釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

雑談:『Hop-Frog』(Edgar Allan Poe)の思い出

2013-01-05 09:21:52 | その他の雑談
これは私にとって実に思い出深い短編小説だ。
タイトルを英語で書いたが、だからといって私は英語が得意というわけでは全くない。我が生涯を振り返ってみて、英語は結局あらゆる意味でモノにならなかったものの一つだ。では何故、英語で書くか。それは以下の理由があるからだ。
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話は昭和37年にさかのぼる。当時私は高校3年生であった。その高校はいわゆる受験校で現在はどうか知らないが当時は規定の授業なるものは1月始め頃には全て終了し2月以降は受験準備のため休校になつていた。

1月は各学科で言ってみれば暇つぶしの授業が行われていた。

私の教室の英語担当の先生は、其の『暇つぶし』の英語の授業で、先生手製の『ガリ版刷り』の教材を使用したのだった。

当時はワープロは勿論存在しないし、現在在るような重宝なコピー機も存在しなかった。在るのは油紙のようなものに金属製のペン先でカリカリと手書きして、それをガリ版機なるものに乗せ、インクの付いたローカーで擦って、一枚一枚コピーしていく・・・そんな次第の先生自身による手製教材であった。

先生は其のコピー教材を教室の全生徒に渡し、何の説明もなしに其のコピー用紙に書かれた英文を自ら読み始め自ら日本語に訳し始めた。

先生は生徒の誰かを指名して読ませたり訳させたりするような、そんな野暮なことは一切しなかった。

当時、私は生意気にも学校での英語授業なるものを軽蔑しきっていた。
英語は所詮は受験のための『お道具』だと割り切っていた。
この授業は毎週1回、1ヶ月間続いたように記憶している。

ところが私は次第に此の先生の授業にだんだん惚れこんでいった。
この教材の話の面白さに惹かれていったのだ。

小説らしい、ということは始めから分かっていたが、ともかく先生の和訳の話術も実に素晴らしく私はこの授業が楽しくてしようがなくなった。

今我が人生を振り返ってみても、こんなに魅惑的な授業というより、魅惑的な時間はその後ほとんど無かったと思う。

この授業の最終回に此の教材の話も終了したのだが、先生が教室から去ろうとするとき同級生の誰かが先生に問いかけた。

この教材の話の作者は誰なのか、と。
すると先生は、黒板に、E.A.Poeと黙って書いてスーと教室から出て行った。

そうかポーだったのか ! と、私は妙に大感激した。

私のこの感激は、文学というものの香りへの感激だったに相違ない。
今でも私は素直にそう思う。
索漠たる受験英語に荒んでいた私は、真の文学の泉が如何なる味であるか、それを知ることができたのは私の心が未だ若かった故でもあるのだろうが、なによりも此の授業のおかげだと言える。

そして、当時、この授業の素晴らしさに感激した生徒が教室の片隅に居た、ということは恐らく先生はご存知あるまい。

その先生の名前は私は今でも私は憶えている。原崎という先生だった。 
もう半世紀以上も前のことだ。今もご健在なのかどうか、同窓会なるものには一切出席していない私には分からない。
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その後私は目出度く大学に入学し先ず買ったのが、
『Tales of Mystery and Imagination』(everyman's library 336)
だった。

この本のカバーには、Hop-Frogが、松明を片手に持って、シャンデリアの鎖につかまり、舞踏会を見下ろす場面の絵が描かれている。この本は今でも私の手元にある。

このHop-Flog の和訳を、その後いくつか読んだのだが、やはり先生の話術には、とうてい及ばない。

もし、先生と同じ程度に和訳できる人は誰だろうと思うときがある。
恐らくそれは芥川龍之介だと思う。

あの江戸小細工のような凝りに凝った緻密な文章で芥川龍之介が、このHop-Flogを日本語化してくれていたら・・・と思う。私の感覚では『Hop-Flog』と『地獄変』とは、とてもマッチするのだから。

79. かくばかり さびしきことを・・・

2013-01-04 08:24:23 | 釋超空の短歌
『かくばかり さびしきことを思ひ居し 我の一世は 過ぎ行くかむとす』

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私がNEC主催のPC-VANに盛んに書き込みをしていた頃、『1杯のかけそば』という作文が、どういうわけか大いに話題となった。後に、これがある作家の小説だと知り、私は少々唖然とした。確か、この小説なるものがPC-VANに転載され、私はそれを読んだ記憶があるからだ( 著作権に抵触するのかどうか、その辺は知らない )。

小説の素人の私が読んでも、これは小学生あたりの出来の悪い作文にしかみえなかった。なぜ、こんな詰まらない話が、かくも話題になったのだろう。この「作文」は社会現状にも発展した。
映画化もされたそうだ。私は露骨( と、あえて言おう )な、このテの「美談」は好まない。

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昔々の映画だが、「3度泣けます」と宣伝された親娘悲話の映画が流行した。
「悲しい運命な」母親役は常に三益愛子で、子供役は・・・確か白鳥ミズエだった。東映チャンバラ映画に夢中であった私も、流石に、この「お涙頂戴」映画には辟易していた、というよりハナからバカにしていた。

そもそも悲劇・悲話というものは、それが露骨に表現されると笑劇、というより莫迦莫迦しくなる。その典型が『1杯のかけそば』であった、私にとってはネ。
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カケソバと言えば私には懐かしき思い出がある。私の両親は映画好きであった。私がチャンバラ映画に夢中になっていた頃だから昭和24,5年頃だが、この頃は私の両親と妹と一緒に町の映画館にセッセと通っていたものだ。それも夜の部に限っていた。映画が観終わると必ず近くのソバ屋により、一番安いカケソバを4人で食ったものだ。実に旨かった。1杯30円だったと記憶している。あの頃の我が家の生活水準は、まぁ中の下ぐらいのところだろう。細いネギを細かく切ったヤクミだけのカケソバだったが、私には大変なご馳走だった。ラーメン( あの頃はシナソバと言った )は50円だったと思う。このシナソバは正月、母の実家で食べるのが習慣だった。
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てな我が懐かしき記憶があったものだから、『一杯のかけそば』に私は同情してもよかったのだが、なににせん、この作文はあまりに野暮すぎた。もし、この作文いや小説に感動した諸氏がおられたら、スイマセンです。
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ところで白鳥ミズエ嬢は私と同じ位の年齢だったから、もし御健在なら、今や良きお婆ちゃまであろう。

78.風の音しづかになりぬ・・・

2013-01-03 14:29:07 | 釋超空の短歌
『風の音しづかになりぬ。夜の二時に 起き出でゝ思ふ。われは死ぬなずよ』
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今から、そう、40年以上も前になるか、ラジオから聞こえてきたものだ。
ウクレレ漫談のまき・しんじ(←字忘れたヨ)が例の声でヤッてたよ。

♪みずはら ひろし は 低音の魅力
♪ふらんく ながい も 低音の魅力
♪まぁーき しんじは は テイノー(低能)の魅力

♪あ~あ、やなんちゃったぁ おどろいたぁぁぁ~
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私は、昔より、どういうわけか、この歌?がすきだった。

数年前だったか、まき しんじ がテレビに出た。
私は驚いた。なんと老けたことかと!!

私は、この漫談家が全盛の頃(昭和40年頃かな)、
若い彼をテレビで見て知っているからだ。
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彼は今も健在だろうか。
若い頃を私が知っている人たちが次々と亡くなっていくように
私には感ぜられる。
時間というものの早さと、その残酷さを思わずにはいられない。

私の部屋の窓から雲一つない青い空が見える。

雑談:『みるい』という方言

2013-01-03 14:06:53 | その他の雑談
私は遠州の片田舎に生まれた。
この地方に『みるい』という方言がある。
この方言に関して、ちょっと良い話があるので紹介しよう。
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もう随分昔のことです。私が故郷を離れてから、だいぶ過ぎていた頃ですから、昭和四十年あたりだと思います。その頃の或る日、私は何気なくラジオを聞いていました。
『敗戦前後の忘れ得ぬ体験談』という趣旨の番組でした。その番組で、在る女性が『みるい』の体験談を話始めたのです。そのラジオ番組を、ボンヤリと聞いていた私は、思わず聞きいりました。上記したように『みるい』とは我が故郷の方言だったからです。その女性の方の体験とは以下のようなものでした。
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あの敗戦直後、この女性が、幼い子を連れて、静岡県の田舎に疎開してきたそうです。どういう理由で、その田舎に疎開してきたかは覚えていませんが、ともかく、この若い母親とその幼い子が、見も知らない土地にやって来た。来たものの、見知らぬ土地故、道端で途方にくれていたそうです。当時のことですから食糧難はあたりまえのことで、この親子も、その例外ではなかった。腹を空かしている我が子を連れての見知らぬ土地への疎開ですから、随分と心細かったそうです。

そんなわけで道端で途方にくれていたとき、その土地の人らしい、お婆さんが、ふと通りかかった。そのお婆さんは、その若い母親と幼子の事情を察したのでしょう。幼い子に近寄り、なにがしかの食べ物( おそらく饅頭か何かだったんでしょう )を差し出したそうです。そして、こう言ったそうです。『まだ みるいんだからねぇ』と。そう言って立ち去ったそうです。

その女のかたは、都会育ちでしたから、この『みるい』という言葉は知らなかった。しかし、そのとき、その言葉の意味を彼女は真に理解できたそうです。
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勿論、私は『みるい』という言葉の意味を知っています。標準語に直せば『未熟』という意味になるでしょう。しかし、この『みるい』には、単に『未熟』だけではないニュアンスがあります。このお婆さんが使った『まだ みるいんだからね』の『みるい』には、『まだ成熟しきれていない者に対する慈しみ』とも言えるニュアンスがあります。 この若い母親は、此の知らない方言に、このニュアンスを感知し、この『みるい』という言葉が忘れられず、『いつか、お会いして、あのときのお礼を言いたい。』と語っていました。
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方言というものは、いわゆる標準語では表現しきれない、微妙さ・繊細さが、ニュアンスとして言葉の奥に沁みこんでいるものです。現在、全国津々浦々、標準語がゆきわたったことは勿論良いことです。しかし、是非、残しておきたい方言も全国津々浦々に在るに違いない。言葉(方言)というものは、それが使われる人たちの実生活に密着した大事な文化財と言っても過言ではないでしょう。その一つの例が、若い母親が耳にした『みるい』だったのです。『みるい』だからこそ、彼女は、その言葉が忘れられなかったのでしょう。

雑談:ゲーテの言葉

2013-01-03 13:31:46 | その他の雑談
森鴎外の『妄想』というエッセーに、ゲーテの言葉が引用されている。ドイツ語がドイツ人より達者と言われた鴎外であるから鴎外自身の日本語訳だろう。

『いかにして、人は己を知ることを得(う)べきか。省察をもってしては決して能(あた)わざらん。されど行為をもってもってしてはあるいはよくせん。汝の義務を果たさんと試みよ。やがては汝の価値を知らん。汝の義務とは何ぞ。日の要求なり。』

鴎外は『妄想』で、自らの精神史を省みて、自らの死についての思いを語っている。
この『妄想』は鴎外が49歳のとき書かれていて、60歳で亡くなっている。だから鴎外の晩年の言わば独白と言ってよいだろう。

この『妄想』で、鴎外は既に『死を怖れもせず、死にあこがれもせず、自分は人生の下り坂を下って行く。』と書き、更に『その下り果てたところが死だいうことを知っている。』と言い切っている。

そして、死が『自我』の消滅ならば、『西洋人の言う自我』を鴎外が理解出来ないことに対して『残念だと思うと同時に、痛切に心の空虚を感ずる。なんともかともいわれのない寂しさを覚える。』と書いている。

こういう文脈の中で、上記のゲーテの言葉が『妄想』で引用されている。

今日においては鴎外の感じていた『痛切な空虚さ』を理解するのは大変難しいことだと思う。歴史的にもそうだし、知的深度においても、今日の我々凡人たちには、鴎外の孤独がいかばかりのものであったかは先ず理解できないだろうと私は思う。

上記のゲーテの言葉引用の直後に鴎外は以下のように書いている。

『日の要求を義務として、それを果たして行く。これはちょうど現在の事実をないがしろにする反対であろう。自分はどうしてそういう境地に身をおくことをことができないのだろう。』と。

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ここから、私は鴎外の『妄想』から離れてゲーテの言葉を考えてみる。
『汝の義務とは何ぞ。日の要求なり。』を考えてみる。
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私の部屋の窓から隣接した農家の畑がよく見える。私は、時々、その農家の人たちが畑仕事をしているのを見かける。時には暑い日も、あるいは寒い日も、その人たちは黙々として畑仕事をしている。そういう姿を見ていると、ゲーテの言葉が身にしみて理解できるような気がしてくる。この人たちは、まさに『汝の義務を果た』しているのであり、それのみが、この人たちの『日の要求』であって、断じて『省察』などではなく、『行為』以外のなにものでもない。この人たちは己を知っているのだ。

私はどうか? 労働とは、およそ無縁な、又、省察とは更に無縁なPC遊びに呆けている。要するに私はゲーテの言う『行為』とは、およそ無縁な生活をしている。つまり『日の要求』が私は皆無であり、従って『汝の義務』も果たしていない。果たすべき『日の要求』が根本から間違っているのだ。己を知り得ないのは当然といえる。今更言つてもせんないことである。しかしながら鴎外とは桁違いの次元の低さの私の『空虚さ』ではある。
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『いかにして、人は己を知ることを得(う)べきか。省察をもってしては決して能(あた)わざらん。されど行為をもってもってしてはあるいはよくせん。汝の義務を果たさんと試みよ。やがては汝の価値を知らん。汝の義務とは何ぞ。日の要求なり。』