釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

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雑談:・アンドレイ・タルコフスキーのこと( or 芸術を理解するとは?)。 その2

2014-03-26 15:08:23 | その他の雑談
(その1の続き)

この日本という国では、上手下手はともかくとして、俳句は小学生でも作るし、また半日がかりの俳句番組がテレビで放送され、全国から何千という俳句が其の番組に投稿されたりする。

俳句というものは、日本人にとっては箸のように日常生活に溶け込んでいる文化の一つだ。

日本という国に生れ、いやがおうでも此の日本という風土に、どっぷりと浸かされて生きている人間にとって、『古池や・・・』 の俳句の理解は既に本能的に感知できるものであり、この感知は、なにものかの匂いの感知と同等な意識下の感覚的なものであり、学んで得られる知識以前のモノだと私は思っている。

だから 『古池や・・・』 の「匂い」は、あきらかに、上記の三行の文とは違う、と私は感じている。

いわゆる学問や知識とは全く無縁な人でも、この日本という風土に密着して生きている人ならば、恐らく其の違いを、本能的な感覚として察知できるのではないかと私は思う。

上記の三行文は 『古池や・・・』 の説明であって、決して其の「匂い」を感じさせるモノではない。私はそう思う。

タルコフスキーほどの芸術家は翻訳というフィルターを通しながらも其の匂いを的確に感知しえたのだろうが、私を含めて一般の人が他の国の文化というものを頭の上の知識ではなく、その匂いまで果たして感知できるか・・・これは不可能に限りなく近いことではないか、と私は思う。

このことは、今度は立場を変えて私がタルコフスキーの映画を観るときについても言える。

もし私がロシアに生まれロシアの風土にどっぷりと浸っていたならば、上記した映画の場面も、かなり違った印象をもつに違いない。

文化というものは、その国の中で汗水たらして浸らなければ理解できないものだとすれば、そして、映画のみならず芸術一般が、その国の文化に深く根ざしているものとするならば、「芸術は世界の誰にでも理解できる普遍的なものである」、と言われがちだが、それも一面真実に違いないだろうが、しかし反面、必ずしもそうではないかも知れない。

例えば、果たして我々はJ.S.バッハやブラームスの音楽を真に理解できるのだろうか? 

『真に』と書いたが此れは案外難問かも知れない。
譜面が読めるとか楽器の演奏が出来るとかとは次元の異なる問題である。

『芸術を理解するとは?』

例えば夕焼けを見て感ずる人間一般の感情は人類共通のモノがあるに違いないとは思うが・・・結局、理解とは結局そういう感情をもつことだが・・・クラシック音楽を聴き、絵画を見たりするとき私は『理解する』ということに或る懐疑をもつことが多い。

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