釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

雑談:私の好きな三つの詩

2012-05-30 15:07:50 | その他の雑談
・ひとつめ。
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 あはれ花びらながれ
 をみなごに花びらながれ
 をみなごしめやかに語らひあゆみ
 うららかの跫音<あしおと>空にながれ
 をりふしに瞳をあげて
 翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
 み寺の甍みどりにうるほひ
 廂々に
 風鐸のすがたしづかなれば
 ひとりなる
 わが身の影をあゆまする甃<いし>のうへ
                     (三好達治)   

・ふたつめ。
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秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があって、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射しているのでありました。

陽といっても、まるで珪石か何かのようで、
非常な個体の粉末のようで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもいるのでした。

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでいてくっきりとした
影を落としているのでした。

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもいなかった川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れているのでありました……

          (中原中也)
   
 ・みっつめ
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 わが為は 墓もつくらじ-。
 然れども 亡き後(あと)なれば、
  すべもなし。ひとのまにまに-

   かそかに ただ ひそかにあれ

  生ける時さびしかりければ、
  若し 然(しか)あらば、
  よき一族(ひとぞう)の 遠びとの葬(はふ)り処(ど)近く-。 

  そのほどの暫しは、
  村びとも知りて、見過ごし、
 やがて其(そ)も 風吹く日々に
 沙(すな)山の沙もてかくし
 あともなく なりなんさまに-。

  かくしこそ-
  わが心 しずかにあらむ-。

 わが心 きずつけずあれ

           (釋超空)
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これらの詩は私は今でも、ほぼ暗唱できる。
これらの詩を知ったのは二十歳前だった。

私にも二十歳前があったのだ!!

私の部屋の窓から新緑の木々が見える。
それらの木々の初(うい)初しい葉が薫風に揺れている。

また麦秋の季節がやってきた。

田んぼに張られた水が陽にキラキラと反射して美しい。

(この雑文を書いたのは一ヶ月ほど前だ。今、たんぼを見ると稲の新芽が
だいぶ伸びていて、やわらかな風に揺れている。)

雑談:サザエさんの詩・『花冷え』

2012-05-30 15:03:12 | その他の雑談
これも随分昔になるが、ある方がPC-VANのBOOKS SIGに、同人誌の詩を紹介された。紹介された詩はその方のものではなく、同じ会員の人(女性だったと思う)の詩であった。私はその詩を大変面白く読んだ。サザエさんが登場する詩だった。この詩のタイトルは『花冷え』だったと記憶している。

その詩の内容の一部を今でも記憶している。こんな内容だった。

その詩の作者がサザエさん宅を訪問する。あいにくサザエさんは不在だった。なんの用事でサザエさん宅を訪問したのか忘れたが、ともかく用事を済ませ作者はサザエさん宅を出て帰る。

すると、サザエさんが作者を追いかけてくる。夕日を背にサザエさんが遠くから作者に呼びかける。『また、どうぞ、いらしてください』

そんな内容の詩だった。サザエさんは勿論架空の人だから、この詩はある想像のもとに書かれたものだったが妙に私はこの詩に惹かれた。『磯野家の人々』という本がベストセラーになった時期の詩だったかどうか今は判然としない。

PC-VANを脱会してからのことだが、私はこの詩をもう一度読みたく思った。この詩を紹介された方との連絡方法もないので、何年か前インターネットで検索してみたことがある。しかし見つからなかった。

この詩のどこに惹かれたのだろうと思うときが今でもある。『サザエさん』への郷愁かも知れない。

雑談:漱石の作品で何が好きかと訊かれたら・・・

2012-05-30 14:49:55 | その他の雑談
私は『硝子戸の中』を挙げたい。正直言うと私は『明暗』を除いて漱石の小説は退屈だ。
これも好みの問題だろう。
『硝子戸の中』は短いエッセー集だから長編嫌いな私向きの本だ。
私はここに書かれている漱石その人に好感がもてるためか今まで繰り返して読んでいる。
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ここには孤独な漱石の姿がある。硝子戸のうちから、庭の片隅に埋められた犬や猫の墓を黙って見つめている漱石。 
そういう漱石という人の姿を、私は遠くから敬愛をこめて、そっと眺めている・・・
そういうことを私はいつも想像する。
孤独な漱石を遠いから見ている私。 それを想像する私。その想像は私を平穏にする。
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『硝子戸のうち』の全章に通低しているのものは、漱石の諦観だと私は思う。
このしみじみとした静かな諦観に挽かれて私は、いつのまにか、何度も読み返している。私の憧れとしての漱石の静かな諦観。 
このエッセーの最後の39章の最後の一節も私は好きだ。それも引用しておこう。
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まだ鶯が庭で時々鳴く。春風が折々思ひ出したやうに九花蘭の葉を揺かしにくる。猫が何処かで痛く噛まれた米嚙を日に曝して、あたゝかさうに眠つてゐる。先刻迄で護謨風船(ごむふうせん)を揚げて騒いでゐた子供達は、みんな連れ立つて活動写真へ行つてしまつた。家も心もひっそりとしたうちに、私は硝子戸を開け放つて、静かな春の光に包まれながら、恍惚(うっとり)と此の稿を終わるのである。さうした後で、私は一寸肱を曲げて、此の縁側に一眠り眠る積りである。
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雑談:落語『鼠穴』(三遊亭円生)

2012-05-30 14:44:40 | その他の雑談
私は落語が特に好きでもないし詳しくもない。
私が大学2年生のとき家庭教師のアルバイトをしたことがある。今でも覚えていることだが、バイトの初日、初顔合わせということで、そのアルバイト先の家でちょっとした歓迎のご馳走をしてくれた。そこで話が大学のサークル(同好会)のことに及んだ。

そのとき、アルバイト先の奥さんがケーキを私に差し出しながら、こう言った。
『落語研究会って一体何の研究をするんでしょうね?』
私は言葉に窮した。落語の研究?! 東京下町育ちの奥さんにとって、『落語『と『研究』とは水と油のように全く疎遠な存在であり、それが結びつくこということ自体が理解できなかったらしい。
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これも随分昔のことになるが、暑い夏の午後だったと思うが私は裸で寝ながらラジオを聞いていた。三遊亭円生(六代目)の落語を放送するというので聞いたのだった。先に書いたように私は落語が特に好きというわけではなかったが、この円生の噺は好きだった。少し甲高い声で歯切れの良い江戸弁は聞いていて快かったからだ。(この点、芥川龍之介の短編を私が好むことと通じている)

『鼠穴』という噺だった。私は初めて聞く噺だから勿論、映画で言うネタバレは知らなかった。大変面白い噺で最後のドンデン返しには(少し大げさに言えば)感銘を受けた。落語という噺の面白さを痛感させられたものだった。その痛快さは今でも鮮やかに覚えている。試しにユツベで検索したら出てきた。便利な世の中になったものだ。約40分の声だけのものだが、興味ある人は聞いてみたらよい。本物の一端に触れられるだろう。
http://www.youtube.com/watch?v=N9l5N-60p8A&feature=related

落語といえば林屋三平は面白かった。例の『よしこさ~ん』。ある意味でデタラメのおかしさである。バカバカしさのおかしさである。ともかく愉快なのである。時代の潮流に乗った人ではあるが、それだけではないモノがこの人にはあった。ユツベにあったのでこれもリンクしておこう。
http://www.youtube.com/watch?v=OjpoZtqKqnE

先代の林屋正蔵も私は好きだった。三平とは全く芸風が違ったが、この人のアノの独特の声( なんと表現したらよいか知る人ぞ知るだが、この声を、よく先代の林屋木久蔵がマネして笑わしてくれたものだが、この先代の林屋正蔵(今の彦六かな)の噺も味があってよかった。

71. 『麦の花 ひそかなれども・・・』

2012-05-12 11:38:02 | 釋超空の短歌
『麦の花 ひそかなれども、目につきて咲きゐる暮れを 風のさびしさ』
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今年も初夏になった。私の部屋の窓から見える木々の葉も初(う)い初しく薫風に揺れている。

映画『麦秋』を思う。

かの老人も部屋の窓から新緑の景色を眺めているのだろうか。

『風のさびしさ』とは何だろう。

かの老人に、ふと訊いてみたい気がする。
しかし、かの老人は微笑して黙って新緑の木々を見つずけているだけだろう。