釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

雑談:いち電子回路設計屋の苦き思い出

2012-11-26 10:57:07 | 非文系的雑談
小学生の頃、私は江戸川乱歩の探偵小説が好きだった。明智小五郎が、例えば紫式部を読んでいるとはとても思えない。数学か物理の本を読んでいるに違いない。という理由で、私は当然のごとく自分は理系に進むと決心していた。笑うなかれ。

あの頃、電子工学というものに何の根拠もなく私は憧れていた。電子、いいじゃぁないか! 神秘的だ!。 明智小五郎も好きに違いない!。 という極めて幼稚な理由で( 幼稚!! いいじゃぁありせんか幼稚で・・・)、幼児が綿菓子を求めるが如く、私は電子工学者になるべく猪突猛進した。あの頃( 中学生の頃か )、何の理由もなく法学部だの経済学部などは軽蔑しきっていた。文学部は・・・私は探偵小説が好きだったから、まぁ「許してやろう」と思っていた。笑うなかれ。
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というわけで、結局、私はある電気会社の電子回路設計者に目出度くも、あいなった。
ところが・・・。
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たぶん多くの人は、電気会社の電子回路設計部という世界の実態を知らない人が多いだろう。
以下は私の、あくまでも私の個人的な「実態」の一部を披露してみよう。その実態は、『春はあけぼの・・・』とは全くかけ離れた異質の世界であり、極端に言えば地獄の如く冷徹な世界であった。あまっちょろい世界では、ゆめゆめ、ない。
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言うまでもなく、電子回路設計というのは、いわば自然現象を「設計」する。その自然現象は人情などさらさら通用しない世界だ。あたりまえのことだ。自分が設計した回路が試作装置に組み込まれ、いざ電源スイッチを入れて煙が出たとき・・・試作機というものは先ず煙が出るものなんだよ、ーーー即ちトラブルが露呈するのだが、そこから回路設計屋の悪夢が続く。
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電子回路は冷徹に自然法則に従う。煙が出ようが容赦はしない。設計者が青ざめてトラブルを解決すべく徹夜しようが、『駄目なものは駄目』(この言葉アノ人、言ってなかった)と突き放される。『ああ、エンジニアになるんじゃぁなかった』と何度ため息をついたことか。しかしエンジニア冥利につきる時もないではなかった。それは回路設計計算をキチンとし、その回路がキチンと動作した瞬間だ。「やった!!」。この瞬間ね。至福な時は。しかし大抵は青い顔して、測定機器に囲まれ、孤独に、自身が設計した回路盤と格闘している時のほうかが圧倒的に多かった。
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設計時に叩き込まれるのは、Q・C・Dの重要性。Qは品質。Cはコスト。Dは納期。Q,Cはともかくとして、現実生活者として一番苦しめられるのはD。納期近くなると、全ての設計者は残業が続く。Dの数日前は、ほぼ徹夜が続く。若くなければエンジニアなど、やってられませんね。ともかく、いろいろな意味でキレイコトが通じない世界ですよ。
『世の中のためになる機械を作る』とか或る趣味人の人が言ってましたが、『それはそれは、ようござんすね。こちとらは、それどころでは、ありませぬて。』 これが、少なくとも私の偽わざる本音だった。
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私は10層基盤を設計したことがある。基盤というのは、たとえばPCを空けると、青色の板があるでしょう。あれのこと。現在はどうか知らないが、当時は、その板の両面にプリント配線をしていた。配線と言っても部品同士を3次元的に配線するのではない。部品が乗った板(盤)の面そのものに配線するのだ、と言っても理解できないかも知れない。
10層基盤の配線というのは、あらっぽい感じで言うと、部品を10次元で配線すると思えばいい。この10層基盤の設計にはマイった。
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などなど。みなさんの周りにある電気機械には、上記のごとき、エンジニア達の汗と涙がにじんでいるのです。そして、もし貴方のお子さんがエンジニアで、青い顔して帰宅されたら、どうか、そのお子さんの『自然現象との戦い』に思いをはせてやってください。

雑談:或る猫の思い出

2012-11-15 09:34:21 | その他の雑談

上の写真は、ありし日のトッチャンの写真である。(アナログ写真をデジカメで撮りなおしたので少しぼやけている)

私がトッチャンと初めて出会ったのは、もう10年以上前になる。

私が、いつもの犬( この犬も今や亡くなっていないが )との散歩道-そこは、あまり人気の無い曲がった小道だったが、そこを通りかかったとき道ぎわの草むらから、なき声が聞こえた。犬が気付かなかったなら分からなかったほど、かすかな声だった。

近づいて、よく見ると子猫が草むらの中にいた。抱き上げてみると、なんと両後足が全く萎えていた。しかし幸いにも両前足は異常はないようだった。

生後数ヶ月程と思われる大きさだったので、事故か何かで両後足が動かなくなってしまったらしい・・・しかし事故直後にしては、それらしい傷は両後足にはなかったし、又その人気のない小道の草むらまで独力で歩いてこられるはずもないし・・・・・・。

飼い主に捨てられてたのかどうか・・・そこらの事情は分からなかったが、そのまま見捨てていくわけにはいかず、家内を携帯電話で呼び出し家に連れて帰った。

その頃は私は大変な時期だった。
近くに住んでいた父は脳梗塞で倒れ右半身は完全麻痺。言語能力も完全失墜。そして入院。父と同居していた母は、比較的軽度ではあるけれども自活は不能なアルツハイイマー病の状態。

そのため、その頃は私は、昼飯のみは自宅で済ますことにし、その他の時間は母宅の二階で過ごすことになった。自宅と母宅との距離は自転車で数分程だったので、自宅と母宅との通いには別に問題はなかった。夕方には家内が夕飯を母宅に持参し、そこで食事し、家内は自宅に帰る。その繰り返しの日々ーーー。

そのような両親の介護状態時でのトッチャンとの出会いだった。
ともかく、トッチャンを近くの動物病院で診てもらった。両後足の不自由な猫は、前足でイザッて歩くため、尻を擦るためか腎臓系統が病んで長くは生きられないとのことだった。しかし、ともあれ、尻に塗る薬をもらって母宅に連れて帰った。

それから母宅でのトッチャンと私との生活が始まった。下の写真でトッチャンが『着ている』赤色の布きれは、実は『おむつ』なのだ。尻にティッシュ・ペーパーを当てて『おむつ』を、はかせて家の中を自由に遊ばせていた。

尿等で『おむつ』は直ぐ汚れてしまうため、家内の手製の数枚の『おむつ』を用意して、それを順次はかせていた。

その汚れた『おむつ』はトッチャン専用の、庭の小さな物干しで乾かしていたのだが、通行人がその奇妙な布切れを見たら、さぞかし不思議に思ったことだろう。それを思いだすと今でも一人笑えてくる。

前輪駆動で動き回るトッチャンは、両足の不自由さにも関わらず実に闊達だった。チョコチョコと動き回る、その速さときたら流石に猫だなと思ったものだ。二階への階段は、上がるのは、やはり無理だったが、降りるときはコロゲ落ちるようにして自力で降りていったものだった。

そして、父が亡くなった年の初夏の或る日。
トッチャンとの生活が始まってから三年目を過ぎた或る日。

私が自宅で昼飯を済まし、母宅に戻ってみるとトッチャンの様子が変だった。
朝は何も常と変わらず元気だったが・・・・・・。
思いも因らない全くの急変で私は驚き、トッチャンと声をかけるとニャッと小さな声を出したと思った瞬間、トッチャンの頭がガクと垂れ、それきりの最期だった。

何か小説や映画のようなアッと言う間もない幕切れだった。
やはり腎臓系統の疾病が徐々に進行していたのだろう。

その後、その小さな体を、私は庭に埋めてやった。
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今迄、私は何匹かの猫との出会いと別れがあった。しかし、このトッチャンとの出会いと別れは、私にとって、いろいろな意味で忘れることのできないのものとなっている。

PS: この子猫は、いわゆる体の模様がトラ猫に似ているということで家内がトッチャンと名づけたのだった。

77. 『草あぢさゐの 花過ぎ行き方の・・・』

2012-11-04 10:24:36 | 釋超空の短歌
『草あぢさゐの 花過ぎ行き方のくさむらに向きゐる我が目 昏(くら)くなりゆく』
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私の家の玄関から少し離れた所に鉄製の小さな門がある。
その門の傍に紫陽花が植わっている。
どうしたわけか、その紫陽花に小さな花が一つ忘れられたかのように咲いている。

私は朝いつも散歩に出かけるとき、その小さな花を見るともなく見ている。

寒い朝が続いているためもあるのだろう、その花は枯れ花へと変色を加速している。
数日後には、小さな枯れ花と化し、その紫陽花にぽつんと残こされるだろう。

その紫陽花の向こうには、しおれかけた雑草がだらしなく続いている。
今年は私の体調の不良もあって毎年行っていた雑草刈は思うように出来なかった。

私の散歩の歩数も以前より、めっきり少なくなってしまった。
寂し気に枯れていくその小さな花が、私の歩数の衰えを象徴しているように思えてならない。
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『雑草の群立(むら)だつなかに 粉となりて散り花を熟々(つくづく)は見ず』

雑談:シェーラーの定理

2012-11-03 14:40:47 | 釋超空の短歌
『「無限」に魅入られた天才数学者たち』(早川書房)という本がある。

この本の最後に、この本が書かれた当時(和訳版は2002年)に発見された、集合論の一つ成果としての定理が解説ぬきに紹介されている。いわくシェーラーの定理。
書いてみよう。

『いかなるnに対しても、2^アレフn<アレフωならば、2^アレフω<アレフω4である。』

(そもそも、ここではフレフの記号も書けないし、正確な記述も出来ない!!)

専門家を除いて、上の『・・・』の意味が直ちに理解できる人がいたら・・・もし貴方が数学者でなかったら貴方は生き方を間違えている!!! 直ちに数学基礎論者になるべきだ。大げさでなく、それが人類の為にもなる。

この本の著者自身がビックリ・ギョウテンしている。
『どうして、こんなところに4というサプクスリスト(添え字)が出てくるのだ!!!』と。

人類の中にはインド人・ラマヌジャンのように神がかった数学者が確かに存在した。

だからシェーラー定理をたちどころに理解してしまう人が今後出ないとは限らない。
ただ、そういう場合、頭脳の或る異常さという意味で、『天才と狂人の違い』という興味深い問題を我々に残すだろう。