釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

10. 『いきどほる心すべなし・・・』

2011-08-06 08:38:22 | 釋超空の短歌
『いきどほる心すべなし。手にすゑて、蟹(かに)のはさみを もぎはなちたり』
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私はこのうたを読むと、いつも、ある映画に登場する少年の心を連想する。

その映画は『泥の河』(1982年、小栗康平監督)だ

この映画で喜一(きっちゃん)という少年が登場する。彼の母親は、貧しい宿舟で娼婦として生計をたて、きっちゃんと彼の姉を育てていた。この映画の時代背景は、日本が未だ敗戦の傷を色濃くひきずっている時代であり、この映画に登場する人々もまた戦争の深い傷跡を彼らの心の奥にひきずっていた。そういう時代だ。

たぶん10歳前後この姉弟は、母の実相を実は知っていた。その母の心の痛みは勿論この幼い姉弟の心の深奥での痛みでもあった。

映画では、この子供たちのそのような痛みを露わには表現せず、寡黙にさりげなく表現する。たとえば、この姉は「(おひつの)お米の中に手を入れるのが好き」だと言う。「暖かいから」だと言う。この一言で、この幼い子の心奥にある、ある痛みを観客である私たちは痛烈に感じるのだ。

大阪・天神祭の日。きっちゃんは、彼の友人を、ある遊びに誘う。
その遊びとは、小さな生き物である蟹に油をたらして火をつけ、逃げ回るその蟹が焼け死んでいくのを見るという遊びだった。

言うまでもなく、きっちゃんのこの遊びの行為は彼の心の深奥に潜んでいる彼の痛みの屈折した表現に違いない。

この少年の心の中の屈折した痛みは、このような残酷な遊びとしてしか「いきどおる心すべなし」だったのだろう。

きっちゃんの「いきどおる心」は、釋超空の「いきどおる心」とは恐らく無縁ではないと私は思う。