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写真はテイラウラコット遺跡(ネパール領側)
( 2500年ほど前に釈迦族のブッダが住んだの居城(カピラヴァストア)は
何処にあったのでしょう。
5世紀に訪れた法顕、7世紀の玄奘は何処を訪れたかは明確ではなく、
ネパール側とインド側の2か所が有力視されていて、両方を訪れました。)
テイラウラコット遺跡(ネパール領側)
城跡は高台にあり大きな樹木が聳え500m四方程の 城壁に囲まれて、 それぞれの城門の跡が見られました。
もしブッダがここに29歳まで住んでおられたら、この南門から使用人のチャンナに命じ 白馬(後にカンタカとと言われた)を夜中に引き出さこれに乗ってせ出家の道に
向かったのでしょう
この塁壁は2世紀頃のクシャーン朝時代のものだそうですが、
その下に BC7~3世紀の土器や テラコッタ、コイン等、
ブッダの時代の物も出ています。
立正大学が長年調査をしていますが決定的な記名遺物は出ていません。
ピプラ―ワ―遺跡(インド領側)
(写真・・皆川名誉教授を中心に このメンバーで参りました。)
インドの「ピプラ―ワ―」には基壇がレンガで築かれた1辺23m、直径35mのの 大スツ―パ(仏塔) と僧院跡が有ります。
1898年ウイリアム・ペッペが此処でこの巨大な仏塔を発見しその中の石棺の中に
水晶で作られた舎利容器が発見され、金箔で包まれた仏舎利が入っていました。 これはカルカッタの博物館にあって、私共は見る事は出来ませんでした。
1972年にインド考古局の調査でペッペの発掘した石棺の下の中心には特別なレンガの 小室が有り、その底には2個のBC4~5世紀と考えられ舎利容器(11~16cm)を発見しました。
その他東側僧院跡には40数個のテラコッタの印象など様々な副葬品がありました。 。
舎利容器の蓋にもブラ―フミ―語で「ゴータマ・ブッダの遺骨並びにその一族の
遺骨の旨」との文字もありました。
読み方についても意見の相違もあるようですが ブッダに関係のあるものとされます。
このように、1970年代の発掘ではさらに古い地層から発見された舎利容器は BC5~4世紀のもの まさにブッダが亡くなった年代と一致するものでした。 (上記写真)
これらを、私共もデリーの博物館で水晶製の物等色々見る事が出来ました。 さらに僧院跡から「カピラヴァストア」(ブッダの居城名)と明記された印章が 発見されています。 インド政府はここをブッダの居城としております。
皆川先生説
ブッダの時代に釈迦族はコーサラ国に従属し朝貢していたそうですが、 後にに滅ぼされてしまいます。
ですから 初めの都がネパール領側のテイラウラコットであり、侵略されて
南のピプラ―ワ―の居城を移したと皆川先生は考えらておられます。 先生はとても優しい方なのでインド側、ネパール側のどちらにも良い案を 考えられておりました。
しかし初めの居城から30km程しか離れていないところに城を移すのは
古代においても近すぎはしませんでしょうか?
ブッダが29歳でカピラヴァストア城を出て、初めて出かけたマガタ国の都は 行程では600kも離れていました。
それから考えても 侵略者に対して、30k程離して又居城を作るのは近すぎ
るように、素人の感じで思われました。
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