大問題になっているサブプライム・ローンの当事者達に会いにカリフォルニア、サクラメントに飛ぶ。
支局に向かう夜明け前の地下鉄で、目をつぶってコーヒーを持っている中国人のおっちゃんのズボンの穴に感動したあと、六時間のフライトで、大江健三郎の“燃え上がる緑の木”第二巻を読み終える。
古本屋(ニューヨークにもBook Offがある)にたまたま第二巻しか無かったので、そこから読み始めてしまった。
大江氏の“カラマーゾフの兄弟”。
しかし、やはりこれは民衆の本ではないように思える。インテリのそれであり、クラスの本だ。
たとえばウッディ・アレンの多くの映画がブルジョアのそれである様に、やはり人は自分の属する世界の言葉でしか話せないものなのか。
彼の映画が大好きながら、彼自身のドキュメンタリーで、ヨーロッパの目もくらむような豪華ホテルでローブをまとう姿を見て、勝手に淋しい思いをしたのを思い出した。やっぱり違うんだと・・。
ならば超庶民、農民出身の僕にはそれなりの特化した言語があるだろうか?しかしいつもこれを書きながら、自分のボキャブラリーの貧困さ、表現幅の狭さを思い知る。若い頃の基本的な表現の訓練、要するに勉強が足りなかったのは明らか・・。平易で、かつ豊かな表現はあるのか。
なんて言いながらやっぱり“燃え上がる”の残り二冊も買い足したけど。