釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

雑談:『雁』 (森鴎外)

2012-03-09 11:21:50 | その他の雑談
釋超空のうたについては、私は私なりに語り尽くしたような気がする。今後、また釋超空のうたに関連して何か思いが浮かんだら書いていこうと思う。というわけで、森鴎外の『雁』についての雑談をしようと思う。
----------------------------------------
私は鴎外の小説は特に歴史ものが好きだが、この『雁』も大変面白く読んでいる。
この小説は恐らく鴎外の小説の中では最も人気のある小説ではないだろうか。

鴎外の小説の描写の緻密さは凄いと私は思う。この『雁』でもそうであって、岡田が初めて「お玉」と遭遇する箇所の描写は特にそれが際立っている。無縁坂を下った所にある『寂しい家の格子戸』で岡田が「お玉」と偶然に会う箇所がそれだ。

実時間にすれば数秒の出来事が実に緻密に描写されている。ここで、その箇所を引用してもよいが、めんどくさいからやめるが、「お玉」の衣服の仔細さから、何気ない彼女の仕草まで簡潔に描写されていて、その描写は岡田と「お玉」の心理の襞(ひだ)にまで及んでいる。この箇所は、まさに鴎外の簡潔にして完璧な文章の好例だろう。

芥川龍之介の文章の緻密さとは又一味違う緻密さが、鴎外の『雁』のこの箇所に端的に示されている。一味違うとは? 芥川龍之介の文章の緻密さを江戸小物細工に例えると鴎外の緻密さは・・・なんと言ったらいいだろう・・・細工を超えていて、名人が自在に道具を使いこなしている軽快さがある。そこには力(りき)みが一切感じられないのだ。鴎外の特に歴史ものの小説の面白さの一つは、そのような文章の簡潔な自在さにある。

ところで、この『雁』で、もし岡田の投げた石が池の雁に当たらなかったならば、岡田と「お玉」の運命はどうなっていただろうか。もし、という仮定は無情なものだが、鴎外はこの小説の最後でこう書いている。鴎外はそのような仮定は、この『物語の範囲外にある』、『読者は無用な憶測をせぬがよい。』と突き放して、この小説を閉めている。

鴎外は言うまでもなく医者であり科学者であるのだが、私は常々思っているのだが、鴎外のいくつかの小説には、ある種の運命論的な、不可知論な作者の視線があるように私には思える。いわゆる神仏ないし運命と言った人間には手の及ばぬモノへの鴎外の視線を私は感じている。この『雁』という小説も『読者は無用な憶測をせぬがよい。』と鴎外は言ってはいるが、鴎外自身は、岡田と「お玉」の運命の綾を凝視しているように私には思えてならない。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。