長々と更新をサボってしまい、すみません。それもこれも全て、本稿を書くために時間を要していました。ごめんなさい。
やっとこさ、「サバキ、ふしぎ発見!」第一回を書き上げることができました。
なるべく短く、と思いましたが予想通りやはり長くなりまして・・・空手に興味がない方は、適当に読み飛ばしてくださいね。
私ごときが言うまでもなく、芦原会館開祖・芦原英幸初代館長が「強かった!スゴかった!カッコよかった!」ということを語る書籍は枚挙に暇がありません。何しろ現在は未曾有の出版不景気なのに、その筋の界隈では未だに「芦原英幸」「サバキ」という言葉を検索ワードのように表紙に入れておくだけで、売れ行きが全然違うとか・・・。
没後20年を経てこの人気。なんともすごいことです。
しかし「先代が強かった!」「その弟子も強かった!」という話の陰で、サバキというものの姿、サバキを作ることによって先代が目指した本当の指向方向というものがあまりにもなおざりにされていないか、と最近思うようになったわけです。
サバキを学べば誰でも先代のような強さを身につけられる…わけではない。しかし、近年のフルコン諸派がいう「既に研究し尽くされた古いテクニック、試合では使えないテクニック」というのも、全く的外れで、サバキの本質を突いていないと思うのです。
「ケンカ空手」という先代のイメージそのままのフレーズや、「フルコンルールの殴り合いに使うテクニック」というヘンクツなメガネでは、サバキの本質を確実に見誤るのではないか。もっと違うメガネでサバキを正しく見る必要があるんじゃないのか。
そんなことを、元門下生が僭越ながら考えてみました。
実に僭越なサバキ論、どうかお優しい気持ちで、お読みください。
第1回目のサバキ論は、サバキを「指導要領」「マニュアル」というメガネをかけて見てみることにしましょう。
武道や格闘技を、学校教育や職場教育と一緒にすんな!という声もあるかもしれませんが、「人が人にものを教える」という括りにおいてあまり相違はない、ということで見ていただきたいと思います。
日本の学校教育は、学校教育法に規定された「学習指導要領」に基づく内容を教えるようになっており、よほどへそ曲がりな私立を除き、例外はありません。
その教育に使用されるテキストは、教科用図書検定規則に基づくいわゆる「学校教科書」が使われます。
教える教諭の恣意によって指導内容を勝手に改変することや、端折ることは不可能です(ただ、未だにそういう奴がいるので困るんですが)。
こうしたテキストは、椅子に座って勉強することの多い学校教育のみならず、非常な体力を使う軍隊や警察、消防の初任教育にも当然存在しますし、同じく頭も体もフル回転させないといけない、企業の初任教育や技術教育にも存在します。
大勢の人に多くの確かな技術を教え、その教えが属人的なものとならないためには、マニュアルやテキストの存在は必要不可欠である、という証左です。
もうひとつ、マニュアルやテキストの大きな存在意義として「どんな人でも、マニュアル記載の手順をきちんと踏めば、一定の正解にたどり着く」ということです。
教育は属人的・属地的なものであってはならず、平均した教育成果がなければならない。習う人の素質によって教育の成果が左右されてはならない。
マニュアルというものが必要な理由は、概ねこんな感じでしょう。
んで、なんで長々とマニュアルやテキストの存在骨子や意義を説明したかといいますと、おそらく、先代がサバキをマニュアル化し、それを普及させることに心血を注いだ理由というのはまさにそこではないのか。そして、それまでの(そして現在も)フルコンをはじめとする各種格闘技業界が持つ一番大きな問題が「属人・属地的でない指導ができてない」、「習う人の資質によって、稽古の効果が大きく左右される指導ばかりが横行」という、2つではないかと思うわけです。
サバキが概ね完成し、先代がそれを著書やビデオ化して世に問うていたころ、そのほかのフルコン諸派は、そのほとんどが「既存のフルコン大会で好成績を上げる」か「自流で大会を立ち上げる」ことを指向しました。
しかし先代はそういうことを組織の指向方向とせず、地道なサバキの普及活動と、さらなるマニュアル化に心血を注ぎました。
この取り組みの違いが何を生むか、ということを考えてみます。
試合や大会をやる武道・格闘技団体は数多いですが、「武道の振興団体としての組織」と「ゲームを提供する場としての組織」のいずれに、どの程度の重心をかけていくか。これは非常に難しいものがあります。
ボクシングやレスリングなどは、組織自体が完全に「ゲームをやって、それに勝つ」という方向に重心が置かれています。
数ある格闘技的攻撃のうち、「手だけで殴る」とか「絞め・逆関節技なしで取っ組み合う」という限定されたルール自体が既にゲーム性満点です。なので、基本的な指導マニュアル自体も完全に「試合に勝つ」ことに特化して作られています。
こうしたところでは、すべての価値観が「試合に勝つ」ということに収斂されても全く問題がないと思います。
また、攻撃種類の限定は技術の専門化・高度化を可能にしますので、そういった意味でも、指導体系や指導要領を組みやすいと思います。
しかし、もともとの成立目的が試合やゲームをしてそれに勝つことではない「武道」を自出とし、これを標榜しているばあい、厄介なことになります。
「武道」はもともと殴り合う、蹴りあう、あるいは取っ組み合うということを限定しない中で技術ができていますので、よほど気をつけてルールを組まないと、道場の中でやる「武道としての技術」と、試合の中だけでやる「試合のテクニック」がどんどん乖離してくる可能性が高い。古くは柔道剣道、新しくはフルコンがこの自家撞着に陥り、結局、道場でやることと大会でやることがどんどんかけ離れていって現在に至っています。
また、新興のフルコン諸派がそうなのですが、自流の技術もきちんと整理できていない状態なのに、「試合で勝つテクニック」ばかりを先行させると、完全な私の意見ですが、以下の3つを招きます。
・属人的で、万人受けしない技術の横行
・道場での基本稽古からかけ離れた稽古の横行
・下克上の気風
並べてみてふと気がついたのですが、これは学生スポーツが持つ宿痾と、全く共通しています。
ちなみに、試合や大会を開くことだけを第一義に持ってきている流派に対し、先代は自著でこう述べています。
「アメリカでも(フルコンの)大会が毎週のように繰り返され、空手が飽きられる原因となった。2、3年で消えてしまった道場も多い。そうまでして、人を集めたいのだろうか。そうまでしても集められるべきものを持っているのだろうか。私には疑問に思える」(「空手に燃え、空手に生きる」)
先代がサバキに託したのは、武道を自出とする格闘技が持つ「属人的」「基本とかけ離れた試合テクニックの横行」「試合の結果だけが全てとなる下克上の気風」の存在しない、マニュアル立てられた指導体系ではなかったのでしょうか。
芦原会館にはトレーニング・プログラムというものがあり、これについて先代は自著で「週刊誌の見開き2ページ分の大きさの紙を十枚綴りにしたもので、各支部に配布してある」「これがあれば、私がいなくても、各支部指導者が十分私の空手のエッセンスを道場生に教えていけるものだと自負している」(「空手に燃え、空手に生きる」より)と、完成度への自負を覗かせておられます。
そしてもと門下生で、先代直伝のサバキを広島で正しく教えてもらった私は、その完成度に深く感心しております。
芦原カラテには、「誰にでもできるカラテ」というキャッチコピーがありますが、これは、冒頭に掲げた2つの「マニュアルの存在意義」の後者と全く同じです。
テキストに書いてあることを正確に履行すれば、習う人の資質を問わず、一定の成果に行き着く。
武道や格闘技の世界でそこまで言い切れるだけの技術は、なかなか作れるものではありません。
先代の目指した「誰にでもできるカラテ」とは、皆が理解できるきちんとした上達体系と機序を有し、それを文章や映像で可視化し、正しく履行することで、習う人の資質に頼らずに確実に、各自のペースでの上達できるもの・・・
先代にまとわりついて離れない「ケンカ最強」とか「すごくてカッコいい」とかいうメガネを捨ててみると、いろんなことが見えてくるものですね。
また、研究成果がきちんとたまったらサバキ論をやりますが・・・本当に久々にマジで研究・作文しました。
サバキ論はしばらく休憩。またいつもの形態に戻します(^_^;)
やっとこさ、「サバキ、ふしぎ発見!」第一回を書き上げることができました。
なるべく短く、と思いましたが予想通りやはり長くなりまして・・・空手に興味がない方は、適当に読み飛ばしてくださいね。
私ごときが言うまでもなく、芦原会館開祖・芦原英幸初代館長が「強かった!スゴかった!カッコよかった!」ということを語る書籍は枚挙に暇がありません。何しろ現在は未曾有の出版不景気なのに、その筋の界隈では未だに「芦原英幸」「サバキ」という言葉を検索ワードのように表紙に入れておくだけで、売れ行きが全然違うとか・・・。
没後20年を経てこの人気。なんともすごいことです。
しかし「先代が強かった!」「その弟子も強かった!」という話の陰で、サバキというものの姿、サバキを作ることによって先代が目指した本当の指向方向というものがあまりにもなおざりにされていないか、と最近思うようになったわけです。
サバキを学べば誰でも先代のような強さを身につけられる…わけではない。しかし、近年のフルコン諸派がいう「既に研究し尽くされた古いテクニック、試合では使えないテクニック」というのも、全く的外れで、サバキの本質を突いていないと思うのです。
「ケンカ空手」という先代のイメージそのままのフレーズや、「フルコンルールの殴り合いに使うテクニック」というヘンクツなメガネでは、サバキの本質を確実に見誤るのではないか。もっと違うメガネでサバキを正しく見る必要があるんじゃないのか。
そんなことを、元門下生が僭越ながら考えてみました。
実に僭越なサバキ論、どうかお優しい気持ちで、お読みください。
第1回目のサバキ論は、サバキを「指導要領」「マニュアル」というメガネをかけて見てみることにしましょう。
武道や格闘技を、学校教育や職場教育と一緒にすんな!という声もあるかもしれませんが、「人が人にものを教える」という括りにおいてあまり相違はない、ということで見ていただきたいと思います。
日本の学校教育は、学校教育法に規定された「学習指導要領」に基づく内容を教えるようになっており、よほどへそ曲がりな私立を除き、例外はありません。
その教育に使用されるテキストは、教科用図書検定規則に基づくいわゆる「学校教科書」が使われます。
教える教諭の恣意によって指導内容を勝手に改変することや、端折ることは不可能です(ただ、未だにそういう奴がいるので困るんですが)。
こうしたテキストは、椅子に座って勉強することの多い学校教育のみならず、非常な体力を使う軍隊や警察、消防の初任教育にも当然存在しますし、同じく頭も体もフル回転させないといけない、企業の初任教育や技術教育にも存在します。
大勢の人に多くの確かな技術を教え、その教えが属人的なものとならないためには、マニュアルやテキストの存在は必要不可欠である、という証左です。
もうひとつ、マニュアルやテキストの大きな存在意義として「どんな人でも、マニュアル記載の手順をきちんと踏めば、一定の正解にたどり着く」ということです。
教育は属人的・属地的なものであってはならず、平均した教育成果がなければならない。習う人の素質によって教育の成果が左右されてはならない。
マニュアルというものが必要な理由は、概ねこんな感じでしょう。
んで、なんで長々とマニュアルやテキストの存在骨子や意義を説明したかといいますと、おそらく、先代がサバキをマニュアル化し、それを普及させることに心血を注いだ理由というのはまさにそこではないのか。そして、それまでの(そして現在も)フルコンをはじめとする各種格闘技業界が持つ一番大きな問題が「属人・属地的でない指導ができてない」、「習う人の資質によって、稽古の効果が大きく左右される指導ばかりが横行」という、2つではないかと思うわけです。
サバキが概ね完成し、先代がそれを著書やビデオ化して世に問うていたころ、そのほかのフルコン諸派は、そのほとんどが「既存のフルコン大会で好成績を上げる」か「自流で大会を立ち上げる」ことを指向しました。
しかし先代はそういうことを組織の指向方向とせず、地道なサバキの普及活動と、さらなるマニュアル化に心血を注ぎました。
この取り組みの違いが何を生むか、ということを考えてみます。
試合や大会をやる武道・格闘技団体は数多いですが、「武道の振興団体としての組織」と「ゲームを提供する場としての組織」のいずれに、どの程度の重心をかけていくか。これは非常に難しいものがあります。
ボクシングやレスリングなどは、組織自体が完全に「ゲームをやって、それに勝つ」という方向に重心が置かれています。
数ある格闘技的攻撃のうち、「手だけで殴る」とか「絞め・逆関節技なしで取っ組み合う」という限定されたルール自体が既にゲーム性満点です。なので、基本的な指導マニュアル自体も完全に「試合に勝つ」ことに特化して作られています。
こうしたところでは、すべての価値観が「試合に勝つ」ということに収斂されても全く問題がないと思います。
また、攻撃種類の限定は技術の専門化・高度化を可能にしますので、そういった意味でも、指導体系や指導要領を組みやすいと思います。
しかし、もともとの成立目的が試合やゲームをしてそれに勝つことではない「武道」を自出とし、これを標榜しているばあい、厄介なことになります。
「武道」はもともと殴り合う、蹴りあう、あるいは取っ組み合うということを限定しない中で技術ができていますので、よほど気をつけてルールを組まないと、道場の中でやる「武道としての技術」と、試合の中だけでやる「試合のテクニック」がどんどん乖離してくる可能性が高い。古くは柔道剣道、新しくはフルコンがこの自家撞着に陥り、結局、道場でやることと大会でやることがどんどんかけ離れていって現在に至っています。
また、新興のフルコン諸派がそうなのですが、自流の技術もきちんと整理できていない状態なのに、「試合で勝つテクニック」ばかりを先行させると、完全な私の意見ですが、以下の3つを招きます。
・属人的で、万人受けしない技術の横行
・道場での基本稽古からかけ離れた稽古の横行
・下克上の気風
並べてみてふと気がついたのですが、これは学生スポーツが持つ宿痾と、全く共通しています。
ちなみに、試合や大会を開くことだけを第一義に持ってきている流派に対し、先代は自著でこう述べています。
「アメリカでも(フルコンの)大会が毎週のように繰り返され、空手が飽きられる原因となった。2、3年で消えてしまった道場も多い。そうまでして、人を集めたいのだろうか。そうまでしても集められるべきものを持っているのだろうか。私には疑問に思える」(「空手に燃え、空手に生きる」)
先代がサバキに託したのは、武道を自出とする格闘技が持つ「属人的」「基本とかけ離れた試合テクニックの横行」「試合の結果だけが全てとなる下克上の気風」の存在しない、マニュアル立てられた指導体系ではなかったのでしょうか。
芦原会館にはトレーニング・プログラムというものがあり、これについて先代は自著で「週刊誌の見開き2ページ分の大きさの紙を十枚綴りにしたもので、各支部に配布してある」「これがあれば、私がいなくても、各支部指導者が十分私の空手のエッセンスを道場生に教えていけるものだと自負している」(「空手に燃え、空手に生きる」より)と、完成度への自負を覗かせておられます。
そしてもと門下生で、先代直伝のサバキを広島で正しく教えてもらった私は、その完成度に深く感心しております。
芦原カラテには、「誰にでもできるカラテ」というキャッチコピーがありますが、これは、冒頭に掲げた2つの「マニュアルの存在意義」の後者と全く同じです。
テキストに書いてあることを正確に履行すれば、習う人の資質を問わず、一定の成果に行き着く。
武道や格闘技の世界でそこまで言い切れるだけの技術は、なかなか作れるものではありません。
先代の目指した「誰にでもできるカラテ」とは、皆が理解できるきちんとした上達体系と機序を有し、それを文章や映像で可視化し、正しく履行することで、習う人の資質に頼らずに確実に、各自のペースでの上達できるもの・・・
先代にまとわりついて離れない「ケンカ最強」とか「すごくてカッコいい」とかいうメガネを捨ててみると、いろんなことが見えてくるものですね。
また、研究成果がきちんとたまったらサバキ論をやりますが・・・本当に久々にマジで研究・作文しました。
サバキ論はしばらく休憩。またいつもの形態に戻します(^_^;)