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集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

「サバキ、ふしぎ発見!」の番外編・実戦を知らない「武道」のセンセイを裁汰するの文

2019-06-08 20:58:26 | 芦原会館修行記
 今回はいつもの技術論的「サバキ・ふしぎ発見!」からは少し離れますが、「武道」なるものの実戦への供与に関する所見と、それに付随し、芦原会館が試合を永年しなかったことに関する所見について申し述べようと思います。

 先般、神奈川県川崎市において、引きこもりをこじらせた50代のおっさんが社会を逆恨みした挙句に通り魔を行い、死者2名、重軽傷者10数名を出すという痛ましい事件が発生しました。本件の犠牲者・負傷者につきましては、弊ブログからも衷心よりお悔やみ、あるいはお見舞い申し上げます。

 さて、本件に関する話題を収集する中で、このようなツイートを発見しました。
「●さんのツイート
 去年、お師匠に、『刃物を振り回している人に勝てますかね?』と聞いたら、
『無理だね。相手は間合いも何もない。自分の意のままにしか動いていないから、何するか分かったもんじゃない。下手に応戦なんかしないで走って逃げろ。』
これが剣道最高段位保持者の答え。」

 これに対するネットの反応も、「合気道でも逃げろと教わりますね」「素人はまず基本が無いから動きが読みにくく相手にするにはとても疲れました。(´×ω×`)相手が刃物を振り回してる狂人となればなおのことムリだと思います。」「走って逃げろ。教訓です。(❁´ω`❁)」といった具合に、概ね肯定的な意見ばかりでした。

 先述の「剣道高段者」の意見に関し、私見をズバリ申し述べます。
 これが「何も武道・格闘技を修めていない一般人(特に女性)」の意見であれば、これは百点満点の回答でしょう。
 またこの「剣道高段者」が、●さんの蛮勇の発起を戒めた言葉であるとの心根が確定できれば、頷けないこともない言葉です。
 しかしこれが、「俺はスポーツの竹刀剣道しか知らないから、刃物を持ったキチガイを相手にするノウハウも胆力も技術もない。だから走って逃げろとしか教えられない。だから俺も、そうした変事に遭遇したら、何もかもうっちゃらかして走って逃げる」というような性根から出た言葉であるなら、人様からお金を取って武道を教える者として最低最悪の逃げであり、さっさと剣道のカンバンを下ろし、「スポーツ竹刀道」というカンバンでも掲げ直すべきだと思います。

 以前も弊ブログでお話ししましたが、武道とはもともとお侍さんが戦場でやっていた実戦の一部を切りとり、その部分の技術を先鋭化させたものとされていますし、柔道・剣道・合気道などといったいわゆる日本伝武道はそうしたものが源流であるとされ、「これはかつて命のやり取りで使われた、磨き上げられた技だ」などと標榜する指導者も少なくありません。
 であれば、いやしくも「武道」を標榜する技術を人様からお金をいただいて教えているのであれば、スポーツルールという枠内にとどまらず、「実戦に供与する」ということを常にシビアに考え、現実に生起しうるであろう「実戦」というものの情報を細かく収集し、相手はどのように凶行に及ぶのか、自ら教えている武道がそれに対してどのような有効性を発揮しうるのか、あるいはその武道の技術で対応しきれないのならほかの類似の武道・格闘技の技でどのようなものが使えるか…ということを虚心坦懐に研究し、きちんと教えなければダメです。
 しかし悲しいことにその多くは、スポーツルールの枠内で許された技を漫然と教えているだけであり、実戦とは何か、犯罪に巻き込まれるとはどういうことか、ということを真剣に考えているところは、ゼロとはいいませんが、本当に数少ないのが悲しい現実です。

 それを裏付けるように、武道家・格闘家が実際に自分の身に起こった変事に際し、何もできず、やられ放題にやられたという話はよく耳にしますが、ここでは冒頭に剣道の先生の話が出てきましたので「竹刀剣道」が実戦で敗れた例を挙げます。
 昭和7年に勃発した第一次上海事変では実際に刀での斬り合いが生起しましたが、剣道の高段者ほど、支那兵に斬り殺されました。
 支那兵は厚い綿入れの上着を着用し、鉄兜をかぶっていたため、スポーツ剣道の「面」「胴」を打っても相手が死なない、倒れない。逆に懐に入られ、青龍刀の斬撃の餌食になりました。これは「スポーツ武道の実戦からの乖離」を示す好例といっていいでしょう。
 これはその本人はもとより、やられた人間の師匠あるいは上部組織が「実戦」というものを調べる・考える・対策を築く・鍛えるということを怠った末路であり、いずれにしても恥さらし以外の何物でもありません。

 先代芦原館長が「試合をしない、サバキを練る」ということを芦原カラテの基本方針とし、これを貫いた理由は、スポーツ的ルールに固執することで『実戦』に向ける目がおろそかになり、『実戦に役立つ武道』の色合いが薄くなることを危惧したからではないか。最近このように考えることが本当に増えています。

 先代のサバキは先代の「実戦経験」のみならず、各種の格闘技を研究・実践した集大成ともいえるものであり、その完成度の高さはまさに折り紙付きといえます。
 ワタクシもいくつかの「実戦らしきもの」を経験しましたが、サバキの思想に基づいた技は非常に使い前がよく、その都度危機を救ってくれました。また、ほかの格闘技に転向してからも「あ、サバキのあそこでやっていたヤツは、こういうことじゃったんか!」と気づかされることも多々あり、その完成度の高さはハンパではありません。
 先代は、出身道場である極真会館が、試合・大会の隆盛に伴って試合に勝つテクニックだけを先鋭化させ、いつしか修行者の上に「試合での成績こそが全て」という一方的な価値観がのしかかるようになり、それによってフルコンの可能性が「試合テクニック=ローと腹の蹴り合い・殴り合い」だけにシュリンクしていく過程をつぶさに見ていたからこそ、その極北である実戦性を磨きあげ、「理不尽に打ち勝つ」(「理不尽な暴力」とか「世の中の理不尽」といった言葉は先代の著書に多数出てきており、サバキを理解するキーワードでもあります)技術を制定し、これを磨くことを組織の方針としたことにより、芦原の会員を「ある組織の試合」という狭い世界の勝者ではなく、社会の勝者として元気づけるようにした。これこそ「武道」のあるべき姿であり、ワタクシが今も先代を尊崇してやまない理由です。
 
 ワタクシはなにも、「手に何らの技術も持たない人が、蛮勇を振るってキチガイと戦え」と言っているわけではありません。制圧技術を何も持たない人が、自分だけに向けられた理不尽や悪意を躱すには、逃げるのが何よりイチバン。これはワタクシも同意いたします。
 しかし、世の中には「逃げられない、逃げてはいけない」という状況が惹起すること、そして、それを制止できる技能や力がある人が、その責務を何もかも放棄して逃亡することを許しているわけでない、ということを忘れてはいけません。
 今回の川崎の事件でのように、逃げる足を持たない子供が理不尽な狂気に晒されている、あるいは逃げる場所が限られている、あるいは警察が臨場するまでに長い時間がかかる…そうした状況下で、手に制圧技術を持つ大の男が自分の怖気の赴くまま、自分の身の安全だけを最優先し、ケツに帆掛けて走って逃げる…これはまさしく、先代芦原館長が嫌った「理不尽な暴力」を野放しにする行為であり、先代館長が生きていれば「バカな先生っちゅうのは、どこでもおるんよのー!」と言いつつ、そのバカ先生を道場破りして、ボコボコにするでしょう(;^ω^)。

 そんなヤツがいたとすれば、ワタクシは心の底から軽蔑しますし、そんなヤツの道場なんか、さっさとつぶれてしまえとしか思いません

サバキ・ふしぎ発見!(サバキとトラッピングの意外なる共通点)

2019-02-18 19:45:08 | 芦原会館修行記
 国内フルコン諸流派には「ケンカ空手」を標榜するものが多々あります。出始めの極真が「ケンカ空手」を標榜していたのは皆様もよくご存じのことと思います。
 ただ、その内実をよくよく眺めてみますとおおむね「相手を直接拳足で殴るから実戦的」「顔面を殴るルールを採用しているから実戦的」「投げを取り入れたルールを採用してるから実戦的」といった理由だけで「ケンカ空手」「実戦空手」と自称する流派が大多数で、実戦とはいかなるものか、どういった技が有効なのかということを帰納的に導き出し、人に教えられるオリジナルの技能を備えて教えている流派はほぼ皆無…といっていいでしょう。
 そうした意味で芦原会館の「サバキ」は、「ケンカ空手」を標榜する中で本当に珍しい、実戦で使えるソフトを持つ流派であり、その効能はワタクシのみならず、多くの腕の立つ修行者が証言しているとおりです(今はどうだか知らないですけどね(;^ω^))。
 え、「オマエはどこのどういう実戦でサバキの効果を実感したのか」ですって??それはまあ、若気の至りというもので(;^ω^)。ただ、芦原カラテ4つのステップと、そこからの投げやぶつけ(;^ω^)は本当に使えるんですよ!
 
 さて、先代を始めとして世の中には「天才」と呼ばれるスゴイ生き物がおり、本当にスゴいものを創造するわけですが…先代のサバキもさることながら、世界中には「実戦に供して愧じないテクニック」という意味で、無視して通れない技術がほかにもあります。今回はそんな「実戦に供して愧じないテクニック」のうち、「トラッピング」と呼ばれるテクニックと、サバキとの共通点についてお話ししたいと思います。

 「トラッピング」とはもともと、サッカーやホッケーなどでタマを受け止め、一時的に自己の支配下に置くことをいいますが、そこから長じて、相手を瞬間的に「押して」「引いて」「両腕を制して」といった形でコントロールする格闘技術を総称しているようで、こいつをメインの技術のとして据えている格闘技は…各種フィリピン武術であったり、ジークンドーを標榜する諸派といったところ。
 トラッピングはシンプルながら合理的な技術と、武器術との親和性の高さから多数の国の軍隊格闘技として採用されており、その実戦性は折り紙付きといえましょう。
 今回はサバキと、このトラッピングとの意外なる共通点を見ていきたいと思います。

 まず、サバキとトラッピング最大の共通点は「インファイトして相手に近づくほど、技の精度が高まる」こと。語弊を恐れずに言えば、「相手に密着するくらいの場所でないと、威力がほぼなくなる」と表現してもいいのかもしれません。
 まずサバキの定義について、先代は著書で「インファイトするほど相手の動きをコントロールできる」「サバキの基本はインファイトである」(いずれも、「実戦!芦原カラテ3 誰にでもできる空手」より)としており、トラッピングについては、某ジークンドー系流派の先生は「常に相手に触れることにより、相手の力を感じることが重要であり、それなくしてトラッピングは成立しない」てなことを言っておりました。
 
 十分な準備を持って相手に近接することは、以前お話ししたケンカ術の重要項目のうち、「自分の持つパワーをロスなく相手に伝える」効率論の観点から見ても、「自分の攻撃の命中率を限りなく100%に近づける」確率論の観点から見ても、非常に理にかなっています。
 ただ当然ながら、自分の攻撃が難なく当たるほど近接するということは、相手の攻撃も当たるということですので、それをどうコントロールし、相手の攻撃をもらわず、自分の攻撃を確実に、効率的に当てていく確かな技術を持っていないと自信をもって「近寄れ!」と教えることはできません。
 サバキの有効性については既に多く触れてきたのでここで詳解することは避けますが、トラッピングも本当に相手を近接して抑える体系が見事にできており、これなら「近寄れ!」と教えても全然大丈夫な技術だと感心しております。
(ちなみに、ろくな技術を持たない自称「実戦空手」やヘッポコ護身術は、技術のなさを「間合いを取る」という便利な言葉?でごまかすことが常です)
 
 サバキとトラッピングはほかにも
・肘打ち・膝蹴りを「相手を仕留めるフィニッシュ」と位置付ける体系ができている
・投げ・崩し・立ち極めの独自技術がある
・押して崩す、引いて崩す、相手をクギ付け(トラッピングでは「ピン」と呼ばれるもの)にする独自技術がある
といった、技術形成の根幹をつかさどる重要箇所が共通しており、「打たせずに打つ」「安全に制する」ということを帰納的に思考し、真剣な研究を続ければ、どこでも大事なところが似てくるんだな…てなことを今回は思った次第です。
 

サバキ、ふしぎ発見!(軸と移動とサバキとワタシ?その2)

2018-06-04 10:01:15 | 芦原会館修行記
 とっても長く、分かりにくい文章となった第1回ですが ゴメンナサイm(__)m 
 とかなんとか謝罪しながら、第2回も激長の文章となってしまい…大変申し訳なく思っておりますが、それでも「読んでやろう」という奇特で優しい方は、お付き合いよろしくお願いいたします。

 前回の「その1」記載内容をものすごく短くまとめますと、以下の2点になります。

【要点①】
 スポーツ等のパフォーマンスにおいて必要な「横回転運動」とは、
・1回転、あるいはそれに近い回転数の中で「タメ→加速→出力」を行うものであること
・必ず移動を伴うものであること
の2条件を満たすものである。
【要点②】
 しかし、昭和の末期ごろまでは、その「横回転運動」の機序を、おおむね
①移動する→②目的とする移動場所に停止し、ガッツリ居つく→③居ついた場所で回転運動を行ってパワーを出力する
といった、一軸回転をもってしか説明ができていなかった

 今回は、芦原会館が【要点②】の旧弊を廃し、【要点①】で掲げた「理想の横回転運動に拠る打撃」を如何にソフト化したか、という点についてお話しします。

 まず何といっても大書特筆したい「芦原カラテの軸を制する試み」は、昨今、伝統派・フルコンを問わず、凡そカラテと名の付くところでは「最新鋭の技術!」として頻繁に取り上げられている、「外に軸を作る」と形容されるパフォーマンスを、どこよりも早くソフト化したことです。

 「外に軸を作って殴る、蹴る」という動作ですが、打撃系格闘技をしておられない方の中には「?」と首を傾げる方も多いと思います。
 これを定義づけることはなかなか難しいのですが…浅学非才を承知で、あくまでもワタクシ個人による「外に軸を作って殴る」の定義づけは、以下の通りとなります。
【定義1】「軸」の位置は、自分の現在所在位置ではなく、相手を殴るのに適した距離・間合いであること。
【定義2】【定義1】に挙げた「距離・間合いを取る」ことの根拠が、相手の動きにより、無目的に何気なく呼応する性質のよるものではなく、あくまでも自己の予測・判断に基づくものであること。
【定義3】身体の移動で得たパワー(前進慣性など)をロスすることなく、正確に「殴る力」に転換できる動きであること。

 芦原カラテをやっておられる、あるいはやっておられた方は「基本の4ステップ」を当然ご存知のことと思いますが…実は、この「基本の4ステップ」と、これとタイアップしたパンチこそ、「外に軸を作って殴る」の3定義を見事に満たし、かつ、それを万人に理解できる言語と手法で広めた、おそらく格闘技界では初の試みであったのではないか、と思います。

 芦原カラテにおける「軸と横回転」を考える際、ワタクシが特に重要と位置付けたいのは①②のステップです。
(ご存じない方のためにお話ししますと、相手の右ストレート系の攻撃に対し、自分から見て左側にインステップする動きが①、相手の左ストレート系の攻撃に対し、自分から見て右側にインステップする動きが②と呼ばれるステップになります(詳しくは「実戦!芦原カラテ」の書籍などを参考にしてください))。

 ①のステップを使ったパンチのサバキ、だいたい入門すれば白帯の初期段階に習うものですが、文字に起こすとこんな感じです。
①受けが右ストレート打つ→②取りが外受けから①のステップで相手のアウトサイドに入る→③アゴ等に右ストレートを返す
 「初心の型①」の2の挙動としても知られる、一見何でもなさそうな動きですが、実は「外に軸を作る」ということと、それに関連する驚きの秘密が隠されているのです。

 上記のステップ→パンチと、その動きに対する定義の合致性について考えます。
 ①のステップは相手の動きに応じ、的確な位置に占位、反撃の一打を繰り出すというものです。
 今では「何だそんなもん、当たり前じゃないか」と思うかも知れませんが、実はサバキが創設される以前の空手の技術書を見ると、「その場で留まって受ける」「その場で留まって殴る」というものばっかりでした。これは本稿の記載に当たり、4冊ほどの当時の技術書を確認しましたので、間違いありません。
 これはおそらく、殴るときの回転と軸を、一軸の理屈でしか理解してなかったことによる悲喜劇であるとは思いますが…それにしてもヒドイ(-_-;)。

 この「ステップ→パンチ」を一体化することで生まれるメリットを書き出すと、「外に軸を作った攻撃」の定義との合致性がバッチリと見られます。以下に、その合致性と理由を列挙します。
・相手を的確に叩ける位置にステップすることで、自分が打撃を出力する際における「軸」の意識を、自分の今いる地点ではなく、相手を的確に叩ける位置に飛ばすことができる(【定義1】)。
・その場に居座って迎撃するのではなく、自分から動いてタイミングを取るため、カウンターを取りやすくなる(【定義2】)。
 サバキが「相手の動き&自己の予測に基づくカウンター」であることは先代も著書で認めているところです。
 以下、「空手に燃え空手に生きる」(芦原英幸・講談社)からの引用。
「攻めの基本はカウンター。芦原カラテの攻めはすべて動きながらのカウンターをとる。」
「自分も動きながら、動く相手をカウンターで決めるには、タイミングが重要になる。」
「たとえばクレー射撃でも、的を撃つとき、動く的めがけて撃っても当たらない。なん分の一秒か先に的がくるだろう軌道上の仮定の一点を狙って撃つ。そうして初めて命中させることができる。」
・①のステップ、ポジショニングをすることにより、自分から見て相手を「真正面」あるいは「真横」でなく(←「真正面」「真横」からの突き蹴り、特に突きは、威力がだいぶ落ちます)、一番パンチの指向性が高まる、身体の略中央で捉えることができるようになるため、前進慣性の乗った、最も威力あるパンチを打つことができる(【定義3】)。
 
 …なかなか文章ではうまく表現できませんが、このように、芦原カラテのステップ&ポジショニングによる攻撃は、相手の攻撃の先を読み、「外に軸を作った攻撃」によるカウンター攻撃を取ることができるという機序を有しています。
 今一度言いますが、何も考えず、相手の出方に応じて何気なく移動して叩く、ということを「外に軸を作る」とはいいません。
 相手の攻撃を十分予測し、主体性を以てステップ(移動)し、そのステップした先でしっかりとした軸を作り、パワーロスの無い攻撃をすることこそが「外に軸を作る」です。
 そのことを、「ステップ&ポジショニング」という分かりやすいソフト、あるいは「まずはインファイトせよ!」という単純明快な言葉で、そのソフトを「解説」するあたり、先代のすごさを感じずにはいられません。

 …実はこの「軸とサバキ」、まだまだ続きます。あと2つほどまだ語りたい「発見」があるんです…楽しみにしている人はあんまりいないと思いますが、個人のやっているブログゆえ、読みたい方はよろしくお願いいたしますm(__)m


サバキ、ふしぎ発見!(軸と移動とサバキとワタシ?その1)

2018-06-01 20:18:39 | 芦原会館修行記
 今回の「サバキ、ふしぎ発見!」は、予告通り「軸」について考察したいと思います。内容をもっと具体にお話ししますと「スポーツパフォーマンスとしての回転運動と、その中心軸に関するウンチクを中心に語るサバキ」みたいなお話しなのですが…原稿を書き始めますと、その専門性・複雑性に5回くらいくじけそうになりました(-_-;)。
 記載内容にはいちおう、事実の誤認などがないよう細心の注意を払っておりますが「読みにくい」「クドい」「わけがわからん」という点については、広い心でご理解いただきますよう、伏してお願い申し上げます。

 凡そ、球技・格闘技など各種運動競技(以下、スポーツ等と呼称します)におけるパフォーマンスの形態を煎じ詰めれば、「移動」と「横回転運動」に集約されると言っても過言ではないでしょう。
 球技であれば手足を振る、あるいは道具を持った腕を振るといった各種のスイング、投球動作。格闘技なら突き蹴り。これらの動作は全て横回転運動が基となっている、ということは、今更説明の必要もないですね。もっと厳密に言えば短距離のダッシュなどの「移動」すらも、ある種の「横回転運動」と言えなくもないでしょう(;^ω^)。
 ただ、ひとくちに「回転運動」と申しましても、単に軸を中心にクルクル回る、機械の回転軸のような「回転」と、スポーツパフォーマンスで見られる「回転」はかなり異なります。
 スポーツパフォーマンスに必要な「回転」にあって、機械などの「回転」にない特色を挙げますと、以下の2点になりましょうか。

 ひとつは「少ない横回転運動に伴って生まれるパワーを、どこか一点に指向・収斂させなければいけない」ということ。
 機械のシャフト等に必要な回転運動に必要なことは、「等速の回転を同じ場所でいつまでも円滑に続けること」ですが、スポーツ等に必要な回転運動は、1回転あるいはそれに近い少ない回転中で「タメ→加速→出力」を円滑に行うもの。同じ「回転」という言語こそ使いますが、全く異質なものです。
 「タメ」を作り出す方法は数々ありますが、同じ場所で何回転もクルクル回って回転のパワー溜めるということは、スポーツ等の競技の特性上、全く得策ではありません。おそらく「何度も回転し、回転パワーでタメをつくる」スポーツパフォーマンスと言ったら…せいぜい円盤投げとハンマー投げくらいのものでしょう。野球なんかその場で3回回ったら、三振になっちゃいますよね(;'∀')。
 
 いまひとつは、「移動を伴って行わなければならない」ということ。
 ある時は相手の動きに、ある時はボールの動きに追従して的確に自分の身体を移動させ、的確な場所で回転運動をしなければ、回転運動自体にいくらパワーがありあまっていても、全く無意味です。
 その場に留まって単に横回転運動をしているように見える野球のバッティングですら、よくよく見てみるとタマに追従するため、あるいは打球の指向方向を定めるため、打者は上下や左右に微細な「移動」をしています。ましてやその他のスポーツの回転運動においてをや…

 再度の記載になりますが、スポーツ等のパフォーマンスにおいて必要な横回転運動とは、①1回転、あるいはそれに近い回転数の中で「タメ→加速→出力」を行うものであること②必ず移動を伴うものであること、ということをまずはご記憶頂きたいと思います。

 上記の条件を二つながら両立させるための回転運動を確立しようと仮定した場合、まず、「軸の移動」のファクターを満たさない回転運動、すなわち、ひとつの軸をガッチリ固定し、その1軸のみを以て回転のパワーを出力するという回転運動は、最初から考えの埒外に置かれるようになる…。
 ここまで読んできた諸賢は、すぐその点にお気づきになると思います。
 しかし面白いことに、スポーツ等の世界では、「動く軸と出力の収斂を二つながら両立する回転」という命題を、なぜか永年に亘り、上記「埒外の発想」、つまり「一つのガッチリ固定した軸の回転」の理屈のみを以て解説することが常態化していました。
 簡単に言えば、こういう機序です。
①移動する→②目的とする移動場所に停止し、ガッツリ居つく→③居ついた場所で回転運動を行ってパワーを出力する

 …確かに、「横回転運動」のイメージだけはしやすい。
 しかし、この①~③の機序を正確に履行しますと、①→②の間には「回転軸を安定させるため、移動の応力を全て止めないといけない」、②→③の間には「全くの静止状態、ゼロポジションから、改めて回転の応力を生み出さなければならない」という状況が否応なく現出します。当然、パフォーマンス全体にかかる時間は無駄に長くなりますし、パワーだって中途半端なものにしかなりえないでしょう。
 昔は、スポーツパフォーマンスに必要な回転と、ただの回転を混同したバカ指導者による誤った指導により、その選手生命を損壊したガキンチョや、スポーツに嫌気がさしてスポイルするようになったガキンチョが、実に多数存在しておりました。
 中には天才的な人物もおり、指導者からは「一軸の回転」を教えられても、それを全く無視して独自の回転運動を確立して成功した人もいますが、それは全て「個人の技能」のレベルで終わってしまい、集団知とか、組織だったソフトウェアにはなりえていませんでした。

 平成もそろそろフタケタになろうか、というころになってようやく「スポーツ等における回転運動は、必ず移動を伴うもの」「少ない回転動作で、より大きなパワーを生み出すようにするもの」ということに、少数の目敏い指導者が気づくようになりました。
 で、実はその「目ざとい指導者」の中に先代館長と、その研究の精華であるサバキも当然含まれているという…(;^ω^)。
 ちょっとイントロダクションが長くなりすぎましたので、その「精華」の部分は、次回に回したいと思います。

「サバキ・ふしぎ発見!」の予告のようなもの(;^ω^)

2018-05-15 19:05:23 | 芦原会館修行記
 現在、「サバキ・ふしぎ発見!」の下書きをしている最中ですが…今回のお題は「外側に軸をつくる」「体の軸を二軸にする」という、昨今、格闘技をはじめ、スポーツ界では広く認知されつつある、あの現象です(;^ω^)。

 「二軸」「外に軸を作る」を認知したのは1年ばかり前。ボクシングの技術書と、某空手の大先生のDVDが発端でした。
 その理論をふまえつつ、自己のグラップリングや他流派打撃経験などの経験を組み合わせてサバキを何度も見直したところ…ワタクシが芦原の現役時代に、なぜ「投げ」、特に巻き込み投げがヘタクソであったのか、サバキのときに投げを打とうとした相手と、単なるつかみ合いになって袖がビリビリとなったのか(-_-;)、「あの瞬間」にだけ、巻き込み投げがキレイに極まったのか…という原因が、突如電撃のように氷解しました。
 そのキーワードこそが「外に軸を作る」「二軸」と呼ばれる、昨今ようやく言語化されたムーブメントだったのです。

 ただでさえ低能なアタマをひねり、この「サバキと二軸」を、なんとかわかりやすい文章にすべく苦悩しておりますが…もともとがバカ頭なので、かなり苦慮しております。

 全く期待せず、今しばらくお待ちいただければ幸甚に存じますm(__)m