戦国~安土桃山時代、優れた武将は何人もいた。
だが、次代が続くかは、別の問題だ。
戦国乱世が続くなら、継いだ人間が淘汰に負け、
他の優れた人間にその座を奪われても問題はない。
だが、世襲が基本で、
他に安定した世代継承のシステムを持たない時代、
太平の世を作ろうとしたら、優れた跡継ぎにより、
安定した政権基盤が築かれることが必要だ。
継いだはいいが、諸国を従えることができず、
クーデターを起こされるような心配があってはいけない。
織田信長は、息子の器量に悩んでいた。
家康の長男に切腹を命じた裏の理由の一つが、
その器量への嫉妬だったという説がある。
長男を失っても、家康には秀忠がいた。
彼は比較的、跡継ぎに恵まれる人だったのだ。
***
秀頼が生まれるまで、秀吉の跡継ぎは、
甥の秀次とされていて、一時は太閤も継いでいる。
悪い風評が多い人だけれど、
これは淀・秀頼側によるのではないかと思う。
頭脳明晰で先賢に学ぶ謙虚さがあり、
肝も座って覚えも早い人だったと思う。
彼が継いでいれば、問題はなかっただろう。
秀頼ははるかに器量が劣り、温室育ちで戦の経験もなく、
ひよわな様子をしていた。
淀は、君臨する側がそれにふさわしい器量を身に付けることより、
従う側に対して忠誠という“道徳観”を求めることを、
優先する人だった。
彼らにとって、“臣”とは、
甘やかしながら従ってくれる、
自分より器量の勝った人間でなくてはならなかった。
甘やかされたお姫さまのまま大人になってしまった人間と、
その価値観で育てられた子供だったのである。
***
戦国武将は一般に、なぜか跡継ぎに恵まれないようだ。
明智も、実子より娘婿の秀満を信頼していたのかもしれない。
宗教的に見るなら、人殺しによる業が深すぎるため、
という事になるだろう。
秀忠、そして家光と続いた徳川は、
そうした面から見たら、奇跡のような家だと思うのだ。
だが、次代が続くかは、別の問題だ。
戦国乱世が続くなら、継いだ人間が淘汰に負け、
他の優れた人間にその座を奪われても問題はない。
だが、世襲が基本で、
他に安定した世代継承のシステムを持たない時代、
太平の世を作ろうとしたら、優れた跡継ぎにより、
安定した政権基盤が築かれることが必要だ。
継いだはいいが、諸国を従えることができず、
クーデターを起こされるような心配があってはいけない。
織田信長は、息子の器量に悩んでいた。
家康の長男に切腹を命じた裏の理由の一つが、
その器量への嫉妬だったという説がある。
長男を失っても、家康には秀忠がいた。
彼は比較的、跡継ぎに恵まれる人だったのだ。
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秀頼が生まれるまで、秀吉の跡継ぎは、
甥の秀次とされていて、一時は太閤も継いでいる。
悪い風評が多い人だけれど、
これは淀・秀頼側によるのではないかと思う。
頭脳明晰で先賢に学ぶ謙虚さがあり、
肝も座って覚えも早い人だったと思う。
彼が継いでいれば、問題はなかっただろう。
秀頼ははるかに器量が劣り、温室育ちで戦の経験もなく、
ひよわな様子をしていた。
淀は、君臨する側がそれにふさわしい器量を身に付けることより、
従う側に対して忠誠という“道徳観”を求めることを、
優先する人だった。
彼らにとって、“臣”とは、
甘やかしながら従ってくれる、
自分より器量の勝った人間でなくてはならなかった。
甘やかされたお姫さまのまま大人になってしまった人間と、
その価値観で育てられた子供だったのである。
***
戦国武将は一般に、なぜか跡継ぎに恵まれないようだ。
明智も、実子より娘婿の秀満を信頼していたのかもしれない。
宗教的に見るなら、人殺しによる業が深すぎるため、
という事になるだろう。
秀忠、そして家光と続いた徳川は、
そうした面から見たら、奇跡のような家だと思うのだ。