標記のドガ作品、切り取られた作品として有名だ。日本ではモネやルノワールの作品に比べ、ドガ の作品は比較的少ないので、これは貴重な作品でもある。
画商のA.ヴォラールの『画商の想出』(小山敬三訳、昭和25年刊)を読むと、マネの「マキシミリアン皇帝の銃殺」に関連して、このマネ夫妻像を描いた作品の記述が出てくる。
「マキシミリアン」はいくつかのレプリカのある作品で、その一つは、やはり切り取られた作品となっているからだ。
だが、ヴォラールによれば、ドガ はマネに贈った自身の作品が切り取られたことに怒りはしたが、他の者がマネを批判することは許さなかった、という話に持っていった。こういう文脈で、このマネ夫妻像の作品に言及しているのである。
ドガ はこの作品が切り取られたことに怒り、マネ家から持ち帰った。そして、マネからもらったプラムを描いた静物画をマネに返して、怒りを鎮めたようなのだが、後にドガ は、マネに突き返したその静物画を取り戻したくなった。が、その作品は既に売られてしまっていて、ドガ は後悔したらしい。
ところで、ドガ とバルトロメが写っている写真
がパリの国立図書館にある。1895-97年とされる写真で、ドガ のアパルトマンの壁の様子も写っている。壁には、3点の作品が認められる。
「ハム」の静物画、リトグラフの「プルチネルラ」、そして、今日、北九州市が所蔵する「マネとマネ夫人像」である。いずれも確かにマネの作品である。
壁に掛けらている問題の作品は、額縁に収まっており、縦長の形状である。つまり、この時点では、ドガ は少なくとも画布を継ぎ足したりしてはいない。
しかも、切り取られた後に改めて木枠に張られたためか、額縁の遊びを考慮しても、画面の四辺が隠れてやや小さくなっている。
例えば、マネ夫人の頭髪はごく僅かに見えるだけで、耳の部分はほとんど見えない。スカートの文様もいっそう隠れている。
すなわち、現在、横長の形状で空白の画布を加えたまま北九州市立美術館で展示している画像部分よりもさらにその部分が木枠側に折り込まれたため、マネ夫人の頭部や腕、衣装は、今日見えている部分も見えずに隠れたものとなっているのだ。
だが、そのことによって、今日のような極端な違和感はかえって免れている、と私は思う。
ところで、ヴォラールは先の本で、「結局、正しかったのは彼(=マネ)であったかもしれないよ」とドガ が言ったことを報告している。これは、なかなか意味深長な言葉だ。ドガ は、ここにおいて今やマネの切断を事実として認め、それを活かす縦長の構図にしたのではなかろうか。
だが、絵としては、こうすると、夫妻像と言うよりもマネ単独の肖像画となってしまう。しかもそれは、マネのポーズから、何か戯画的要素を含む肖像画として成立しているように見える。
しかも、切り取られて額装されたこの作品の下には、マネのリトグラフ「プルチネルラ」が掲げられていた。それも、こうしてみるといっそう示唆的ではないか。
もちろん、写真からでも、この作品の右方に人物がいることはわかるのだが、もはやダブル・ポートレートとは成り得ていない。だが、それは他のドガ の作品にも特徴的に見られる極端で大胆な対象の切り取りとして理解できるものである。
ところが、木枠の特に右側面に隠れていたすべての部分、すなわちマネが切り取ったと思われる部分まで現れてしまうと、確かに夫妻像には近づくが、主題がどうしても拡散して、構図があまりに不自然なものとなってしまう。それはジャポニスムなどの影響による芸術的な意図を伴った極端さや大胆さとは違う、単なる画面の物理的な切り取りなのだ。
ドガ は、マネが切り取った作品をさらに自らが納得できるように、木枠側に折り込んで(この際、特に右側折り込み部分が重要だろう)、夫妻像というよりもマネ一人の肖像画として自宅のアパルトマンの壁に長いこと掲げていたのであろう。
その後、さらに、この作品に画布の継ぎ足しがあった。その継ぎ足しは、ドガ自身の復元意図によるものとヴォラールは別に語っているようだが、画家歿後になされた可能性もあるかもしれない。その真相は果たしてどうなのだろう。
いずれにせよ、画布の継ぎ足しにあたって、木枠側に折り込まれていた部分が再び平面に引き伸ばされたのだろう。
そして、継ぎ足された空白の画布の右下にドガ のスタンプ印が押され、横長の額縁が付けられ、マネによる切り裂きという逸話も加わった夫妻像として世に出ることになった。
こうして当時のマネ夫妻に夫婦間の微妙な心理的関係があったことなどが、日本においても、特にこの作品を通して、広く視覚的にも知られるようになった。同時にマネの女性関係や、ドガの肖像画における心理観察の鋭敏さなどがますます多く語られるようになったことも確かだろう。
さて、切り取られた部分を描き直そうとしてドガ自身が画布を継ぎ足したにしても、または歿後にそれが継ぎ足されたにしても、結局、それは継ぎ足されたままに残され、今日に到った。しかし、彼女がピアノを弾いている絵は、他ならないマネによって1868年に描かれている。それがドガの当初の作品より前に描かれたものか、それより後に描かれたものかは、定かでない。
もし、マネの作品がドガの作品よりも後に描かれたものとするなら、マネは切り取ったドガのこの作品から、自分ならこう描くといった創造的刺激を得て、今日オルセー美術館にある作品を生み出したのかもしれない。また、マネの作品のほうが先に描かれていて、ドガがそれを見知っていたとするなら、多少のアイロニーとユーモア、マネに対する敬意と遊び心を付け加えてこの作品を描き、マネに贈ったのかもしれない。だが、生憎それが彼には通じなかった、などと私は想像して楽しむ。
いずれにせよ、切り取られたドガの作品と、オルセー美術館にある同年頃のマネの作品は、互いに関連のある作品と言えるのではなかろうか。
なお、件の写真の中に画布の継ぎ足し画像が認められないことから、もとよりこの作品は切り取られたのではなく、最初から夫人の横顔がやや見える程度の構図で描かれたのだと推定することは、私にはかなり難しい。
しかし、木枠側にさらに折り込まれて縦長の形状となったドガの作品の隣に、マネ自身が描いたピアノを弾くマネ夫人の作品を並べてみたら、大変面白いだろう。ドガのアパルトマンの壁に掛けられたドガの気の毒な作品は、実はそれを待っていたのではなかろうか。
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以上の通り、ドガのこの作品は、画布の継ぎ足しのない状態で一度は額装された。それはパリ国立図書館にある写真から分かる。しかし、その作品の特に右辺側は、かなり折り込まれている。してみると、今日、北九州市立美術館の作品の画像部分の右端部(継ぎ足した画布の左端部ではない)にも画布を留めた釘孔の列が、些細に観察すれば、あるいは認められるかもしれない。若しくは、これを検証するために、放射線や赤外線、または紫外線調査なども有効かもしれない。