釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

雑談:カントールの『連続体仮説』への妄想

2013-06-30 15:07:51 | その他の雑談
私はカントールの超限集合論が其の名前からして惚れ込んでいて、
ここで今更言うまでもなく、私は超度級の素人で、とは言うものの一般読者向けの其の方面の本を乱読してきた。

だから此の仮説の私なりの思いというか、独断、錯覚、珍想があって、私は此の初夏の空を眺めながら、このトンデモナイ仮説に我が想いを馳せるのである。

連続体仮説つぅのはね、と此処で説明して恥さらしするのも癪(シャクと読んでネ)だから省略する。とは言いながら下で珍解説したりするところが凡人の卑しいところ。

偉い人の本によると此の仮説は現代の数学(集合論)では是とも非ともつかず、つまるところ今日只今の人間の理性を超越している凄いシロモノ。

無限には無限の階段があって、丁度、0,1,2,3,・・・と続くように、無限も、無限0,無限1,無限2,無限3・・・と続いていて、無限nは、無限n-1の全ての部分集合の集合の数だけあって、式で書くと、無限nの数(かず)=2^(無限n-1の数)というのが一般連続体仮説なんだそうで・・・・・

ここらは単なる文学的装飾文章なんぞではなく、キチンとした理屈があって(と言うことは好き嫌いの問題ではなく世界の誰も異論できない話であって・・・私が文学に時として嫌気がさすのは、つまり文学って結局は自己満足なんだな。ところが数学は、およそ自己満足など無縁のサバサバとした世界なんだな。そこが魅力さ。

まぁ、それはどうでもよいが、ここで私の妄想が始まるのだが、無限が無限の領域で、0,1,2,3・・・と離散的に続くのは何か不自然な気がする。

一応、有限の世界には数直線のような『連続なモノ』があるんだから、無限にも数直線のように『連続なモノ』があってもよいような気がする。

と此処まで妄想してきたら、何が何だかわからなくなってきた。

そもそも、数直線の点の数(かず)・・・と文章の綾として書いておくが・・・が、カントールは無限1と主張したかったんだから・・・しかし証明は出来なかったし、前にも書いたように此の命題は現代数学の範疇外で未来人はともかく今は誰にも分らないことになっている。

もしかしたら、無限も0,1,2,3・・・のように離散的続くのではなく、一様に「連続的に」続いているのでは?

そんな妄想がするが、結局は此れは私の嫌う文学的思考だな。

雑談:世界遺産と糞尿譚

2013-06-26 09:31:01 | その他の雑談
富士山とその周りのモノが世界遺産に登録されたそうである。

其の当事者達では喜ぶ人もあれば心配する人もある・・・なんてことをテレビの報道番組で言っていた。

私は静岡県生まれだから富士山には馴染みがあり、中高生の頃、朝、通学駅から富士山がよく見えた。なるほど綺麗な山だった。しかし私は登山した経験はない。遠くから其の美麗な姿を眺めていただけだ。

以下の話も随分昔みたテレビの報道番組だが、当時も富士山登山者は相当の数だったようで、登山道には登山者達が鈴なりに歩いている映像が映されたものだ。

この番組でのテーマは、この膨大な数の登山者達による富士山での『落としモノ』、ハッキリ言えば膨大の量の糞尿の始末についてであった。

この番組では、この始末はボランティアの若者達がやっているとのことだった。

彼らは肥え桶を天秤棒の前後に釣るし (今や全く見かけなくなくなったが、昭和20年代の前期でも、お百姓さんは此れを担(かつ)いでいたものだった) その前後の桶に登山者達の糞尿を満たし、険しい登山道を歩いて下山し、然るべき処へ捨てていたそうだ。

呑気な物見遊山の登山者達の膨大な糞尿の始末という、文字通りの『尻ぬぐい』をボランティアとして無償で実行している若者達を紹介した番組であった。

何事においても、そうだろうが、『美麗』な表面の裏には『醜態』も存在するのであって、その『醜態』を、私を含めてのことだが、人々は忘れがちであるし又眼を避けがちである。

余談だが或る人が言うことに、如何なる美人でも、その美人が『落しもの』をしている姿を想像すると幻滅するそうだ。

思えば、糞尿・糞尿と、人は汚いものの代表のように嫌うが、実際のところ己の腹には其の糞尿が毎日生産しているのだから、それを忌み嫌うというのは「おかど違い」ではあろう。

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富士山の世界登録を聞いて私は昔みたテレビの糞尿譚を思い出すのであった。

ところで、最近は、この登山者達の膨大な量の『尻ぬぐい』はどのように処理しているのであろうか? 

まさか、今でもボランティアの若者達が、それを肥え桶に入れて天秤棒で担いで下山して処理しているのではあるまい。

84.『山深く こもりて響き風の音・・・』

2013-06-21 10:50:06 | 釋超空の短歌
『山深く こもりて響き風の音。夜の久しさを堪えなんと思ふ。』
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私は毎朝、散歩をしている。以前より私は、めっきり元気がなくなって歩く歩数もだいぶ減ってしまった。ここ10年程其の散歩を続けているのだが、ときどき出会う犬が三匹居た。

その一匹は飼い犬らしいが、いつも道をウロウロと、ほっつき歩いていた。車が通る道なので危ないなと思いつつ私は其の犬を横目に散歩を続けた。人懐こそうな愛嬌のある顔の犬であった。

二匹目の犬は、飼い主のお嬢さんらしき人が其の犬にリードをつけて、私の散歩の行先である公園の周りを、いつも、ゆっくりと其の犬と散歩していた。

其の犬は後ろ左脚が少し不自由で (おそらく生まれつきの軽い障害だろうが) ビッコをしながら歩いていた。しかし其の犬は其の散歩が嬉しそうであった。

私は此のお嬢さんは心優しい人に違いないと思いつつ、出会ったときは私は黙って軽い会釈したものだ。

これらの二匹の犬は柴犬だが、セントバーナードを連れた50歳代と思われる人とも、よく出会った。この犬は最初出会った頃から、かなりの成犬だったが、ここ数年その老衰ぶりが目につくようになっていた。 

私も20年近く犬と過ごした経験があるので、犬が如何にして老いていくかを知っている。

このセントバーナードも恐らく幼少の頃から可愛がられて育ったのだろう。しかし今や老衰して歩くのも、しんどそうであったが、この犬を連れていた人は、この犬の歩調に合わせていた。其の人は気長に犬が歩きだすのを待っていた。そのようなとき、其の犬の若き頃の跳ね回る元気の姿を思いだしたりしていたのだろう。私がそうであったように。
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ここ数か月、これらの三匹の犬の姿を私は全く見かけなくなった。
いずれも、通りすがりの名前も知らぬ犬たちばかりである。

私は、いちまつの寂しさを感じざるを得ない。

                        

雑談:映画『キャスト・アウェイ(Cast Away)』(2000年、ロバート・ゼメキス監督)

2013-06-18 11:19:26 | その他の雑談
BS放送で録画しておいたのを観た。
その昔、私は『ロビンソン クルーソー』という本を読んだことがある。
フライデイという人物も登場したことも覚えている。 ところが、この映画にはサンデイもマンデイも登場しない。
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実際のところ、私達は、一見何事もない生活しているように見えるが、それは実は錯覚であって (私を含め、錯覚のまま此の世を通り過ぎる人がほとんどだろうが) この人生という名の舞台が暗転すれば、我々はその錯覚を無残にも思い知らされることになる。

人生の暗転? その一つが最近、盛んに言われる超自然災害であったり、政治的・経済的システムの大崩壊であったり、また我々の全く予期せぬカタストロフィーの到来であったり・・・
ともかく、我々は気づこうが気づかまいが、人生という名の険しい山の崖っ淵を歩いているのは確かである。

此れは『それを知らない』ということの幸いの良き例である。もし知っていたら、通常の人ならば昔の言葉で神経衰弱になっているだろう。しかし、これまた、『それを知ろうが知るまい』が、人生の暗転は何人の例外もなく、来るときは必ず来る。
そういう意味で我々は其のような己の人生の暗転の覚悟が日頃から必要である。
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我々の多くは、例えばマッチという火付け道具が如何に貴重なものか、水というものが如何に貴重なものか、又我々の身の周りにある『がらくた』が如何に貴重なものか・・・それに気づく機会が圧倒的に少ない。

文明という幻影に私達は眼が眩んでいるのである。明日は今日の、何の変哲もない連続だと信じきっている。

無理もない話である。明日が我が身の暗転の日だと思っていたら、事実上、精神がまいってしまうからだ。明日は明日の風が吹く。これは良き人生訓である。但し、我が身には暗転の日が来ない、という前提があってのことだ。 
ところが困ったことに此の前提が怪しくなってきていると思うのは私だけだろうか。
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昔、横井庄一さんという人がいた。ご存じの方も多いだろう。

掲題の映画の主人公は、横井さんに比べれば、生存のための条件は良いだろうと思うのは私の詰まらぬ邪推だが、それはともかくとして、この映画のラストで主人公の顔がクローズアップされる。この場面での彼の困惑した表情は印象的だった。

彼が生還した世界とは何だろうか。
恐らく、昔の彼の『日常の世界』とは別ものになっているに違いない。

83 『光る淵の 其処につどはす三世(みよ)の仏(ほとけ)・・・

2013-06-07 09:57:31 | 釋超空の短歌
『光る淵の 其処につどはす三世(みよ)の仏(ほとけ)
   まじらひがたき、現(うつしみ)。われは
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死んだら、どうなるだろうか?
あるいは『何処へ行く』だろうか?
というのは恐らく誰もが子供の頃から思う漠然とした感覚だろう。

それについて、いろいろな人が、いろいろなことを言ったり書いたりしている。
しかし、つまるところ、結局は、誰も分からない・・・に相違ない。
べつに分からなくたっても私如き凡人は何の不自由もない。

しかし確実なことは (世の中に、これほど確実なことはないが) 誰も例外なく、いつかは其の『体験』をする。
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私は或る病気で全身麻酔をしたことがある。そのとき、口にマスクさせられた時、ほぼ同時に私の意識はなくなっていった。
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遠くのほうから、***さん、***さん、という声が聞こえてきた。そして無事、手術は終わったことを告げられた。私は始め何のことか理解できなかった。が、『あ~、手術をしたんだと』と少しずつ意識が戻ってきた。私はマスクさせられたときから、声をかけられるまで全く何も覚えていない。
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生から死に至るまでの人間の体内臓器の死滅は、おそらく電気用語で言うところの同期はしていないだろう。各臓器が順不動で死滅していき、その死滅の順序に従い、固有の苦痛と意識の乱れが錯綜していき、最終的なご臨終となるのだろう。そのご臨終の後が死と呼ばれる状態に至る。 (死についての恐怖は、私個人としては此の生→死の過渡現象期間の肉体的苦痛にある。
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過渡現象と言う言葉も電気用語だが、全ての臓器が機能を失ったとき (医学的には死の定義はそんな単純なものではないだろう。事実、臓器移植が現実に行われているのだから) ともあれ、死後の『私の意識』は察するに全身麻酔時の『私の意識』と同様ではなかろうか、と私は思う。ただ、永遠に、***さんと呼ばれないだけである。
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私たちは時間は砂時計のイメージが固着している。しかし、永遠とは砂時計の砂が止まらないことでなく、おそらく或る異次元への跳躍 (曖昧な言葉だが) を意味しているように私には思われる。 上の釋超空の歌の「まじらひがたき」とは私はそのように独断する。
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『死んだらどうなるか』。
此のイメージの私の最も好きなものは宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』である。