数が経ちます。今も沖縄拳法の大先生に師事して空手を細々続けていますが、大先生の話を聞くにつけ、先代の技術のスゴさが裏付けられ、びっくりすることが多々あります。
 空手とは、試合で勝つことも重要なのかもしれませんが、自分の求める強さの姿をしっかり定め、それに必要なことをじっくり練磨していくということができるのが、本当の素晴らしさなんじゃないかと思います。
 芦原空手、私が習っていたころの芦原空手には、そうした魅力がたっぷりあふれていました・・・・

 今は門人じゃないので勝手なことが言えません。