釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

37. 『きはまりて ものさびしき時すぎて・・・』

2011-08-31 10:35:43 | 釋超空の短歌
『 きはまりて ものさびしき時すぎて、
     麦うらしひとつ 鳴き出でにけり 』
***
この夏もだいぶ涼しい日が続くようになった。
季節は確実に移ろうとしている。 既に秋も近い。

この頃になると当地では『つくつくほうし』が鳴き始める。

つくつくほうし、と文字どおり鳴くのだから面白い。
数度、「つくつくほうし」と鳴き続けていると、今度は、ちょっと鳴きかたを省略し、つくほー、つくほーと鳴き、最後は、じぃーと一声して鳴きやむ。

どこで鳴いているのだろうかと窓から近くの木々を覗いてみるのだが分からない。

この晩夏の午後、この蝉が鳴きだし聞くともなく聞いていると、『ものさびしき時すぎて』という、かすかな感慨がわいてこないでもない。

その感慨は、移ろう日々よ、といった、この秋津の国の人々の、おそらく独特の感慨である。

その感慨は単なる侘びしさとは違う。

流れゆく川の流れを見ているときのような透明な諦観とでも言おうか。

ところで「麦うらし」は、どのように鳴くのだろうか。

36. 『道に向く逢阪寺の・・・』

2011-08-30 07:39:42 | 釋超空の短歌
『 道に向く逢阪寺の
  墓石の
  夕つく色を、
    見てとほるなり 』
***
通勤とか通学とか、あるいは主婦なら夕餉の支度とか、誰でも、いつも通る路があるものだ。
つまり日常生活の路である。

そこには馴染みの食堂とか八百屋とか魚屋とか雑貨屋とかが昔はあったものだが、今やそれらはスーパーマーケット等にとって変わられ、それらの小さな店は懐かしき『昭和の風景』になってしまった。

しかし、今でもお寺は健在のようだ。

このいつも通る路端に大きなお寺があって、この寺の門近くには、これまた大きな墓石が路に向いて立っている。
このあたりの森(しん)とした雰囲気は昔から、ちっとも変わっていない。

通勤とか通学とか、あるいは主婦なら夕餉の支度とか、この路をいつも通っている人たちは・・・この墓石はもう意識の外にあって今や誰も見向きもしない。

こういう日々の流れにあって、ある夕暮れ、その墓石をふと見た人がいた。

その墓石の表面に何とも言えぬ『夕つく色』の色彩に気付いたのだ。

紺碧とでも言おうか、いや緋色とでも言おうか、なんとも不思議な光の反射に一瞬気付いた。
今生では見られぬ色彩をその墓石に見たと、その人は思った。

その夕べから、その人は、その路を通り過ぎるたびに、その墓石を見やるのだが・・・しかし、あのときの『彼岸の色』は今だに見ることができない。

35. 『しづかなる山に向かいて 思へども・・・』

2011-08-29 07:51:47 | 釋超空の短歌
『 しづかなる山に向かいて 思へども、
    おもひ見がたきものこそは あれ 』
***
「おもひ見がたきものこそは あれ」とは、どういう意味だろう。

昔々、私が高校生のときには国語の科目には、「古文」「漢文」「現代文」の三種類があって、それぞれ教科書も異なり、授業時間も異なり、ただ教師は同じだった記憶がある。

ちなみに、その教師のアダ名だけは今でも覚えているが本名は不遜にも忘れてしまった。アダ名は「消し炭」と言った。眉毛が異常にも濃く、まさに「消し炭」を眼の上に付けたようだったからだ。そのマンガチックな顔は・・・なんとなく今も思い浮かべられる。

同窓会なるものに私は一切出席したことはないから、その「消し炭」先生が、現在、ご存命かどうかは知らない。

話をもどそう。
私は「古文」は大苦手だった。だから必然の結果として成績は断トツの下位、だから更に苦手になる。悪循環というやつだ。

それでも「係り結びの法則」というものを今ぼんやりと思い出した。
ためしにネット検索してみた。驚いたことに(いや当世は当然なことか)、その法則の解説が出てきた。→http://yslibrary.cool.ne.jp/haroajapa010037.htm

ここで今問題となるのは、「こそ」だ。「こそ」→「已然形」とある。
「已然形」とはなんのことだ。余計分からなくなった。
今度は「已然形」をネットで調べた。→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%B2%E7%84%B6%E5%BD%A2

なんだかややこしい。じっくり理解する気にもなれず、もう、いいかげんに解釈しちまえ。

「おもひ見がたきものこそは あれ」とは、「おもひみがたきものがあるんだぞ!!」としたらどうだろう? もし間違ってたら・・・そこが非文系出身の気楽さ、テキトーに直してくだされや!!
***
ここ数年、私はどうも精神が安定していなくて困る。
滝にでも打たれて精神を叩きなおしたい。
禅寺にでも行って、このふやけた精神に活を入れてもらいたいが、その度胸もない。

窓から山が見える。泰然自若とした青い山々だ。
あ~いうふうになりたいものだ。
山でなくてもよい。今ここで寝そべっている猫でもよい。
いや出来たら生きものでないほうがよい。
風か雲になれたら、なんとよいことか・・・
(これは、もう誰かが言った使い古しのセリフか)

ともかく、俺の、この鬱々たる雑念から早く解放されたい!!

34. 『燈ともさぬ村を行きたり・・・』

2011-08-28 09:07:30 | 釋超空の短歌
『 燈ともさぬ村を行きたり。 山かげの道のあかりは、月あるらしも 』
***
いつの頃からだろうか、人は「夜の闇」を失った。
煌々と輝く電燈のあかりは、人から「夜の闇」を奪い去った。

これは何を意味するのだろうか。
とても重大なことを意味しているような気が私はする。

形而上な意味でも形而下の意味でも。

そもそも闇を失った光は存在する意味があるのか?
(悪魔の存在しない世界に神は存在し得るのか、とも言い換えられるか)

いずれにせよ、影とか陰とか蔭とか翳とかは、この「電燈」という近代文明によって死に絶えようとしている。

(否、もしかしたら2011/3/11はターニングポイントになる可能性は零ではないと期待したが、どうも限りなく零に近いようだ)
****
多くの現代人にとって、いや全ての人と言ってよいかも知れない。

『山かげの道のあかり』の『月あるらし』のニュアンスは理解不能だろう。

そのニュアンスは現代人にとって無用であるかも知れないが、しかし、「闇」を知らない人間ほど危険なものはない。

パスカルも言ってるのでないか。
『人間は天使でもなければ禽獣でもない。天使になろうとするものが禽獣になるのは不幸なことである』
(ここで、天使、禽獣とはそれぞれ「光」「闇」のメタファーとして私は勝手に使っている)

33. 『牽(ひ)かれきて 子らと遊べる馬の子は・・・』

2011-08-27 07:17:04 | 釋超空の短歌
『牽(ひ)かれきて 子らと遊べる馬の子は、
       おのれ みじかき尾を ふりにけり 』
***
釋超空うたをみていると、馬がよくでてくる。
この掲題のうたは下記のうたが先ず連想してくる。

『 笹の葉を喰(は)みつ々 口に泡はけり。
   愛(かな)しき馬や。 馬になれる子や 』

このうた『笹の葉・・・』については既に書いた。

この二つのうたの光景は幸せで愛らしく温かい。
作者の微笑も感ぜられ、とても、のどかだ。

生の時間の流れがこのまま凝縮し永久に固定できれば、どんなに、この世は住みやすい幸福な世界だろう !!

しかし、作者は、というより我々は、『供養塔』をも凝視しなければならない。
生とは、なんと残酷であろうか。
時の流れとは、なんと残酷だろう。

『供養塔』の以下の二つのうたの馬は、かっては、無邪気に『みじかき尾をふり』また『口に泡は』いていた子馬であったことを思うと、私は『時のながれ』ほど不条理なものはないと思う。 繰り返すが、この世の生は、なんと残酷だろう。

『 人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。旅寝かさなるほどの かそけさ 』
                                   
『 道に死ぬる馬は、仏となりにけり。行くとどまらむ旅ならなくに 』