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集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

サバキ、ふしぎ発見!(「形」が「形」骸化する理由を探る旅 その2)

2019-11-28 13:15:12 | 芦原会館修行記
 本論とはまったく関係ないことですが、この投稿をもって、投稿数が300本目となりました。自分でもビックリ!ですが、何事もなかったかのように「サバキ、ふしぎ発見!」をやりますよ(;^_^A。

 そもそも論ですが、まず「形って何だ?」という点について考えます。
 非常に数少ない、空手形考察本の白眉「隠されていた空手」(桧垣源之助著・CHAMP)では、形の第一の目的は「攻防技術の記憶」としております。
 理由として、柔道、剣道、その祖先たる各種古流柔術や各種古流剣術など、空手以外の日本伝武道のほとんどが「形」を持ち、修練の骨子として据えていることを挙げていますが、ワタクシもこの意見については、全面的に賛同いたします。
 
 ただ、内地の武道と、沖縄の「手(ティー)」における形の存在意義は、そこから少し趣を異にします。
 以下、その「異」な点を列挙します。

【その1 形に込められた「目的」は1つ?2つ?】
 明治41年に起草された空手の聖典「唐手心得十ケ條」(いわゆる糸洲十訓。以後糸洲十訓と呼称)の7番目にはこうあります。
「唐手表芸は是れは体を養ふに適当するか又用を養ふに適当するかを予て確定して練習すべき事」
(超意訳…「空手の形は、空手に特化した身体をつくるのためなのか、実戦の役に立てるのかを確定して練習しなきゃ意味ないYO!」)
 つまり空手の形は、第一意義である「攻防技術の記憶」もさることながら「体を養ふ」、つまり空手に特化した身体をつくり、空手に特化した身体操作の習得という第二の意義があるわけです。
 これは、二人一組の組形がほとんどであり、従って「攻防技術の記憶」としての意義しか持たない内地の形とはずいぶん趣を異にします。

 「空手の形には身体操作向上・身体鍛錬の意味がある」ことの原因ですが、これは空手の動作のほとんどが「解剖学的には極めて不自然、力学的には非常に高尚」という特色を持つことに起因しているからだと思いますが、その点は本稿で語るべき内容でないため、詳細は略します。

【その2 伝書の有無と口伝】
 内地武道の形と空手の形との間における相違点その2は「伝書の有無と口伝の重要性」にあります。

 形の内容を理解し、上達を促すためには口伝が必要です。
 口伝は技を不心得者や敵対する人間に盗まれないための鍵の役割を果たしており、武技の秘匿性を保つため必要不可欠なものでした。
 内地武道においても当然、たくさんの口伝が存在しますが、それと並行してたくさんの伝書が存在しています。
 口伝だけでは伝言ゲームのようになっていき、最終的に誤伝・失伝してしまう危険性があります。それを防ぐためにはやはり、文書や絵で技術を残す必要性があったのでしょう。
 
 ところが空手の形には、口伝以外の解説が永く存在しませんでした。
 いちおう那覇の手(のちに剛柔流に発展したといわれるもの)には「武備誌」なる伝書があると言いますが、これは那覇の手のモトになった白鶴拳の伝書ではあっても、純然たる那覇の手の伝書ではなく、従って「武備誌」を那覇の手の伝書というのは、かなり無理があります。

 ではなぜ、空手には口伝以外の教授法がなかったのか。
 原因は簡単で、「作る意味がなかった」からです。
 理由その1は、薩摩の禁武政策によって、大々的に道場を構えて組織的に教えることが表立って禁止されていたから。
 そんな時代に空手の伝書なんか残せば「私は禁武政策を冒しています」ということを公言するようなものですからね(;^_^A。
 理由その2は、空手の技の複雑性ゆえ。
 内地武道は、日本剣道型などを見て頂ければわかるように「相手の一技に対し、カウンターも一太刀」あるいは「一投げ」みたいな感じであり、従って文字に起こしやすい。しかし空手は、相手の一技に対する返しが一技ではなく、いくつかの動作が一つにまとまった挙動となっているため、伝書に記載するには労が大きすぎ、これが伝書作成をためらわせたとも考えられます。
 そして理由その3。コイツが一番重要です。
 当時の空手の教授形態に対し、「伝書」の存在自体がそもそもそぐわないものだったから。
 理由その3については、ちょっと詳細な説明が必要でしょう。

 空手は明治時代の終わりころまで、師匠と弟子がほぼマンツーマンの状態で、師匠から形の意味を教えてもらうという教授体系がずっと続いていました。
 なぜこの体系が永く続いたかといいますと、当時の空手が目指した究極の目的「達人を作る」を達成するためには、それが最も効率の良い教授法だったからです。
 先述の糸洲十訓の6番目を見てみましょう。
「唐手表芸は数多く練習し一々手数の旨聞き届け是は如何なる場合に用ふべきかを確定して練習すべし且入り受けはずし取手の法有之是口伝多し」
 「手数」とは形における各挙動、「取手(トウィティー)」とは空手独特の投げ・崩し手法を指します。つまり、「形の各挙動には用法がある。また、その変化は口伝が多いよ」という意味と理解すればよいでしょう。
 つまり空手の蘊奥を窮めるには、形の反復と、師匠の口伝が必要であり、それを融合させた稽古をするには、「師匠とマンツーマン」、あるいはそれに近い稽古体制が最良であったわけで、その体制が保たれている間は、伝書なんてものは作る必要性が全くなかったのです。

 空手が沖縄ローカルの武道であり、世の中が比較的のどかであった時代はこうした教授方法により、形が持つ意味を師匠からしっかり学べたわけですが、時代の流れがそうした教授法を否定するようになり、形の持つ意味や形の重要性もどんどん変質していきます。
 次回はそのあたりについてお話しします。

サバキ、ふしぎ発見!(「形」が「形」骸化する理由を探る旅 その1)

2019-11-27 10:52:13 | 芦原会館修行記
 まずは、先月からずいぶん長いこと投稿していなかったことをお詫び申し上げますm(__)m。大変申し訳ございませんでした!
 それもこれも全ては、今回の「ふしぎ発見!」を少しずつ書き溜めていたからです…(←言い訳)。

 今回の「サバキ、ふしぎ発見!」は空手の形についてお話しします。
 今回はいつもとは違い、「サバキ、ふしぎ発見!」と銘打ってはいますが、芦原会館オリジナル形だけではなく、伝統形も含めた「空手の形」というものに関する所見が大量に入っております(とくに前半回)。相変わらずナメたタイトルをつけていることも併せ、この点に関し、まずはご理解ご寛恕お願いいたしますm(__)m。では本編スタート!

 凡そ「空手」と名の付くものを修業する人は、そのスタイルを問わず「形を練習しないと空手は絶対にうまくならない」と1回以上は言われます。
 では逆に、そういわれた人の中で「形の挙動の中にはこういう意図が隠されていて、従ってこのように動き、その過程でこんなことが習得できるようになる」というエビデンスのある説明と稽古をつけてもらった人って、全国のカラテマンのうち何人いるのか…おそらくその回答結果は、きわめてネガティブなものにならざるを得ないだろう、というのが隠し立てのない現状です。
 凡そ全国のカラテマンのうち、「形の挙動の意味や変化を理解したうえで反復している人」と、「形の意味は全くわからんが、とりあえず教えられた動作をやっている」人を10分割で対比しますれば…おそらく1:9、あるいは0.5:9.5とか、そんな結果になるんじゃないでしょうか(-_-;)。
 これは全空連などがやっている、いわゆる「伝統形」だけの問題ではなく、オリジナルの形を持つ芦原会館でも、ほぼ同じ比率になるんじゃないかと想像します。

 先代は、芦原会館オリジナル形を作成したきっかけについて、自著「空手に燃え、空手に生きる」(講談社)にこんなエピソードを載せています。

「松山の道場生にこうたずねたことがある。
『旧型(=ここでいう「旧型」とは、いわゆる伝統形のことを指す)を覚えたいか?』
 そのとき50人くらいいた道場生の中で、『押忍』と手を挙げたものは5、6人もいただろうか。
『なぜ覚えたくないんだ』
 返ってきた答えは
『つまらないから』
『昇段審査のためだけにやるようで、割り切れない』
等々。結局、実戦に応用できないから覚えても無駄だというのが理由である。」

 …この事態を受け、先代は熟慮の末にオリジナル形を完成させ、伝統形を稽古体系から排除しました。
 詳細は後述しますが。芦原オリジナル形は、それを意識して反復演練するだけで、サバキのエッセンスがかなりの確度で習得できる、本当にシステマチックなすごい形です。
 ですが、先代が全精力を傾けたその形が現在どういう扱いを受けているかということを見てみると…まさに先代が著書で嘆いていた「昇段審査のためだけにやるよう」な状態であり、その扱いは伝統形と五十歩百歩といったところです。

 なぜ大勢のカラテマンは形を継続的に稽古しないのか?あるいはできないのか?
 このクエスチョンについて周防平民珍山といういち個人が、自身の稽古の過程及び資料・文献を漁ったうえでの個人的見解を述べます。
 読む方によっては「そんなことはない!」「オマエは間違っている!」といきり立つ人もいると思いますが、まあ、批判はあとでもできますんで、とりあえず愚見を聴いていただければと思います。

 で、その本論のほうですが…作成したところ、かなり長くなりましたので(-_-;)、「その1」はイントロダクションのみで終わりたいと思います。あしからずご了承くださいm(__)m
(原稿自体はすでに完成しておりますので、ある程度連続投稿します。お待たせは致しません。)

【ご注意】
・本シリーズ中における「カタ」の漢字につきましては、「型」という漢字が固有名称として使われているものはそのまま「型」、ワタクシの意見としてしゃべる際の「カタ」は「形」と記載いたしますのでご了承ください。
・空手は各時代において手とか唐手とか、様々な名称を持っていましたが、本稿では混乱を避ける観点から、時代を問わずすべて「空手」と呼称します。
・本シリーズ作成において参考とした文献は、最終回末尾においてまとめて紹介いたします。


サバキ・ふしぎ発見!(それはサバキの進化?退化? サバキ護身術編)

2019-09-16 18:02:45 | 芦原会館修行記
 ちょいと前に、「サバキ」を表芸として頂くカラテ流派のうち、「レベルの低いサバキ試合」をする流派の問題点についてお話しましたが、今回はサバキを「レベルの低い護身術」に魔改造してしまった流派についてお話し致します。

 芦原会館で正規にサバキを習う場合、その多くは「相手の攻撃を受けて発動する」という、約束組手形式の練習をやり込むことが求められます。
 サバキという技術は「自分は安全な状態を保ち、様々なカウンターやブラフ、時にはアタックを入れつつ相手を安全に制する」というコンセプトがありますから、そうした技術を習得するのに最も親和性が高い練習法が約束組手であることについては論を俟ちません。

 しかしそれをただ漫然と繰り返していると、「相手の攻撃を受け、カウンターを入れることだけがサバキの全て」という思考停止に陥る修行者を続出させてしまう、という実に困った側面も持っており、この点については「試合編」でお話しした通りです。
 上記のような「約束組手で習ったサバキや、『実戦!芦原カラテ』の本やビデオにある内容の上っ面だけを覚えて、それを聖書やコーランのように奉じ、それ以外は『全て間違っている、先代の遺志に反している』と判断する人々」を、ワタクシは勝手に「サバキ原理主義者」と呼んでいますが、先代の死から年月が経ち、その著書の補填をしてくれる高弟が次々といなくなっている現在、原理主義者は芦原会館の内外を問わずズルズルと増え続けているように思います。

 「原理主義者」の行う試合が非常にアレであることについては「試合編」でお話しした通りですが、では、サバキと比較的親和性がある「護身のサバキ」を標榜する流派のほうはいかがなものか?と目を転じてみますと、これまた笑ってしまうくらいの悪しき「サバキ原理主義」です。いや、試合という不確定要素がなく、シロウトにいい加減なことを教えてもバレないことを教える側が認識しているぶん、、こっちのほうが悪質かもしれません。
 「サバキ原理主義者」による護身のサバキのうち、一番多いパターンは「芦原会館の型や約束組手パターンを、強引に護身にあてはめている」というもの。これに「Aバトンらしきもの」がくっつけばカンペキ!です(;^_^A。
(Aバトンとは、先代が死の直前まで情熱を燃やして作っていた、トンファータイプの伸縮式警棒。現在は芦原会館の子会社・ディフェンスが販売しているが、芦原から離脱したいくつかの流派でも似たようなものを販売している。芦原会館は文句を言わないのかなあ…)

 「サバキ護身術」だの「護身サバキ」だのと銘打っている流派の技術を動画で(今はこういう便利なものがあって、とても助かります)確認しますと、驚くべきことに、犯人役の攻撃が完全に合気道のそれと同じ「徒手でただ突く」「徒手で掴む」という体のものばかりであり、凶器による攻撃は全く想定されておらず、しかもそのカウンターとなる「サバキ」は、あきれたことに芦原会館の型の丸写し(または劣化コピー)なのです。
 たとえば、とある流派の動画にアップされていた「護身のサバキ」ですが…
 いきなり何もしていない暴漢に左ハイ!(さすがに面白すぎて出典不明( ´艸`))
 暴漢の右ローキックにスネ受けから右肘打ち!(おそらく初心の型1における9の挙動)
 暴漢の背後からの首絞めを時計回りに回転して回避し、なぜか右のミドルキック!(これはこじつけ臭いが、たぶん実戦の型1における3の挙動)
 暴漢の左ハイキックに対する軸足ストッピング!(たぶん組手の型5における6の挙動)

 …いやいやいやいやいやいや(;^_^A(;^_^A(;^_^A、どこの世界に、相手を襲撃する手段としてハイキックやローキックをやる暴漢がいるんですか(;^_^A。いるとしたらよほどのバカか達人のどっちかで、遭遇率はおそらく、宝くじで7億円当てるより少ないですよ!
 しかも首絞めに対するカウンター攻撃がミドルキックって何なんですか…首絞めはどう考えてもそれはショートの間合いでしょう…そこでミドル…この「護身サバキ」を立ち上げた人は、芦原会館で練習したこと、あるのかなあ…_| ̄|○_| ̄|○_| ̄|○。

 こういった「サバキ」の名を悪用した護身術は世の中にけっこうございますが、これらが腹立たしいのは、「護身」という言語をもてあそんでいることと、それに付随して「サバキ」の名を冒涜していることです。
 
 ちょいと前に「護身術と公務術」の稿で申し述べました通り、いやしくも護身という名を名乗る以上、「現在行われている犯罪や襲撃に関する方法・使用される凶器」の研究と、それに対して自流がどのようなカウンターができるかという研究は常にアップデートすべき当然のことです。
 これら「サバキ原理主義者」の「サバキ護身術」が腹立たしいのは、自らが最も先代の教えを奉じているという、宗教の信心に似た思い込みの下、「サバキ」と「バトン」をもてあそぶことで「この世のすべての暴力行為が制圧できる」と考えているお花畑のような思考。
 それを罪のない素人さんに教えて恥じないとなれば、これはもう公害といっていいレベルです。

 ワタクシは道場の外で「サバキ」を名乗る者はすべからく、その内容を一定以上理解し、どのような形態に変化させても、高いレベルで使用に堪えるものと示せなければならぬ、と心得ています。
 不肖の末席初段であったワタクシでさえも、芦原OBとして「サバキ」を語る以上、允許された段位である初段以上の技術を死ぬまで維持・向上させていることを以て、ようやく弊ブログで「サバキ」を語っていいものであると、常に自戒しております。 
 だからこそ、無理解・無責任極まりない原理主義者による、技術本や技術ビデオ・DVDの上っ面だけをなぞった「サバキ」の安売りは本当に腹が立ちますし、また、護身というものを根底からナメているとしかいいようがありません。
 こういった手合いは、表向きには「実戦的なサバキによる護身術」を標榜するいっぽうで、そのワザが護身に役立たなかった場合「武道の技は修業が必要で、護身できなかったのはキミの腕が悪かったから」などと言い訳をする可能性が非常に大きいので、本当に気を付けてください。

 近年はネット環境の向上に伴い、海外発の非常に実戦的な護身術がどんどん入ってきており(これもまた、玉石混交じゃーあるんですが(;^_^A))、道場こそ都会にしかないものの、そのシンプルかつ真に実戦的な技術、システマチックな教授方法、動画やオンラインレッスンによる「道場に依らない教授」などを展開して、人気を博しています。
 しかし、この時に至って、日本伝武道に端を発する「護身」は未だに「道場に依拠、状況をよほど固めないと実現できない絵空事のワザ」に寄り掛かるほかない、あるいは「開祖は伝説的に強かった」というレジェンドにすがるほかないという、実に情けない状況に陥っています。
 それはすべて、「護身」というものをナメ、その言葉をもてあそぶことで自らの稽古不足・勉強不足・覚悟不足を隠し、ガラパゴス化した末路(そもそも、ガラパゴス化しないと組織が守れないのであれば、最初から「護身」というカンバンを掲げないことですな(-_-;))としか言いようがなく、寸毫も同情の余地はないのですが、そこに「サバキ」が仲間入りしそうなのは、修行者として、本当に心が痛みます。

 本当に、なんとかならないもんですかねえ…。

サバキ、ふしぎ発見!(それはサバキの進化?退化? 試合編その2)

2019-07-13 22:53:38 | 芦原会館修行記
 先代は、試合などで有効となる、自らの突き蹴りを的確に当て、そこから相手を崩していくサバキを「攻めのサバキ」と呼称しました。
 「攻めのサバキ」の原理原則は、みなさんがよく知っている「受けのサバキ」と全く同じです。
 では、「受けのサバキ」と「攻めのサバキ」を、1つのコンビネーションを3つのフェーズに区切って比較してみましょうか。
 フェーズ①
【受けのサバキでは】相手の攻撃に対して受け崩しを行いつつ、インファイト
【攻めのサバキでは】強力なリードブローでインファイトし、2の矢となる突き(または蹴り)で相手を崩す。
フェーズ②
【受けのサバキでは】インファイト→ポジショニング、打撃、崩し
【攻めのサバキでは】崩した相手のサイド(または3の矢が入りやすい位置)にシフト、シフトの際にはウェイトシフトも聞かせ、3の矢。
フェーズ③
【受けのサバキでは】相手を安全に崩し得る方向にポジショニングしつつ、投げ崩し、制圧
【攻めのサバキでは】3の矢からサイドを取ってのフィニッシュブロー(フルコンで最もKO率が高いのは、オーソドックス対オーソドックスの場合は左ハイなので、それにつなげる)につなげる。
 ねっ、原則的には同じでしょう(ちょっと強引な解釈ですが(;^ω^))。
 また、フェーズ①②でケリがつく場合、それで完結してしまってもいいというのも、「攻め」「受け」ともに共通する事項です。
 このように、一見ただ殴り合っているだけのようにしか見えない「攻めのサバキ」は、みんなが知っている「受けのサバキ」と原理原則は同じ。逆に言えば、「攻めのサバキ」の骨子たる突き蹴りでの自由攻防ができない者が、投げや崩しを無制限に取り入れたルール内で戦ったところで、ただのもみ合い、つかみ合いになるだけで、決してサバキの深奥に到達できる競技とはなりえない、とも言えます。

 先代は著書「空手に燃え、空手に生きる」において、門下生から「相手が攻めてきてからのサバキはわかりましたが、相手が攻めてこない場合はどうすればいいんですか?」と聞かれ、「サバキは全て攻めなんだ」と教えたものの、門下生は「?」という顔をしていた、というエピソードを紹介していました。
 実はこの門下生が発した質問は芦原会館のみならず、サバキ系のカラテをしている相当数の人間が「攻めのサバキ」を知らない、理解していない、知ろうとしていないということを見事に表しています。これは芦原現役時代の自分が全くそのとおりだったので、実感を以てそう言い切れます。
 ワタクシの場合は「サバキはすごいものなんだから、稽古を続けてさえいれば、そのうち『攻め』のほうもわかるようになる」という安易な考えをしていたので、種類としては「知ろうとしない」ヤツに分類されたと思います。
 その後ワタクシは別流派に移り、フルコン&グローブルールのガチスパーで、物理的にも精神的にもボッコボコに打ち砕かれ、ようやく「受けのサバキしかできてなかった」ということを認識し、そして「攻めのサバキ」ができないヤツのサバキは完全なカタワだったんだ、ということを、深く深く反省しました。
 
 いやしくもカラテを標榜するのであれば、まずはふつうに打ち合える実力とタクティクスを磨くべし。その中で真に生まれる技を競い合うべし。変な型にはめる小難しいルールはなるべく排除すべし…という当たり前のことを、試合運営側にはぜひ認識してほしいと考えております。
 次回の「ふしぎ発見!」は試合編に引き続き「護身に特化したサバキをしている集団」の問題点を「護身編」として洗い出していきたいと思います。

サバキ、ふしぎ発見!(それはサバキの進化?退化? 試合編その1)

2019-07-12 20:35:47 | 芦原会館修行記
 「サバキ」を辞書風に定義づけるとするならば「芦原英幸先代館長が作った、芦原会館オリジナルの空手のテクニック」でしょうが、サバキはそういった陳腐な定義を超えて余りある魅力があり、好事家には特別な思いをもって受け止められているもの。そのことは、先代没後20数年を経た現在もなお、芦原会館以外の「サバキ」を名乗る道場・団体が多数存在するという事実が、何よりの証左でしょう。
 しかし、そうした「サバキ」を標榜する道場・団体の現状は「玉石混合」としか言えない、ということも、悲しいことですが事実です。
 その「石」を大きくふたつに分けますと、「サバキらしき試合をやっている集団」と、「護身に特化したサバキをやっている集団」となりますが、今回はは、前者が行っている試合と、その問題点を分析していきたいと思います。
(なお前者につき、「サバキチャレンジ」を永年開催されている円心会館は除きます(;^ω^))。

 YOUTUBEなどでは、芦原会館・円心会館などから独立した団体(まれに、総本部の言うことを聞かない支部も混じる(-_-;))が主催している「サバキルール」的な試合をいくつか確認することができます。
 しかしこれがまあ、どれもこれも、正視に堪えないほどひどいレベルです。
 突き蹴りもろくに出さず、開始の合図とともにオッサン同士がゴチャゴチャ揉み合いをやり、そこからようやっとローキックやショートパンチをチョコチョコ出し合う…審判が分ける…同じことをまたやる…1試合見ただけで「もういい!」となるレベル。それでもガマンして何試合か見ましたが、サバキとしても、空手としても、褒めるべき点を一切見つけることはできませんでした。

 こうした情けない試合を生み出す原因は、以下の3つに集約されます。
①主催者がサバキというものを誤解していること
②①から派生した誤解により、「サバキを用いる試合」というものの原理原則が曲解されていること
③まともな審判がいないこと
 ③はすぐにわかる欠点ですが、①②についてはちょっと説明が必要です。その「誤解」「曲解」とは?順を追って説明いたします。

 まずは①「サバキに対する誤解」。
 この誤解とは、一言でいえば「サバキとは掴まないと始まらないものだ、掴んで崩すもんだ、掴んで投げるもんだ」という思い込みを指します。
 「サバキ」という技術自体はすばらしいものですが、サバキのオリジナル団体である芦原会館をはじめ、サバキを標榜する各種団体の母体となる武道はあくまでも空手。磨くべきメインウェポンは突きであり、蹴りであることは論を俟ちません。
 先代はその点をよくわかっており、各種の著書で「サバキは当然空手だが、相手の身体の安全を考え、あるいは正当防衛を考えて、より安全と思われる方法で制圧しているだけ」と、投げや崩しはあくまでも稽古や護身のなかで、相手の安全などを慮って行う性質のものだと説明しております。
 ところが、サバキの表面しか見えない幾人かは、冒頭に掲げた「サバキとは掴んで投げるもんだ、掴んで崩すもんだ」という悪いマスト思考に陥っており、その考え方が、サバキの大原則である「まずはインファイトせよ!」の教訓を誤った方向に導き、結果、②を呼び込みます。

 続きまして②の説明です。
 サバキを試合形式で競うに際し、最も重要視すべき項目は、先ほどもお話しましたとおり、空手のメインウェポンである突き蹴りの有効性(ちゃんと当たる、ちゃんと効く)であるべきです。これは伝統派であろうと、防具ルールであろうと、グローブルールであろうと、フルコンであろうと、「空手」を標榜するものは、須くそうあらねばなりません。
 従って、空手の試合にあって投げ・掴み・崩しの類は、突き蹴りより優先度を下げるべきものであり、メインたる突き蹴りを押しのけてまでルールに溶かし込んでいいものではありませんし、また、「先ずは掴み・投げありき」のルールで選手を縛っていいものでもありません。

 ちょっと長くなりましたので、②をちょいと中断し、次回は「攻めのサバキ」と「受けのサバキ」は同根異種であり、そのことを理解せずしてサバキ試合なんて成り立たない、というお話をします。