日本神話にある死後の国を“根の国”と言い、地下にある冥界と理解されることもあります。
本居宜長は、死ねば善人だろうが悪人だろうが、暗く澱んだ「黄泉国」に行き生き続ける、としましたが、この「黄泉国」の発想の元となったものと思います。
こうした“黄泉国”“根の国”自体が、神格を与えられない悪魔だとわたしは思っています。
***
仏教的には、心には
◎欲界心
◎色界心
◎無色界心
◎出世間心
という、大枠で四段階あるとします。
この“欲界心”というのが、おそらく神道の“荒魂”に相当する、肉体から生ずるままの心です。
広い意味での瞑想(おそらく、歩行禅などの単純運動による瞑想や、上座部のヴィパッサナー瞑想のような日常レベルの作業による瞑想を含む)によって、心は、より高度な段階へと成長していくと言います。
色界心に至ると、五感から直接生ずるのではない心が生じます。
無色界心に至ると、生まれてから五感によって育まれた、五感によるデータ形式を持つイメージにも頼らない心が生ずる。
出世間心は、お釈迦様しか体験したことのない心らしいので知りませんが、要するに涅槃。
いかなる存在から派生したいかなる心にも頼らない心。
高次の心は誰にでも附随しているのですが、訓練しなければ認識できるようにはならないのです。
が、それはまぁともかく。
この肉体心、すなわち欲界心・荒魂は、通常は死ぬと分解して残りません。
日本の一般的な民間信仰には、根の国や黄泉国的なものは出てこない。
ただ、死後の霊は他界(山中他界、海上他界、天上他界など)に至り、やがて自我を失って自然と一体になる、と考えます。
それまでは、お盆などの行事などで死者の霊をなぐさめ続けるんですね。
こうしたものが、もっとも原初的な死後の理解だと思います。
チベット仏教でも、肉体心は残しません。
チベットだと、遺体は鳥葬といい、野ざらしにして鳥に食べさせてしまう。
おそらく、残るのはより高度な心です。
川面凡児は和魂、直霊と呼んでいる。
和魂が色界心に相当するのであれば、これは五感から直接生じたのではないイメージの世界。
イメージの世界ですから、イメージによって消化される。
“神”“仏”に任せることで救われたり苦しんだりするのは、おそらくこの次元の心です。
“神”“仏”のイメージは五感に由来して想像されながら、五感からは独立したものと考えられている。
ですから、おそらく色界心。
和魂は死後、より高度な直霊に自らを委ねることで、正しい働きの一部となります。
直霊、おそらく無色界心は、五感に由来しない水の流れのようなものです。
五感という大地の形にとらわれない川の流れ自体のようなもので、自分にも流れてはいますが、自分であるともないとも言えません。
常に流れ込み、また流れ出し、同じ水であることはありませんが、なぜか連続したものとして意識される。
これを自分として意識できる人はかなり少ないと思いますから、普通に生きている時“自分”だと思っているものは生まれ変わらない、と考える方が妥当です。
それはやはり、他界で分解されるか、冥界で神にまかせるのが正しい宗教だと思います。
***
では“悪魔”とは何であるか、というと、おそらく、分解されるのを拒む太古の荒魂だと思います。
“永遠の存在”であることへの執着から、自然法則に従い消えることを拒否している。
荒魂が生き続けるためには、肉体次元のエネルギーが必要です。
ですから、古くは生け贄を求めたり、膨大な生産物・供物を必要とした。
現在では、死者の荒魂を吸収することで自らのエネルギーとしている。
そうしなければ、存在し続けることができない。
欲界心は流れていません。ですから“黄泉国”は澱んでいる。
これに吸収された死者は、おそらく悪魔の一部となり、悪魔に使われながら、新しい荒魂を求めさ迷うようになるのかも…
怖!
***
明治以降の古神道復興の流れの中で、多くの荒魂が黄泉に取られたのでは、と思います。
黄泉に取られた死者は、清々しくなく、澱んでいる。
先祖が澱んでいるので、日本人の多くが自分を汚いように感じ、異常な潔癖症に陥っているのかもしれません。
とにかく、根の国に行かないためには、根の国を信じないこと。
そして、欲界心の性質を持つ宗教に条件付けられないこと。
欲界心の性質についてはアビダンマ参照のこと。
川面凡児は、行法により荒魂をより高度な心に従わせ、統一し、四散させないようにすることを重視しています。
これは、戦前の宗教的な環境において、荒魂を黄泉に取られずに直霊に従わせる力を付けることを重視した結果かもしれません。
川面凡児自身が徳川家康の生まれ変わりで、明治以降は豊臣秀吉や織田信長など、黄泉の住人と共に祀られるようになってしまった。(各地東照宮)
その状態で黄泉に引きずられない為に、誰より、まず、彼自身に必要だったのかも…
わたしは、川面の、荒魂は死後、墓地などで子孫を見守る、という話には賛成しませんが。
行法自体には、見るべきものがあるように思います。
先祖や前世霊を黄泉に取られている人などには、特に。
本居宜長は、死ねば善人だろうが悪人だろうが、暗く澱んだ「黄泉国」に行き生き続ける、としましたが、この「黄泉国」の発想の元となったものと思います。
こうした“黄泉国”“根の国”自体が、神格を与えられない悪魔だとわたしは思っています。
***
仏教的には、心には
◎欲界心
◎色界心
◎無色界心
◎出世間心
という、大枠で四段階あるとします。
この“欲界心”というのが、おそらく神道の“荒魂”に相当する、肉体から生ずるままの心です。
広い意味での瞑想(おそらく、歩行禅などの単純運動による瞑想や、上座部のヴィパッサナー瞑想のような日常レベルの作業による瞑想を含む)によって、心は、より高度な段階へと成長していくと言います。
色界心に至ると、五感から直接生ずるのではない心が生じます。
無色界心に至ると、生まれてから五感によって育まれた、五感によるデータ形式を持つイメージにも頼らない心が生ずる。
出世間心は、お釈迦様しか体験したことのない心らしいので知りませんが、要するに涅槃。
いかなる存在から派生したいかなる心にも頼らない心。
高次の心は誰にでも附随しているのですが、訓練しなければ認識できるようにはならないのです。
が、それはまぁともかく。
この肉体心、すなわち欲界心・荒魂は、通常は死ぬと分解して残りません。
日本の一般的な民間信仰には、根の国や黄泉国的なものは出てこない。
ただ、死後の霊は他界(山中他界、海上他界、天上他界など)に至り、やがて自我を失って自然と一体になる、と考えます。
それまでは、お盆などの行事などで死者の霊をなぐさめ続けるんですね。
こうしたものが、もっとも原初的な死後の理解だと思います。
チベット仏教でも、肉体心は残しません。
チベットだと、遺体は鳥葬といい、野ざらしにして鳥に食べさせてしまう。
おそらく、残るのはより高度な心です。
川面凡児は和魂、直霊と呼んでいる。
和魂が色界心に相当するのであれば、これは五感から直接生じたのではないイメージの世界。
イメージの世界ですから、イメージによって消化される。
“神”“仏”に任せることで救われたり苦しんだりするのは、おそらくこの次元の心です。
“神”“仏”のイメージは五感に由来して想像されながら、五感からは独立したものと考えられている。
ですから、おそらく色界心。
和魂は死後、より高度な直霊に自らを委ねることで、正しい働きの一部となります。
直霊、おそらく無色界心は、五感に由来しない水の流れのようなものです。
五感という大地の形にとらわれない川の流れ自体のようなもので、自分にも流れてはいますが、自分であるともないとも言えません。
常に流れ込み、また流れ出し、同じ水であることはありませんが、なぜか連続したものとして意識される。
これを自分として意識できる人はかなり少ないと思いますから、普通に生きている時“自分”だと思っているものは生まれ変わらない、と考える方が妥当です。
それはやはり、他界で分解されるか、冥界で神にまかせるのが正しい宗教だと思います。
***
では“悪魔”とは何であるか、というと、おそらく、分解されるのを拒む太古の荒魂だと思います。
“永遠の存在”であることへの執着から、自然法則に従い消えることを拒否している。
荒魂が生き続けるためには、肉体次元のエネルギーが必要です。
ですから、古くは生け贄を求めたり、膨大な生産物・供物を必要とした。
現在では、死者の荒魂を吸収することで自らのエネルギーとしている。
そうしなければ、存在し続けることができない。
欲界心は流れていません。ですから“黄泉国”は澱んでいる。
これに吸収された死者は、おそらく悪魔の一部となり、悪魔に使われながら、新しい荒魂を求めさ迷うようになるのかも…
怖!
***
明治以降の古神道復興の流れの中で、多くの荒魂が黄泉に取られたのでは、と思います。
黄泉に取られた死者は、清々しくなく、澱んでいる。
先祖が澱んでいるので、日本人の多くが自分を汚いように感じ、異常な潔癖症に陥っているのかもしれません。
とにかく、根の国に行かないためには、根の国を信じないこと。
そして、欲界心の性質を持つ宗教に条件付けられないこと。
欲界心の性質についてはアビダンマ参照のこと。
川面凡児は、行法により荒魂をより高度な心に従わせ、統一し、四散させないようにすることを重視しています。
これは、戦前の宗教的な環境において、荒魂を黄泉に取られずに直霊に従わせる力を付けることを重視した結果かもしれません。
川面凡児自身が徳川家康の生まれ変わりで、明治以降は豊臣秀吉や織田信長など、黄泉の住人と共に祀られるようになってしまった。(各地東照宮)
その状態で黄泉に引きずられない為に、誰より、まず、彼自身に必要だったのかも…
わたしは、川面の、荒魂は死後、墓地などで子孫を見守る、という話には賛成しませんが。
行法自体には、見るべきものがあるように思います。
先祖や前世霊を黄泉に取られている人などには、特に。