美術の学芸ノート

西洋美術、日本美術。特に中村彝、小川芋銭関連。真贋問題。他、呟きとメモ。

中村彝と中原悌二郎 ドストエフスキーの《空想的リアリズム》をめぐって(2)

2024-04-13 01:41:34 | 中村彝

 小林秀雄が依拠しているドストエフスキー全集は、主に米川正夫の訳文に拠るものらしいので、米川氏と交流があった悌二郎が引用した下記①②③の典拠を、最初はそこから探し求めて確認したかったが、まだ見つからない。

 「①余は芸術中に於て極端に写実主義を愛する、いわば空想的にまで進んだ写実主義を愛する。②余にとって、現実よりも更に空想的にして、且つ思い掛け無き何物があり得ようか、加之(しかのみならず)往々にして現実よりも現実らしからざる何物があり得ようか。③多数者が往々空想的及び除外例と呼ぶものは余によっては時々あらゆる真実の本質となる。」(中原悌二郎「空想的に迄で進んだ写実主義」、引用冒頭の数字はこのブログ筆者によるもの。また、中原の原稿では③の部分が改行されているが、ここではブログ形式の都合で続けて表記している。)

 上記の内容は、ドストエフスキー芸術の本質に関わるもので、彼の芸術における《空想的リアリズム》と呼ばれている特徴を示しているものだ。

 これはもちろん全体として一つのまとまりのある文章としても読めるのだが、三つ別々の出典があるものとしても読める。または、③で改行されているところから、二つの典拠があるものとしても読める。

 中原悌二郎が中村彝の「エロシェンコ氏の像」について、ドストエフスキーの言葉を引用しながら語ろうとした未完の原稿では、①に加えて②の文の途中の「あり得ようか」までが続けて引用されていた。

 そして、小林秀雄の『白痴』に関する最初の論考では、ドストエフスキーの同じ言葉を引用しているが、それは①の部分のみであった。

 先のブログ記事で私は③の部分がドストエフスキーの比較的よく知られているある書簡から取られていることを述べた。そして、その書簡には、①と②の部分はないとも書いた。

 それなら①と②の部分はどこから取られたのだろうか。そこで調べてみると、ドストエフスキーの厖大な『作家の日記』の中のある箇所に次のフレーズがあることが分かった。

 「まぎれもない写実主義、いわば幻想的な域にまで達する写実主義」、これである。

 そしてこのフレーズの少し前に「私は美術における写実主義が非常に好きなのだが」というフレーズがあることも分かった。(訳文の引用は、新潮社版の『ドストエフスキー全集』に拠る。)

 だが、果たして、これらは悌二郎が引用した①の部分の典拠なのだろうか。

 因みに、上の訳文での「幻想的」と「空想的」とでは、明暗の違いが著しく、日本語のイメージではかなり異なるが、(英語で言えばおそらくファンタスティックで)、これは文脈によって翻訳者がどの語彙を選ぶかにかかっている。であるから、ここでは取り敢えずは問題なかろう。「美術」と「芸術」の語も同様であるが、先の新潮社版では芸術一般というよりも明らかに美術を指しているので、訳者は「美術」としたのだろう。

 しかし、『作家の日記』のこれらの部分が、悌二郎が引用した①の典拠であると考えるのは、やっと探し出したのだが、かなり躊躇われる。

 なぜなら、「私は美術における写実主義が非常に好きなのだが」から「まぎれもない写実主義、いわば幻想的な域にまで達する写実主義」までの間には多くの文が入っているし、「まぎれもない云々」は、実は括弧内に見出されるフレーズなのである。しかも②の部分へとは繋がっていない。

 それなら、それはひとまず措いておき、先に悌二郎が引用した②の部分はどこにあるのかを探ってみよう。

 すると、これも調べてみると実は、『作家の日記』のそれより以前の個所(1876年3月)にこんな部分があることに気づく。

 「現実は退屈で単調であるといつも人は言う。気晴らしのために人は芸術や空想(ファンタジー)に頼ろうとし、小説を読むのである。私にとっては話は逆だ。ー現実よりもファンタスチックで、意外なものがあり得ようか?時には現実よりもさらにもっと途方もないものがあり得ようか?」(訳文は同上)

 上記の後半部分は確かに②の趣旨とほぼ合致している。ほぼ合致しているが、もちろん同一でなく、しかも①とは繋がっていない。むしろ、『作家の日記』ではこちらが先に出てくるのである。

 それなら、悌二郎は『作家の日記』のそれぞれの部分を自分で自由に繋ぎ合わせて先の小論「空想的に迄で進んだ写実主義」に、①②として、引用したのだろうか。

 だが、悌二郎が厖大な『作家の日記』を読んで、そこから部分と部分を繋ぎ合わせて①と②の文章を作ったとまでは、想像できない。しかし、いずれにせよそれらは、バラバラではあってもドストエフスキーの言葉であるから、その思想は通じてはいよう。が、それらの幾つかの部分をわざわざ繋いで悌二郎の引用部分の直接の典拠とするにはかなりの無理がある。

 やはり、更にドストエフスキーに関する他の文献に当たって探すべきではなかろうか。

 すると、シュテファン・ツヴァイクが、その著でドストエフスキーを引用したこんな文章に出会った。

 「『①私はリアリズムを、空想的なものに達するほどまでに愛している。というのは、②私にとって現実以上に空想的なもの、思いがけないもの、現実以上に非現実なものが、いったいあるだろうか』とドストエフスキー自身が言っている。」(冒頭の数字はブログ筆者のもの。訳文の引用はみすず書房版の『ツヴァイク全集5』に拠る。)

 このツヴァイクの引用における①の訳文の文法構造は、問題の引用における①とは、若干異なって見えるが、意味的には本来、同じものと見てよいであろう。しかもこれは、先の悌二郎の引用部分における②とも完全に繋がっている。

 こうしたことから、悌二郎が引用した部分の少なくとも①と②とはもともと繋がっており、別々のものではなかった、ということが言えると思う。

 悌二郎は、ツヴァイクが引用したのとおそらく同じドストエフスキーの文章、すなわち①と②とが繋がっているドストエフスキーの文章を何かで読んで、かなり気に入り、自分のノートにメモしていたのではなかろうか。

 そして、ストラーホフ宛の書簡から取られた③も、改行して、そのノートに書いたのではなかろうか。

 いずれにせよ、①と②の文とが繋がって書かれているドストエフスキーの文章は、確かに別に存在すると見てよいだろう。

 つまり、先に見た『作家の日記』における諸部分からのものは、悌二郎の引用の直接的な典拠とまでは無理して言う必要はない。(続く)

 

 

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