釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

雑談:死の真の意味を知ること

2012-09-15 14:36:51 | その他の雑談
昭和49年12月~昭和50年3月まで、NHK・TVで『平家物語の世界』という市民大学講座が放送されました。水原一という方が講師でしたが、私が知る限りにおいて、随一の名講義と言えるでしょう。この放送内容が昭和51年に本として出版され、TVの名講義がそのまま継承された、まさに名著と言える本だと私は思っています。
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以下は『鬼界が島:足摺、有王』の原文と、水原一氏の解説です。
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原文:
『・・・その後都へ上り、僧都の御女の忍んでおはしける所へ参つて、ありし様、初めより細々と語り申す。なかなか御文を御覧じてこそ御思ひはまさらせ給ひて候ひしか。硯も紙もなければ、御返事にも及ばず。思(おぼ)し召され候ひし御事、さながらむなしうやみ候ひにき。・・・」』

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以下は水原一氏の解説です。

『私たちは一瞬の休みもなく次から次へといろいろな事を思い続けております。
人一日一夜を経るに八億四千の思いあり、などと申しまして、とりとめもない事も、まともな事も、とにかくびっしりと思い続けている。

死ぬということは、その人間の中味ともいうべき念々の思いが一切絶え、雲散霧消してしまうことなんですね。鬼界が島で生を終えた俊寛。無限の思いを抱きながら、その一切が、「むなしうや」んでしまった、その空しさこそが「死」というものなのであります。・・・』
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私にはこの解説は原文を超えた名解説として読みます。

生きている、ということは睡眠時はともかくとして、結局、何かを『びっしりと思い続けている』状態だと言えるでしょう。そういう状態は少なくとも私は決して平穏な状態ではありません。むしろ『思うことから開放されたい』状態が圧倒的に多い。これが偽らざる私の心情です。

もし死ぬということが、『念々の思いが一切絶え、雲散霧消してしまうこと』ならば、私にとって死は決して空しいものではありません。空しい、どころか本望です。
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『生きる』ことの価値を説く者ないし書物は掃いて捨てるほどあります。
しかし『死ぬ』ことの価値を説く者は残念ながら私は知りません。
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この国は人類史上初めての高齢化社会に突入しつつあります。
いやがおうでも、わたしたちは『死ぬ』ことの真の意味を現実問題として捉えなければなりません。この問題は今や形而上の問題ではなく形而下の切実な現実問題だと私は思っています。

雑談:高校の幾何のこと

2012-09-08 10:20:41 | その他の雑談
どうも本命の釋超空のうたから離れた雑談が続く。
まぁ、いいか。
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私が高校生の頃、数学は数Ⅰ、数Ⅱ、数Ⅲと別れていた。
そして数Ⅰは、代数と幾何に更に別れていた。

今更ながら、つくづく思うのは、その数学を勉強させられて良かったということである。

特に、幾何の私への『洗脳』は、その後の私の人生において決定的な影響を与えてくれたと感謝している。

この幾何はユークリッドの初等幾何であるが、『任意の』とか『故に』とか『定義する』という言葉自体、それまでの私の貧弱なる語彙集には全くなかった。

あの頃、私は、幾何の教科書に掲載していた『定理』の『証明』そのものを一字一句徹底的暗記させられた。

その『証明』の言葉遣いや無駄な言い回しの排除を、暗記というかたちで徹底的に訓練させられたのだった。

もし私が、あの青春の頭の柔らかい時期に、幾何を勉強させられていなかったら、私の現在の『もの言い』は惨憺たる冗長な聞くに堪えないものになっていただろうし、書く文章も読むに堪えないダラダラした駄文になっていたことは間違いない。
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私の、ささやかなライフワークの『絵つくり遊び』も、その根底には高校時代の数学がある。私はその後工学系の大学・院でも勉強することになったが、今、我が半生を顧みるとき、やはり高校の幾何が私とって決定的に貴重だったと痛感している。
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たしか芥川龍之介だったと思うが文章の勉強をするには数学の勉強するのが一番良いという趣旨のことを書いていた。まったく、私もそのとおりだと思う。特に、ユークリッドの初等幾何の勉強が最適だと私は思う。

雑談:私の絵日記(ドットとコンマ話]

2012-09-04 15:36:36 | その他の雑談
私はBASICという時代遅れのプログラム言語を使って絵作り遊びをしている。
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かの有名なバートランド・ラッセルが、これまた有名な『ラッセルのパラドックス』を発見し数学界を震撼させたとき、『いい大人(おとな)が、こんなコトしてていいのか』とかなんとか言ったそうだ。

私が絵遊びのBASICプログラム作りしているとき、ラッセルの気持ちが分からなくないと思うときが私にもある。もちろん私のただの絵作り遊びに、数学の大革命のキッカケをつくったラッセル先生をもちだすのは噴飯ものだが。

私のBASICプログラムには、一応、バグ(←プログラム・ミスのことね )指摘用のプログラムも組み込んであって、もしバグがあれば、その発生理由と発生場所を教えてくれるようにしてある。

ある日ある時、プログラムを作って走らせたら、ちっとも動作してくれない。
組み込んであるバグ発見用のプグラムでの指摘はなにもなかった。
正常なプログラムのはずである。しかし、動作しないのである。

「おかしいな・おかしいな」と思いつつ、半日、あれやこれやと調べ続けた。

「いいかげん、やんなっちゃた」と放り投げようとして、そのプログラムの或るところをフトと見たら、コンマ(,)にすべきところを、ドット(.)にしていたのだ!!

最近、眼も悪くなってきて、, と . も、よく識別できなかったのだった。

およそ半日、私は、, と . に振り回されていた。
自作のバグ発見プログラムは、そこまでは面倒を見てくれなかったのだ。

それこそ『いい大人(おとな)が、こんなコトしてていいの』と思わなくもなかった。
私の場合は、ただのお遊びだから、どうでもよいことだが、これが仕事となるとコトは重大である。

時々、『***会社の計算機システムが動作しなくて大騒動』というニュースを新聞で見たりすることがある。

私はそういうとき、そのシステム設計担当者の蒼い心情に同情せざるを得ないのである。