美術の学芸ノート

中村彝、小川芋銭などの美術を中心に近代の日本美術、印象派などの西洋美術。美術の真贋問題。広く呟きやメモなどを記します。

小川芋銭『草汁漫画』「須磨夏暁」と芭蕉の句(続)

2019-07-30 14:37:00 | 小川芋銭
『笈の小文』の須磨の句には「白芥子」との語は出てこない。

「海士の顔先づ見らるるやけしの花」の「けしの花」だけである。そして、この句の前にこのように描写されている。

…山は若葉に黒みかかりて、時鳥鳴き出づべきしののめも、海の方よりしらみそめたるに、上野とおぼしき所は麦の穂浪あからみあひて、漁人の軒近き芥子の花のたえだえに見渡さる。

白くなってきたのは曙の「海の方」だったが、「芥子の花」は、白だったとは書いていない。

この辺の記述が、芋銭の記憶の中にもあったであろう『野ざらし紀行』における芭蕉の有名な別の句、すなわち弟子の杜国に贈った次の句と交錯した可能性がある。

白げしに羽もぐ蝶のかたみ哉

この句と、先の文章が芋銭の記憶で混交して、

  須磨の曙に
白芥子を描きしは
  芭蕉の巧なり

という芋銭の短文になったのではないかと察する。

芭蕉は、門人の杜国を非常に愛しており、尾張で彼に逢い、彼を「白芥子」、自らを「羽もぐ蝶」に喩え、別れに詠んだのが先の「白げしに羽もぐ蝶のかたみ哉」だった。

また、芭蕉は、『笈の小文』によると、鳴門から杜国が罪を得て蟄居していた保美というところまで二十五里も引き返し、伊良古崎では、杜国を鷹に準えたと言われるこんな句も詠んだ。

鷹一つ見付けて嬉しいらこ崎

以前「白芥子」に擬された杜国は、罪を得て弱っていると思われたが逢ってみると意外に元気で、今や、伊良古崎の鷹に喩えて芭蕉は喜んだのだろう。

その後、杜国については『笈の小文』にこうある。

かの伊良古崎にて契り置きし人の伊勢にて出迎ひ、共に旅寝のあはれをも見、かつは我が為に童子となりて、道の便りにもならんと、自ら萬菊丸といふ。まことに童らしき名のさまいと興有り。いでや門出のたはぶれ事せんと、笠のうちに落書す。
乾坤無住同行二人

こうして、芭蕉は杜国と同道して吉野の花を見に行く。

そのほか杜国と芭蕉との関連については、芭蕉が彼を夢にまで見ていることが知られている(「夢に杜国か事をいひ出して、涕泣して覚ム…謂所念夢也」『嵯峨日記』)。

以上の通り、芭蕉にとって、「白芥子」のイメージは、杜国に結びつく特異なモチーフであった。

明らかに『笈の小文』を読んでいた芋銭は、若い頃は画人としてより、むしろ俳人として知られていたほどであり、芭蕉と杜国との関係も当然知っていたろう。

芋銭の俳諧仲間や寄寓先などで話題になりやすい事柄でもあったろうと思われる。

よって『野ざらし紀行』にある「白げしに羽もぐ蝶のかたみ哉」の句も当然芋銭は知っていたと考えてよい。

知っていたからこそ、『笈の小文』の須磨における「軒近き芥子の花」に関連付けられるべき図に添えた短文で、杜国に結びつく「白芥子」のイメージに、脳裏で変換されてしまったのだ。

そしてこの白芥子のイメージに引っ張られて、次に、自決を計った虞美人の鮮血を思わせる芥子の花、虞美人草のイメージを導き、愛と死を連想させる色即是空という言葉を介して、芥子坊主へと結ぶ。それが短文の後半部となる。

精血彩る虞美人草
   色即是空は
芥子坊主なり

こうして見ていくと、「海士の顔先づみらるるやけしの花」という芭蕉の句における「海士」を、芋銭は、この図で「勝手に」、海女もしくは海士の家族の女性に置き換えたと前に述べたが、芋銭は意識的にこの女性を当代の虞美人に見立てて描いたのかもしれない。すると、この『漫画』もいっそう面白く感じられるのではなかろうか。







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