釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

雑談:私の世界観を変えた3つのこと

2012-10-31 09:58:31 | 非文系的雑談
なんて、少し大げさな言い方だが我が半生を振り返ってみるとき、私の『ものの見方』を変えたな、と思うコトが3つほどある。  こういうことを書くと衒学趣味と思われる方がいるかも知れない。私はもう少しで古希。今更、衒学でもあるまいし、又私のブログを見る人は限りなく零に近いから、そんなことは杞憂を取り越してアホくさい心配事である。
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・1番目( 個と全体について )
1980年代頃、いわゆるニュー・サイエンスが流行した。その流れの一つにライアル・ワトソンという人がいた。私はこの人のファンであった。この人が解説した『生命潮流』という番組がTVで放送された。本もある。本はともかくとして、テレビで放送された或る短い記録映画をみて私は愕然とした。それは、ある菌類の生態を記録したものだった。その菌類は食物が充分なときは個々で活動している。しかし、食物が不足してくると、その菌類は互いに集まってきて、一つの生命体に変身してしまう。動き回るのも全く一つの生命体として活動する・・・という見事な記録映画だった。

要するに『個と全体』という形而上の問題が、現実の菌類で具現化していたのだ。
また私たちの住む地球を一つの生命体としてみる、というJ.E.ラブロックの『ガイア仮説』も、その頃発表され、私はそれにも大いに感化された。

『個と全体』というコトは分離して考えられるものではなく、あるときには『個』、あるときには『全体』となるという分離し難いモノである、という謂わば『哲学的命題』が、その記録映画は現実の菌類の生態でまざまざと私は見せ付けられた。この現実世界の生態を見て私の世界観は確実に変わったように思う。

・2番目( 無限には大小がある )
これを知らされたとき私は大きな知的ショックを受けた。私には思いも及ばないコトだった。凄いと思った。G.カントールの実無限の発見の話である。更に、順序数という考え方は更にショックだった。人間の思考というものの凄さを具体例として見せつけられた、というショックであった。このシヨックは3番目と関連してくるのだが今だに私は感じている。

・3番目 (人間の理性には限界がある )
ゲーデルの不完全性定理である。この定理を完全に理解するには数学基礎論のドクターコースにいかなければ不可能だそうだが、その定理の証明の理解にはそうだろうが、この定理の結論は一応は理解できる。つまり、人間の理性には原理的に限界があるというのだ。私はそれを知らされたときもショックを受けたし未だ受け続けている。
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簡略に書いたが以上が我が半生において、私の世界観を根底から変えたと思っているコトである。私は以上の3つのことを今で゛も反芻し私なりに考え続けている。
この3つのコトに比べれば人類の月面着陸は私には知的ショックとしては少ない。大変な人類の偉業であることは分かるが。

雑談:『ハイドンの主題による変奏曲』と『お袋の味』

2012-10-01 14:11:11 | その他の雑談
相変わらずの雑談である。ブログの名前を変えたほうがいいかも知れない。
『或る阿呆の無駄話』にしようか。
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音楽は食べ物同様に『お袋の味』がある、と私は思う。

始めて食べさせられた、あるいは食べ慣れた食べ物の味が、ここで言う『お袋の味』の意味だ。

以下は、音譜も読めないし楽器にも縁がなく、音楽はただ聴くだけという正真正銘の音楽のド素人の私のただの断想。

音楽を聴くということも一種の『刷り込み現象』があるようだ。

例えば掲題の『ハイドンの主題による変奏曲』(ブラームス)。

これは私の大好きな曲の一つだが、これは以下のレコード盤(or CD)でなければ、どうもダメなのだ。どうも座りが悪いのだ。

 ブルノー・ワルター指揮、コロンビア交響楽団のもの。
 更に言えば1960年に録音されたもの。

こう断定するのは勿論衒学趣味で言っているのではない。
この曲を始めて聴いたのが上記のレコード盤だったからに過ぎない。

この盤を聴きに聴きまくっていたのだから、それが私の『お袋の味』になってしまった。だから他のものには微妙に、あるいは大いに違和感を感じてしまう。

これはクラシック音楽だけではない。

先日、美空ひばりの『越後獅子』を聴きたくなり、YouTubeで検索した。
そしたら出てきたのは大御所になったときのものばかり。

私が聴きたかったのは、小生意気な小娘時代の『越後獅子』だったのだ。

もし、私が彼女の小娘時代のこの唄を知らなかったら、大御所時代のそれを気に入ってdown load していたかも知れない。

いずれにせよ、良き『お袋の味』に出会うか否か、それは何事であれ、案外、人世にとって肝要なことかも知れない。