蓮池薫さんと言えば北朝鮮に拉致されて帰国出来た5人の拉致被害者の1人である。私はネット上で下記のような手記を見つけたので興味深く読んだ。
蓮池薫さんの手記から
大学の仕事が中心 この2,3年大学院に通いながら勉強したり、翻訳したり、ものを書いたりしています。朝型人間なので朝は早い。「拉致と決断」を出版 書き始めたのは2年前から 一度自分の生活とか思いを整理してみたいと思った。 拉致問題に進展がないので、皆さんに忘れ得てほしくないとの思いがあり、生の向こうの生活、想いを伝えるのが一番印象に残るのではないかと思った。各地での講演でも関心はあるが、矢張り向こうでどういう暮らしをしていたとか、どういう事をしたか等で皆さんの反応は全く違った。
35年前 柏崎に帰省して、その時に本学部だったので理想は高くなかったが、サラリーマン、弁護士ではなくても何か独立したいと思った。
拉致の状況 海岸に行ったが、そこに居た人間を拉致しようと思ったのではないか?。 視線の延長線で3,4人が歩いて来るのがいたが気にはかけなかった。煙草の火を貸してくれと言われて、火を付けた瞬間に襲われた。殴られて、目を殴られて視界をふさがれた。 恋人はテープで口をふさがれて暗くなった後に袋に入れられたままゴムボートに乗せられて、漁船程度の大きさの船に乗せられ北朝鮮に連れて行かれた。睡眠剤を飲まされたので一晩か二晩か判らない。船は夜のみ走っていた。(疑われないためか)
訓練所らしき宿舎に10日間居て、目の腫れが治ってから連れて行かれた。その段階では恋人とは別々、「女性は必要がないので返した」と言われた。招待所と言われるところに連れて行かれた。基本は工作員等が勉強、自分を鍛えるために個別教育される所。10軒~15軒が建っていて、一軒一軒は山で離れて見えないような状態で全体が鉄条網で覆われていた。 ずっとそこで暮らした。拉致されるまでの時間は拉致という言葉すら知らない状況だった。
女性を狙ったものと思っていた。人身売買の様なものなのかと最初思った。男は処理されるのではないかと思った時期があった。北朝鮮だと解って何かの間違いではないかと帰してくれと言ったが、聞き入れてはくれなかった。
諦めるまでには2か月かかった。半分パニック状態だった。自殺したいとの思いがあった。何のために連れてこられたのかも解らない。本とか読めば状況も解るのではないかと想い語学をやろうと思った。あまりにも向こうに反発してしまうと命が危ないと思ったので(随時言われた)身を守るため、何とかしたいと思った。 勉強しろと言われた。向こうの思想の問題とか、この国がどんなに素晴らしい国かと言う事を勉強させられた。
何か目的をめざしていた。逃亡した事件があり、監視することは大変なので 逃げづらい所に入れて、結婚させれば、子供も出来るし、逃げられないだろうと、結婚させたのではないかと思う。 結婚したのは拉致されて2年弱、子供も生れた。北朝鮮で絆が出来始める。
家族を守らなければならない。子供もちゃんと生きていけるようにしなければならない想いも有り日本に帰れると言う事を前提にするのか、ここでずーと生きて行かなければいけないのかと、悩んだと言うか、有ったのですが、時間が経てば経つほど帰れないと言う現実に直面する。子供のためにそういう思いを断ち切ろうと思った。新しい絆のもとでこの国で生きていけるようにしようと思った。在日朝鮮人として生活をする。子供達までもそうするかどうか、どうするか考えたが、日本人として育てるのは反日感情があったので同様にした。
逃げようとの踏ん切りはつけられなかった。結婚後1年後ぐらいに海に行くことが出来て、日本に繋がっている海だと思うと何か震えあがる感じがした。2度目は15年後ぐらいに 中国との国境近くに行く事があった。数メートルの川を越えれば中国に行ける状況にはあった。この時にはなんとも落ちつかない想いが有った。
日本からの新聞、雑誌に触れる機会が有った。家族の写真を観ることが出来た。拉致被害者の会を知った。こういう事があるのだと分った。(本来目に触れる事が出来ない記事、 チェック漏れだと思うが)嬉しかったが、ただこんなことで返す国ではないと思った。
話題が広がると却って厳しくなるのではないかと危惧した。より厳しい監視体制になった。
90年代 旧ソ連、東欧 社会主義が崩壊して、体制は維持したが貿易は断ち切られ援助は無くなり外交的にも非常に苦しい追い詰められて行くのを,肌で感じた。90年代後半には水害とかいろいろ重なって、飢饉が起きてしまって、この国はどうなるのだろうと、妻とこそこそ話す様な状況が有った。
日本との関係を改善してそこに活路を見出すと、経済的に日本から賠償金を取って、国を立て直したいと言う思いが有って、恥ではあるのだろうけれど日本が求めている拉致問題に対応しようとトップが思ったのではないかと思う。
ゴムボートで漂流して救出されて北朝鮮に行ったとの事にして、対応の練習を何度となくやらされた。小泉総理の訪朝の前に様子が変わってきて、拉致は認めてもいいとう話になり 最後のぎりぎりになって日本から家族を呼び寄せるのではなく、日本に行って来いという事になった。(嘘をつかなくてもいいと言われた)
子供は残したままであった。子供は連れていけない事は何となく解って、子供は置いてゆけと言われた。強制する様な行って来いと言う事でした。
最初は子供がいるので、兄とも口論になったが、子供の将来を考えた時に、子供は日本人として知られてしまったし、日本は子供達が生きていけると言う感触があったので、子供達を連れてきたらどうなるんだろうと考えたら、プラス思考になった。日本に留まっていいのではないのだろうかと思った。子供達を返してくれるかどうかが問題。北が何故我々を返したか、北朝鮮はここまで得るものを得ていない。当の本人を返しただけでも大きな恥をかいた。次に子供を返すのは恥ではないだろうと、それで目的が達成出来るなら時間の問題だろうと感じた。もういいなりになりたくないとの強い思いがあった。
子供の将来にプラスになると思ったら、良いと思った瞬間にそっちの思いがぐんぐんと出てきた。24年間いいなりになって自由を束縛されてきて、ここでふんぎって賭けに出てすべてを得る方にかけて見ようと思った。そうなるとそっちの方にしか思考が行かない。大丈夫だと言い聞かせて家内に残るぞと言った。(決心がついてから話した)
母親はまず子供の事を考え、最初はたじろいたが、私を信じてくれて、1年半辛い思いがあったが、子供達が帰って来る事が出来た。
子供が帰って来るまでの1年半、辛い決心になるだろうなと思った。これだけ長くなるとは思わなかった。(数カ月と思っていた)決心が間違っていたのかなあと思う時もあったが、頑張ろうとの思いだった。親に言ったが、「何言ってんだ。我々は24年間待ったんだ」と言われた。子供達が戻ってきた時には素直には喜べなかった。(背後には北がいるのではないかと)日本人として自立して行かなければならないしとか、いろいろ考えたが、子供達に会ってしばらくいて感じたのは子供達は我々よりずーっと先に行っていると思った。
自由を求めていると言うのを感じたし、何か日本に来て不安も有るかもしれないが、わくわくするようなものを感じていたと言う。(後で解った事)
日本語も満足に出来ない。「これからは自分に朝鮮語を話さないでくれ」と言われた。 「早く日本語をしゃべりたいから」と言った。嬉しい誤算だった。子供の順応性、吸収力がある。最初、市役所で臨時職員として採用される。
いろいろ踏み台にしていいとの市長の計らいがあった。 他の人にないもので勝負したいと思った。言葉、朝鮮民族の事、知人が翻訳家でいたので 朝鮮語を生かしたいと思った。翻訳の仕事。言葉が解るだけでは駄目。小説を一本書くつもりで訳せと、言葉を移すのではプロの翻訳ではないと。翻訳が一つの作品として新たに生まれ変わったように入って来る日本人の心に染み通る様にと、いろいろアドバイスされた。
推敲は何度でも有れと言われた。一番最初に手掛けたのは「こしょう」 将軍のドラマ 歴史小説 で切れ味最高の文章の小説。韓国でもベストセラーになった。訳すだけで8カ月かかった。新たな道が開けたと思った。20冊を越えた。 文学、演劇は元々好きだった 脚本等も昔手掛けた事も有った。韓国語、朝鮮語を教える講師も受ける。
教科書を20冊ぐらい持ってきて読んだが、殆ど同じだと思って、やってみようと思った。韓国ブームも有って、教える事が面白かった。 興味を持たない人をいかに引き付けるかが、必要だし、面白かった。「半島へ再び」 出版社の方と一緒に行って来た。小気味良い感じがした。自由になったんだという思いがあった。同じ半島なので 北の環境と同じ 土の色、山の状況、木の生え具合 やっぱりちょっとした錯覚に陥ったが 俺は自由だと思った。
中央大学に復学した。子供が帰った次の年から3年かけて終了した。(残りの1年分を)大学は私自身出たいと思っていたと同時に親もそう思っていた。
「悔しい」と言う言葉、私自身にとってみれば24年間、別の経験を積んできたから、自由を選択出来たら、むなしいものがある。子供達も同様、子供の将来にとってみても、 こんな風にいけたのかなと思ったりした。「悔しい」と言う事をばねにした。
新潟大学大学院 現代社会文化研究科 博士過程に行った。 北朝鮮が見る古代史にふに落ちない事が有って それを研究したいと思った事と生徒に教える人間として、それだけの資質を備えていく努力をしなければ、何か同情によって講師になったんじゃないかとか、拉致被害者だからと言う様な風に思われたくなかった。
精一杯なことはしてきたつもりなので後は、提出したので結果待ちの状態です。人間にとって絆と夢は一番大きな要素だと思う。 夢の大きさは関係ないと思う。それぞれ自分がやりたい事を精一杯そこに自分の精力を注ぎこめるものがある。選択の自由は絶対必要なので夢を奪われてしまった事と同じ北に居る間、 小さいながら絆は繋がっていた。形はどうあれ、しがみつくものがあった。 それが24年間それに耐えられた 帰ってきて道が開けた。
拉致の人に対して、身柄だけ戻って来るのではなくて、それ以上に その人の夢を回復させて 絆をすべて向こうの絆はほっぽり出してと言うのではなく、そいう酷なことではない。夢と絆を完全に回復する。拉致問題の個人から見た拉致問題だと思います。
解決の糸口がない状況が続いている。心苦しい。だから早く解決してほしいと思うが、
残された人達を想うのは、私は帰る寸前まで日本に帰れるとは思っていなかった。残された人達には私達が日本に帰った事、自立していることは伝わっているはずです。殆どリアルタイムで伝わっていると思う。
帰れるのではとの思いがあるのではないかと思う。以前我々が帰れないと割りきっていた時とは 全然違う思いなのではないかと思う。帰れるかもしれないと言う思いの中で 一日 10日 1月 1年 2年 5年 10年と 遥かに強い深いものではないかと思う。
一日一日が傷口を触られる様な想いでいらっしゃったと思う。この問題は外交で説くしかないと思う。国際的な孤立は深まった。 経済状況は以前と変わらない。体制を維持するのに、反発、不満を持っている人が増えると言うことは一番大きな脅威になると思って、そのためにも何か手を打たなければならない。でも2002年から現在も変わらないし、その時に日本に目を向けて来ると言うことは変わらない。
表向きミサイル、核実験だと新しい体制にとって先鋭化していると思うが、チャンスはあると思う。体制を守ると言う危機感からやっていると思う。必死な感じが感じられる。米国と対等に持って行こうと思っているようだが、もう一つのアキレス腱は、国民の生活、国民の不満だと思うのです。それを納めるには別の問題で 経済的な対策を取らざるを得ない。日本に向いてくる 日本が一番やりやすい。過去の問題で賠償問題,日本は拉致問題を解決すればある意味、支援を出来るという立場なので 2002年の立場が甦ると言う事があると思う。
政府がいかに見据えてやるかだと思います。拉致問題に関しては、誰を帰し、誰を帰さないと言う事に関しては絶対譲歩してはいけない。そのためには経済問題とか把握してやって行く。拉致しておいて盗人猛々しいと思うが、ギブアンドテークなので解決には時間がかかる。拉致被害者は北朝鮮にはまだ必ずいる(人数はこの場ではいえないが)カードを保持するためにはぞんざいな扱いはしないと思う。北と粘り強く交渉する それを願っている。蓮池薫さんの手記はここまで。
>ギブアップテークなので解決には時間がかかる。・・・・ 蓮池薫さんはそう言うが、この上、10年くらいは待てと言うのか?。10年立つと横田滋さんは91歳、奥さんの咲江さんは87歳だからまだまだお元気だろうが、10年待つのは大変なことだ。小泉訪朝から21年になる。そんなに時間をかけないで阿部さんが訪朝してねばり強く交渉すべきではないのか。何もしないから解決しないのだ。口だけで実行しない阿部が一番悪い。阿部さんは北朝鮮に行って難しい交渉をするより被害者の家族が死ぬのを待った方が楽だと思っているのじゃないか。そう簡単には死なないよ。もっともっと経済制裁を強めて誰も北朝鮮に行かれないようにしなきゃ駄目だな。アントニオ猪木なんかは議員辞職させるべきだよ。拉致問題の解決に何の役にも立っていないじゃないか。日本は拉致問題の解決が何よりも最優先だということを知らない奴は北朝鮮に行くな。
蓮池薫さんの手記から
大学の仕事が中心 この2,3年大学院に通いながら勉強したり、翻訳したり、ものを書いたりしています。朝型人間なので朝は早い。「拉致と決断」を出版 書き始めたのは2年前から 一度自分の生活とか思いを整理してみたいと思った。 拉致問題に進展がないので、皆さんに忘れ得てほしくないとの思いがあり、生の向こうの生活、想いを伝えるのが一番印象に残るのではないかと思った。各地での講演でも関心はあるが、矢張り向こうでどういう暮らしをしていたとか、どういう事をしたか等で皆さんの反応は全く違った。
35年前 柏崎に帰省して、その時に本学部だったので理想は高くなかったが、サラリーマン、弁護士ではなくても何か独立したいと思った。
拉致の状況 海岸に行ったが、そこに居た人間を拉致しようと思ったのではないか?。 視線の延長線で3,4人が歩いて来るのがいたが気にはかけなかった。煙草の火を貸してくれと言われて、火を付けた瞬間に襲われた。殴られて、目を殴られて視界をふさがれた。 恋人はテープで口をふさがれて暗くなった後に袋に入れられたままゴムボートに乗せられて、漁船程度の大きさの船に乗せられ北朝鮮に連れて行かれた。睡眠剤を飲まされたので一晩か二晩か判らない。船は夜のみ走っていた。(疑われないためか)
訓練所らしき宿舎に10日間居て、目の腫れが治ってから連れて行かれた。その段階では恋人とは別々、「女性は必要がないので返した」と言われた。招待所と言われるところに連れて行かれた。基本は工作員等が勉強、自分を鍛えるために個別教育される所。10軒~15軒が建っていて、一軒一軒は山で離れて見えないような状態で全体が鉄条網で覆われていた。 ずっとそこで暮らした。拉致されるまでの時間は拉致という言葉すら知らない状況だった。
女性を狙ったものと思っていた。人身売買の様なものなのかと最初思った。男は処理されるのではないかと思った時期があった。北朝鮮だと解って何かの間違いではないかと帰してくれと言ったが、聞き入れてはくれなかった。
諦めるまでには2か月かかった。半分パニック状態だった。自殺したいとの思いがあった。何のために連れてこられたのかも解らない。本とか読めば状況も解るのではないかと想い語学をやろうと思った。あまりにも向こうに反発してしまうと命が危ないと思ったので(随時言われた)身を守るため、何とかしたいと思った。 勉強しろと言われた。向こうの思想の問題とか、この国がどんなに素晴らしい国かと言う事を勉強させられた。
何か目的をめざしていた。逃亡した事件があり、監視することは大変なので 逃げづらい所に入れて、結婚させれば、子供も出来るし、逃げられないだろうと、結婚させたのではないかと思う。 結婚したのは拉致されて2年弱、子供も生れた。北朝鮮で絆が出来始める。
家族を守らなければならない。子供もちゃんと生きていけるようにしなければならない想いも有り日本に帰れると言う事を前提にするのか、ここでずーと生きて行かなければいけないのかと、悩んだと言うか、有ったのですが、時間が経てば経つほど帰れないと言う現実に直面する。子供のためにそういう思いを断ち切ろうと思った。新しい絆のもとでこの国で生きていけるようにしようと思った。在日朝鮮人として生活をする。子供達までもそうするかどうか、どうするか考えたが、日本人として育てるのは反日感情があったので同様にした。
逃げようとの踏ん切りはつけられなかった。結婚後1年後ぐらいに海に行くことが出来て、日本に繋がっている海だと思うと何か震えあがる感じがした。2度目は15年後ぐらいに 中国との国境近くに行く事があった。数メートルの川を越えれば中国に行ける状況にはあった。この時にはなんとも落ちつかない想いが有った。
日本からの新聞、雑誌に触れる機会が有った。家族の写真を観ることが出来た。拉致被害者の会を知った。こういう事があるのだと分った。(本来目に触れる事が出来ない記事、 チェック漏れだと思うが)嬉しかったが、ただこんなことで返す国ではないと思った。
話題が広がると却って厳しくなるのではないかと危惧した。より厳しい監視体制になった。
90年代 旧ソ連、東欧 社会主義が崩壊して、体制は維持したが貿易は断ち切られ援助は無くなり外交的にも非常に苦しい追い詰められて行くのを,肌で感じた。90年代後半には水害とかいろいろ重なって、飢饉が起きてしまって、この国はどうなるのだろうと、妻とこそこそ話す様な状況が有った。
日本との関係を改善してそこに活路を見出すと、経済的に日本から賠償金を取って、国を立て直したいと言う思いが有って、恥ではあるのだろうけれど日本が求めている拉致問題に対応しようとトップが思ったのではないかと思う。
ゴムボートで漂流して救出されて北朝鮮に行ったとの事にして、対応の練習を何度となくやらされた。小泉総理の訪朝の前に様子が変わってきて、拉致は認めてもいいとう話になり 最後のぎりぎりになって日本から家族を呼び寄せるのではなく、日本に行って来いという事になった。(嘘をつかなくてもいいと言われた)
子供は残したままであった。子供は連れていけない事は何となく解って、子供は置いてゆけと言われた。強制する様な行って来いと言う事でした。
最初は子供がいるので、兄とも口論になったが、子供の将来を考えた時に、子供は日本人として知られてしまったし、日本は子供達が生きていけると言う感触があったので、子供達を連れてきたらどうなるんだろうと考えたら、プラス思考になった。日本に留まっていいのではないのだろうかと思った。子供達を返してくれるかどうかが問題。北が何故我々を返したか、北朝鮮はここまで得るものを得ていない。当の本人を返しただけでも大きな恥をかいた。次に子供を返すのは恥ではないだろうと、それで目的が達成出来るなら時間の問題だろうと感じた。もういいなりになりたくないとの強い思いがあった。
子供の将来にプラスになると思ったら、良いと思った瞬間にそっちの思いがぐんぐんと出てきた。24年間いいなりになって自由を束縛されてきて、ここでふんぎって賭けに出てすべてを得る方にかけて見ようと思った。そうなるとそっちの方にしか思考が行かない。大丈夫だと言い聞かせて家内に残るぞと言った。(決心がついてから話した)
母親はまず子供の事を考え、最初はたじろいたが、私を信じてくれて、1年半辛い思いがあったが、子供達が帰って来る事が出来た。
子供が帰って来るまでの1年半、辛い決心になるだろうなと思った。これだけ長くなるとは思わなかった。(数カ月と思っていた)決心が間違っていたのかなあと思う時もあったが、頑張ろうとの思いだった。親に言ったが、「何言ってんだ。我々は24年間待ったんだ」と言われた。子供達が戻ってきた時には素直には喜べなかった。(背後には北がいるのではないかと)日本人として自立して行かなければならないしとか、いろいろ考えたが、子供達に会ってしばらくいて感じたのは子供達は我々よりずーっと先に行っていると思った。
自由を求めていると言うのを感じたし、何か日本に来て不安も有るかもしれないが、わくわくするようなものを感じていたと言う。(後で解った事)
日本語も満足に出来ない。「これからは自分に朝鮮語を話さないでくれ」と言われた。 「早く日本語をしゃべりたいから」と言った。嬉しい誤算だった。子供の順応性、吸収力がある。最初、市役所で臨時職員として採用される。
いろいろ踏み台にしていいとの市長の計らいがあった。 他の人にないもので勝負したいと思った。言葉、朝鮮民族の事、知人が翻訳家でいたので 朝鮮語を生かしたいと思った。翻訳の仕事。言葉が解るだけでは駄目。小説を一本書くつもりで訳せと、言葉を移すのではプロの翻訳ではないと。翻訳が一つの作品として新たに生まれ変わったように入って来る日本人の心に染み通る様にと、いろいろアドバイスされた。
推敲は何度でも有れと言われた。一番最初に手掛けたのは「こしょう」 将軍のドラマ 歴史小説 で切れ味最高の文章の小説。韓国でもベストセラーになった。訳すだけで8カ月かかった。新たな道が開けたと思った。20冊を越えた。 文学、演劇は元々好きだった 脚本等も昔手掛けた事も有った。韓国語、朝鮮語を教える講師も受ける。
教科書を20冊ぐらい持ってきて読んだが、殆ど同じだと思って、やってみようと思った。韓国ブームも有って、教える事が面白かった。 興味を持たない人をいかに引き付けるかが、必要だし、面白かった。「半島へ再び」 出版社の方と一緒に行って来た。小気味良い感じがした。自由になったんだという思いがあった。同じ半島なので 北の環境と同じ 土の色、山の状況、木の生え具合 やっぱりちょっとした錯覚に陥ったが 俺は自由だと思った。
中央大学に復学した。子供が帰った次の年から3年かけて終了した。(残りの1年分を)大学は私自身出たいと思っていたと同時に親もそう思っていた。
「悔しい」と言う言葉、私自身にとってみれば24年間、別の経験を積んできたから、自由を選択出来たら、むなしいものがある。子供達も同様、子供の将来にとってみても、 こんな風にいけたのかなと思ったりした。「悔しい」と言う事をばねにした。
新潟大学大学院 現代社会文化研究科 博士過程に行った。 北朝鮮が見る古代史にふに落ちない事が有って それを研究したいと思った事と生徒に教える人間として、それだけの資質を備えていく努力をしなければ、何か同情によって講師になったんじゃないかとか、拉致被害者だからと言う様な風に思われたくなかった。
精一杯なことはしてきたつもりなので後は、提出したので結果待ちの状態です。人間にとって絆と夢は一番大きな要素だと思う。 夢の大きさは関係ないと思う。それぞれ自分がやりたい事を精一杯そこに自分の精力を注ぎこめるものがある。選択の自由は絶対必要なので夢を奪われてしまった事と同じ北に居る間、 小さいながら絆は繋がっていた。形はどうあれ、しがみつくものがあった。 それが24年間それに耐えられた 帰ってきて道が開けた。
拉致の人に対して、身柄だけ戻って来るのではなくて、それ以上に その人の夢を回復させて 絆をすべて向こうの絆はほっぽり出してと言うのではなく、そいう酷なことではない。夢と絆を完全に回復する。拉致問題の個人から見た拉致問題だと思います。
解決の糸口がない状況が続いている。心苦しい。だから早く解決してほしいと思うが、
残された人達を想うのは、私は帰る寸前まで日本に帰れるとは思っていなかった。残された人達には私達が日本に帰った事、自立していることは伝わっているはずです。殆どリアルタイムで伝わっていると思う。
帰れるのではとの思いがあるのではないかと思う。以前我々が帰れないと割りきっていた時とは 全然違う思いなのではないかと思う。帰れるかもしれないと言う思いの中で 一日 10日 1月 1年 2年 5年 10年と 遥かに強い深いものではないかと思う。
一日一日が傷口を触られる様な想いでいらっしゃったと思う。この問題は外交で説くしかないと思う。国際的な孤立は深まった。 経済状況は以前と変わらない。体制を維持するのに、反発、不満を持っている人が増えると言うことは一番大きな脅威になると思って、そのためにも何か手を打たなければならない。でも2002年から現在も変わらないし、その時に日本に目を向けて来ると言うことは変わらない。
表向きミサイル、核実験だと新しい体制にとって先鋭化していると思うが、チャンスはあると思う。体制を守ると言う危機感からやっていると思う。必死な感じが感じられる。米国と対等に持って行こうと思っているようだが、もう一つのアキレス腱は、国民の生活、国民の不満だと思うのです。それを納めるには別の問題で 経済的な対策を取らざるを得ない。日本に向いてくる 日本が一番やりやすい。過去の問題で賠償問題,日本は拉致問題を解決すればある意味、支援を出来るという立場なので 2002年の立場が甦ると言う事があると思う。
政府がいかに見据えてやるかだと思います。拉致問題に関しては、誰を帰し、誰を帰さないと言う事に関しては絶対譲歩してはいけない。そのためには経済問題とか把握してやって行く。拉致しておいて盗人猛々しいと思うが、ギブアンドテークなので解決には時間がかかる。拉致被害者は北朝鮮にはまだ必ずいる(人数はこの場ではいえないが)カードを保持するためにはぞんざいな扱いはしないと思う。北と粘り強く交渉する それを願っている。蓮池薫さんの手記はここまで。
>ギブアップテークなので解決には時間がかかる。・・・・ 蓮池薫さんはそう言うが、この上、10年くらいは待てと言うのか?。10年立つと横田滋さんは91歳、奥さんの咲江さんは87歳だからまだまだお元気だろうが、10年待つのは大変なことだ。小泉訪朝から21年になる。そんなに時間をかけないで阿部さんが訪朝してねばり強く交渉すべきではないのか。何もしないから解決しないのだ。口だけで実行しない阿部が一番悪い。阿部さんは北朝鮮に行って難しい交渉をするより被害者の家族が死ぬのを待った方が楽だと思っているのじゃないか。そう簡単には死なないよ。もっともっと経済制裁を強めて誰も北朝鮮に行かれないようにしなきゃ駄目だな。アントニオ猪木なんかは議員辞職させるべきだよ。拉致問題の解決に何の役にも立っていないじゃないか。日本は拉致問題の解決が何よりも最優先だということを知らない奴は北朝鮮に行くな。
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