美術の学芸ノート

中村彝、小川芋銭などの美術を中心に近代の日本美術、印象派などの西洋美術。美術の真贋問題。広く呟きやメモなどを記します。

中村彝「泉のほとり」と『古事記』をめぐる関連書簡

2024-07-12 15:43:16 | 中村彝

 中村彝の「泉のほとり 」は、単に「泉」とも画家自身によって(省略的に)呼ばれていた作品で、かつて今村繁三の所蔵であったものだ。今日ではポーラ美術館で見ることができる。

 この作品は、ある期間、根拠なくルノワールの模写作品とされていたこともあったが、大正13年1月8日の今村宛書簡に見られるように「素戔嗚命に題をとって勝手に想像で描いたもの」である。

 しかし素戔嗚命がどこに描かれているか、不明確であり、どのような場面かも今のところよく解らない。神話から題材を採ったのは明らかにルノワール晩年風の裸体群像画を描くための口実であろうが、まったく主題上の典拠がないわけでもないかもしれない。

 この作品は大正9年11月11日の洲崎宛書簡に言及されている15号の「カンバス」に「三人の群像をやり始めました」と記されている作品に当たる。当時病の床から這い出しても彝が描いてみたくて堪らなかった「例の裸体の『コンポジション』」であった。

 同年11月14日の『藝術の無限感』には含まれていない書簡では、雨谷美文が持っている『古事記』について触れている。「多分本居宣長の註解にかかるもので大部のもの三冊一組になっているもの」とある。そして洲崎にこの本を雨谷から買うように勧めている。そしてそのあと、「僕の想像画は餘りうまくいかないので悲観した」と書いている。

 彝がこの『古事記』を読んだとは書いていないが、「僕の想像画」とは、「例の裸体の『コンポジション』」に相違なく、この「コンポジション」とは「構想画」=「想像画」の意味で述べていることは明らかだろう。

 実は11月14日の書簡に関連した雨谷美文が彝に出した葉書(11月9日)が残されており、そこでは彝に洲崎が購入してくれるようにと頼んでいる。(※この葉書は松矢国憲氏が新潟県立近代美術館の紀要論文で紹介しているが、文脈から明らかなように「北府」は「水府」、「帰北」は「帰水」〈何れも水は水戸の意〉、「薬名」は「薬石」と読むべきだろう。)

 さらに11月27日とされる洲崎宛葉書で彝は、彼から返事がなかったためか、再度雨谷の『古事記』について購入を促している。雨谷はこの本を抵当に入れて借金していたので当時現金が必要だったのだろう。(※なお、27日の葉書の末尾の方は、「百日で結果を見られるだらうと思ひました」と書いてあるように読める。)

 しかし、これらの書簡類から彝が「泉のほとり」を描くに当たって、この本を以前に(彼から借りて、もしくは同種のものを)読んでそれを参考にしていたかというようなことは分からない。

 むしろ彝はこの本自体の概要はまだよくは分かっていないというような書き方をしている。

 ただし『古事記』の須佐之男(彝は素戔嗚の表記)に関する内容は一般にも広く知られているところであるから、今のところは、それほど直接的な典拠を示さなくてもよいのかもしれない。しかし、彝が描いた「泉のほとり」が素戔嗚のどのような場面か、それを特定しうるか否かは興味深い問題でもある。

 かつて私は素戔嗚をめぐる三女神について、このブログで書いたことがあるが、それ以上は分からないでいる。

 ここでは「泉のほとり」をまさに彝が描いていたその頃に『古事記』の売買の問題が彼の親しい友人間に出ていたことが確認できたので、ここにそれらに関する書簡を整理したのである。

 

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