"ちょっと外から見た日本"

今、スペインに住んでいます。
大好きな日本のこと、
外からの視点で触れて見たいと思います。

“逝きし世の面影” 渡辺京二著

2011-04-22 17:17:17 | 日記
丹波-浪速道さんからご紹介頂いた本です。

そこには、江戸時代に日本を訪れた外国人の方々が見た当時の日本人の姿が生き生きと描かれています。


実に600ページに及ぶ力作、全十四章の中で、私はまだその一章しか読んでいません。

どこから読み始めようかなと思って目次を眺めて決めたのです。

そのタイトルは、“裸体と性(第八章)”。(笑)


そこには、その当時、混浴が当たり前であった浴場のこと、そして、庭の行水の様子が出て来ます。

多くの外国人は、その様子に大きな違和感を覚えます。

あれだけ礼儀正しく、品行方正な日本人が、老若何女、同じ浴場に入っているのを見ると、日本は、やはり未開の地だと。

曰く、“「私は、何事にも間違いのない国民が、どうしてこのように品の悪いことをするのか、判断に苦しんでいる」”と。


一方で、少し異なる意見もあります。

日本人のその姿は全く自然であり、かえってそれを奇異に見る自分たちの方がおかしいのかも知れないと。

曰く、“「私ははっきりと言う。羞恥心は一つの悪習である、と。日本人はそれを持っていなかった。私たちがそれを彼らに与えるのだ」”と。


不思議なのは、その姿でいる女性の方にも全く羞恥心がなく、自然であったということです。

混浴場、そして道から見える庭先で女性が一糸纏わぬ姿で行水する姿、それは好奇の対象にならなかったのでしょうか。

実際そうではなかったようですし、庭先から、覗いたりすることもなかったようなのです。

でなければ、女性もこんなにおおらかではいられなかったでしょう。


しかし、思春期の男性はどうだったのか?

世の中年男性たちはどうだったのか?(笑)

“ある村で人力車の上から、「一軒の家の前のほとんど往来ともいうべき所で、一人の婦人が例の深い風呂桶で入浴している」のを見かけた。

「彼女は身体を洗うことを中止せず、平気で我々一行を眺めやった。人力車夫たちは顔を向けもしなかった」”

どうも、今の価値観で物事を考えてしまう私の方が、おかしいようです。

“混浴は「ヨーロッパ人にはショッキングなものに思われるが、日本人の謙虚さと礼儀正しさとは完全に両立する」”のです。


それで思い当たることがあります。

度重なるスサノオさんの狼藉に失望したアマテラスさんが、閉じこもってしまった天の岩戸。

アマテラスさんを外に出すために、アメノウズメさんが、自然の姿に限りなく近い状態で、踊ります。

そして、アマテラスさんが、それを見ようとしたところで、そこから引っ張りだされ、明るい世の中が復活します。


アメノウズメさんが踊った時、“八百万の神々が、一同どっと笑った”、と神話には書かれています。

私は、“八百万の神々が、どっと笑った”という表現がとても好きなのです。

その屈託のなさ、ユーモアの感覚。


この一件から、アメノウズメさんの踊りは、日本初(世界初?)のストリップショーであったとか、アマテラスが男神であったことの有力な証拠だとか、言われます。

男じゃなければ、踊り見たさに身を乗り出すことはしないだろうと。(笑)


しかし、それは、やはり、現在の尺度でものを見てしまうという、かなり一面的な見方なのかも知れません。

そもそも、現在の尺度で考えてしまうと、この場面で、八百万の神々がどっと笑う、という表現自体も理解出来ないのでしょう。

アマテラスさんが、仮に男神だったとしても、やはり屈託のない興味からだったような気がします。


こうした、性への屈託のなさ、おおらかさが、実は、少なくとも江戸時代まで続いていたということ、とても面白く感じました。


当時、男性は、酒が進むとすぐその話になった、その手の話が唯一の話題であった(笑)と、困惑する外国人の感想もあります。

そして、その様子は今でも変わっていないような気がします。(笑)

ただ、その心情は、今とはかなり異なっていたのかも知れません。

ひたすら自然なことだったのでしょう。

その当時、女性も人前で春画を見ていたそうです。

思えば、とてもいい時代だったのでしょう。


アダムとイブの楽園、日本にはついこの間まで存在していたのでしょう。

そこに羞恥心、知恵の実を与えたのは、西洋人だったのか、本当の蛇族だったのか。(笑)


今、再び起きつつある(と私が勝手に思っている)、岩戸開き。

古くて新しい光が、ここにも差し込んでくるのか。

これからの変化に、興味は尽きないのです。

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