釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

雑談:『六の宮の姫君』(芥川龍之介)

2012-02-21 14:57:06 | その他の雑談
芥川龍之介の短篇を読みたくなったので、久しぶりに読んだ。

『六の宮の姫君』を読んだ。
芥川龍之介の、あの特異な透明な世界に私は満足した。

読みながら私はしきりに溝口健二の映画『雨月物語』の映像を連想した。

この短篇の噺がそのまま映像化されていくような錯覚に私はとらわれた。
あの薄い墨絵のような幽(かす)かな幻想的な映像(撮影:宮川一夫)の世界だ。

この短篇の話も『雨月物語』の中の一篇のように妖しい。

『極楽も地獄も知らず』に老いていく、現代の『六の宮の姫君』たちの魂は、現在もネオンの光の中で虚しく漂っているに違いない。

67. 木(としぎ)樵(き)りつむ音ならし・・・

2012-02-20 12:44:08 | 釋超空の短歌
『木(としぎ)樵(き)りつむ音ならし。
      夕日となれる庭に かそけき  』

『歳木(としぎ)』とはなんだろう。ネットで調べてみた。

1 新年の燃料として、暮れのうちに用意したたきぎ。
2 戸口や門松のそばなどに置き、年神に供える木。節木(せちぎ)。若木。幸い木。

とある。今年は既に2月下旬になろうとしている。もう季節はずれの歌だ。
月と言えば、一月は睦月(むつき)、二月は如月(きさらぎ)、三月は・・・

私は大学受験時代に旧月を以下のように暗記したものだった。
むきやうさみふはなかしし

旧月名の最初の文字を並べたものだが、半世紀以上もたった今も覚えているのだから、暗記効果は抜群の、我が傑作だ。他にもある化学のイオン化傾向だ。いわく
かぁ、かる、なと、まぐ、ある、あえ、えふ、い・・・
Ka,Ca,Na,Mg,Al,Zn,Fe,Ni・・・
これも未だに覚えている。
***
閑話休題

作者は山里の近くの家の庭に佇んでいるらしい。夕方である。
遠くから木を切る音が聞こえてくる。聞こえてくるのはそれだけだ。
それを作者は聞くともなく聞いている。

おそらく作者の心の中に蠢(うごめ)くものはなにもない。
ただ、ぼんやりとした空虚感のみが漂っているのかも知れない。
この空虚感は換言すれば諦観に似たもののようだ。

私も作者のように山里近くの庭で遠くの山の音をぼんやりと聞いていたい。

非文系的雑談:真空と空集合(この宇宙の始まり)

2012-02-15 10:07:24 | 非文系的雑談

(以下は私の勝手な迷想だ。だから真偽の保証はないし厳密さに欠ける。)

『脳とビッグバン』(立花隆著)にこんなことが書いてある。

『インフレーションを引き起こしたもの、それは真空のエネルギーです。真空というと、全く物質の存在の存在しない空っぽの空間(ニュートン的真空)のことだと思われるかも知れませんが、物理学的な真空は決して空っぽではないのです。量子論を真空に適用すると真空も「ゆらぎ」をもっているのです。実際、真空では素粒子が生成消滅を繰り返している、エネルギーのある状態なのです。』

そもそも、この世は『無』だった。『無』は真空か? そこらがよく分からない。ただ、この世の開闢(←それ以前は何か? そもそも、この質問自体が意味をなさないのか? )後、10^(-44)後、インフレーションと呼ばれる宇宙の超膨張が始まる。これはビッグバンではない。ビッグバンは、このインフレーション後(10^(-34秒)からの宇宙の大膨張を言う。

だから、ざっくり言って『無』を『真空』の謂いとしよう、この世は『無』なる『真空』から始まった、と考えよう。

ところが、この『真空』なるものは、量子論からみると『真空では素粒子が生成消滅を繰り返している、エネルギーのある状態なのです。』。

そして、この真空のエキルギーから、この世の一切がスタートする。時間が生まれ、空間が生まれ、素粒子が生まれ、星が生まれ、銀河が生まれ、生物が生まれ・・・挙句の果てに貴方が生まれ、私が生まれ・・・・・・・。

つまりは、この世の一切合財が『無』から生まれる!!!!
***
次に集合論の説く天地創造をみてみよう。集合論では、その理論の前提として、ただ一つのモノしか認めない。そのただ一つのモノとは・・・『なにもない』ことだ。
つまり『無』。これを空集合(φで表す)といい、これを0と名づけよう。さて次に0だけからなる集合を{0}を1と名づけよう。次に、0と1だけからなる集合{0,1}を2と名づけよう。このようにして、無(φ)からのみ自然数全てが生成されてくる。集合論的天地創造であり、『無』から全てが生成されるいくという意味で、この現実世界の宇宙生成とそっくれではないか!!! 『無』というものの豊穣さとでも言えようか。
0=φ
1={0}
2={0,1}
3={0,1,2}
4={0,1,2,3}



n={0,1,2,3,・・・・,n}



ω={0,1,2,3,4,・・・・・}
ここでωは自然数全体の集合となっている。
話は、ここで終了はしない。集合論的天地創造は更に永遠に続くのだ。
即ち、
ω+1={0,1,2,3,・・・・・, ω}
ω+2={0,1,2,3,・・・・・, ω,ω+1}


ω+ω={0,1,2,3,・・・・・, ω,ω+1,ω+2,・・・・}


このような集合は順序数とよばれるのだが、この順序数の生成の有様は、まさに眼も眩わんばかりのモノ凄いというか息づまるほどの世界だ。数学というか人間の思考の世界は、パスカルではないが宇宙をも飲み込む凄さだ。

それにしても、『無』なるモノが、この現実の宇宙においても、集合論においても、それらの世界の豊潤さの源であるということは、不思議というか当然というか何とも表現し難き神秘さがある。