「原発立地自治体に育った者 vs 原発利権派」
最近だと『ドリフターズ』1巻の信長さまの言葉を想起するところだなあ。ご飯が食べられなくても,誇りがあれば生きていける。誇りがあれば,ご飯がなくてもなんとか耐えられる。でも,ッご飯も誇りもなくなれば,なんとでもされちゃう。
この場合,「誇り」相当物は「郷土愛」とかなんだろうな。
確かに,その場にいてコメ作って食うという,アタリマエの生活の実態は奪われてしまった。しかし,郷土,家郷に対する愛着は未だある。
で,一応少なくとも制度や計画の上では,避難民は死なない程度には食っていけるわけで。また,普通一般に「メシ」と「誇り」とが備わっているわけで。信長さま理論だと,福島民は”どうでもよく”なんかなりようもない。
ところが反原発(のある種の人々)はそれを信じない/認識さえできない。
なぜかというに,彼らの前提は
1. 避難民は移転先で大変な労苦を背負わされている(まあそりゃあそうだ)
2. フクシマは既に失われた
である(模様だ)からだ。
『ドリフターズ』の信長さまはエルフの村の麦畑を焼いたが,反原発(のある種の人々)はその手間さえかけない。なぜなら彼らにとってフクシマは失われ終わったからだ。
そんなわけで,反原発(のある種の人々)はアリガタイオコトバを述べるだけなのだ。それでフクシマ民は自分たちについてくるはずだと信じている(らしい)のだ。被災地住民は『真実』を教えさえすればすぐさま自分たちの方に馳せ参じると信じている(らしい)のだ。
つまりこれ,被災地側からみると,コスト(ほぼ)ゼロで自分たちの人生やら誇りやらなにやら,一切合財買いたたかれてるわけで。
つまり,真正面から,『お前ら,安いだろ?』と言われているに等しいので。
安いからこそ,福島民なり,被災地民の(多数の)支持を獲得するに相応しいコストを払わないわけで(首おいてけは自分の命を晒して『俺たちと一緒に戦ってくれる奴』という信頼を勝ち取ったわけである)。
ところが彼らは,こういう共闘をしないのである。
福島産品については,おそらく,既に死に終った土地の近くの,近く死に絶える土地を無理に延命させようとする旧勢力の浅慮がどうこうとか理由を付けて,「一緒に食う」ことさえしないだろう。
むしろそのあるべき死を早めるためということで―例の信長さまが麦畑を焼いたように―福島産品を廃絶しようとするだろう。そして宣言するだろう,ニーチェばりに。その宣言についてこれない者は愚者であるとも言うだろう。
…まあ彼らはニーチェではないし,およそ二回目は喜劇に陥るだろうなあとも思われるわけだが。
で,現実として,福島は死んでない。
山菜・イノシシを食べてたじいちゃんレベルで,漸く規制値を超える程度。並みの平地で慎重に作れば,野菜・果物は水準に至る。
こうなると,ご飯も誇りも確保されてるわけで,完全に今まで通りとはいかないまでも,今までの延長線上でやれるわけ。
そこに,自分たちの生活も人生も歴史も故郷もそこに住むという事実も決断も何もかも,一切合財丸ごとdisる人が来て,びたいちもんださず,しかし『我々に従わぬお前は愚者だ。そこで愚劣の報いとして勝手に滅べ』とか捨て台詞をなんかどこかもわからん遠くでいいたれてるわけで。
口うるさい行政の指導をどうにかやりくりし,検査をクリアしたものを市場に出せば『それは毒だ。検査? それは嘘だ,間違いない。なぜならそれは国がやったものだからだ。その野菜は廃棄しろ。それでカネをとろうというのは人類のDNAに対する犯罪だ』とかいいたれてくださるわけで。
…どう支持できるというのか。
……「危険なフクシマから脱出するという英断を下した」人とか,「危険な農地を放棄した」人とかを,きっちり客寄せパンダとして養いきるとか,コロニーを用意してくれるとかあれば,まだ「そっち」側につくひとが増えたと思うんですけどねー…。
たぶん,無理。
その種の人々で,本気で関わっている人で,千万単位~億単位のお金を運用するのに手慣れた人はどれだけいるのか。
一千万あったら,いろいろこみこみで人間一人(~一家族)を一年,養えるかな。
ここで『400万あったら一家が食えるぞ!』と言っちゃうような人が中核にいたらダメじゃないかな。家だのなんだの,諸事務費用だの,仕事場所のコストだの,インフラ等々コミでのお話。なお私もそれまでのランクではないので,この辺の数字はかなり適当。しかし,当座で1億をすぐに動かせるようでないと,この種のプロジェクトは動かないだろう。
そういう認識がない,お金を運用できない,お金を調達できない―まあひとを動かせませんよね,それでは。お金が動かないんじゃあ,ひとも動きませんわね。
―私が色々動けるのは,お給料がさしあたり保障されているからですし。
なので,アレらは,”都会の小金持ちのお遊び”と呼ばれて終わるレベルを,そうは超えない。
「原発がなくても、今までかそれ以上に立地がやってけるモデル」というが,彼らはその立地は既に死んで今後数世紀にわたって居住不可能と判定するはずであって。
だからこそ,彼らの判断では強制移住させられる万人単位の人々に住居,仕事,コミュニティ…一切合財を提供するような枠組みの提供が求められる(が,彼らにはできていない)。
少なくとも,モデルケースの提示くらいは求められる。
そのモデルケースとなると,これ,予算的には文科省的な案件ではなく,経産省的な案件なわけで。
で,反原発運動にコミットしている「頭のいいひと」~典型的には学者のうち,どのくらいが経産省的プロジェクトを獲得する・仕切ることができるのだと?
そうした「利権」を,実際とりまわす人は,さてどれくらい活躍できるだろう。そんな「利権」をとりまわすことを,運動の支持者のどれほどが許容するだろう?
よし,利権がいやだというなら,誰が寄付を出すのだ?
大企業の有力者も,運動の名簿に名前を連ねているかもしれない。彼らはどれだけお金を出した?
そんなこんなで,彼らは自分の意見を表出する(言論の)自由を満喫するが,しかし(福島はじめ被災民・避難民をふくめた人民の,実質的な)平等にはさほど意がない,実権もない。
―そーなると,彼らではどうしようもない。我々は着実堅実に生活していくよりほかはない。彼らは仕方ない。数十年前の「彼ら」と同じような過ちを繰り返すだろう。もはや何度も繰り返されて,喜劇にさえならないレベルの気もするけど。
なお私はそちらさんの運動に関わらない模様。むしろ地位(というか,業績か)と能力とコネとを使い,国富をつかって第三世界援助的方向に動く。我々のプロジェクトは,彼らの誇りを補強し,食卓のおかずを何回か増やし,ちょっとしたお土産等で楽しませることができる。あと我々も潤う(研究は進むし,昇進昇給も早まるものと思われる)。
まー,今後を見据えた先行投資の対象そのものなので,関係者の皆様の期待にそむかぬよう心がける次第。というか,学術プロジェクトなので。これ自体か,周辺のアレコレをカネにするよう考えるのは,学者以外の誰かだ,きっと。
本気で原発を無くしたいなら、原電立地体を経済的に支援するのが最も近道だと思うんだが。「原発ムラだ!悪者だ!痛めつけろ!」的な反応が出るのは、「子供達のために原発を無くしたい」のではなく「子供達のためという大義名分で悪者を吊し上げ正義の味方を気取りたい」のが本音だからじゃないのか。
― きむあき@なにわ (@soulgrow24) October 2, 2013
もちろん両方。だがその何百倍も肝心なのは、原発立地地域に銭を落とす方法を、遂に、レベル7事故が起こっても遂に反原発の連中が提示出来なかった事 QT @soulgrow24: "俺ら"派の皆さんが彼らのそういった性質を上手く「利用」(...)
― ナナシ=ロボ(福島市) (@robo7c7c) October 3, 2013
最近だと『ドリフターズ』1巻の信長さまの言葉を想起するところだなあ。ご飯が食べられなくても,誇りがあれば生きていける。誇りがあれば,ご飯がなくてもなんとか耐えられる。でも,ッご飯も誇りもなくなれば,なんとでもされちゃう。
この場合,「誇り」相当物は「郷土愛」とかなんだろうな。
確かに,その場にいてコメ作って食うという,アタリマエの生活の実態は奪われてしまった。しかし,郷土,家郷に対する愛着は未だある。
で,一応少なくとも制度や計画の上では,避難民は死なない程度には食っていけるわけで。また,普通一般に「メシ」と「誇り」とが備わっているわけで。信長さま理論だと,福島民は”どうでもよく”なんかなりようもない。
ところが反原発(のある種の人々)はそれを信じない/認識さえできない。
なぜかというに,彼らの前提は
1. 避難民は移転先で大変な労苦を背負わされている(まあそりゃあそうだ)
2. フクシマは既に失われた
である(模様だ)からだ。
『ドリフターズ』の信長さまはエルフの村の麦畑を焼いたが,反原発(のある種の人々)はその手間さえかけない。なぜなら彼らにとってフクシマは失われ終わったからだ。
そんなわけで,反原発(のある種の人々)はアリガタイオコトバを述べるだけなのだ。それでフクシマ民は自分たちについてくるはずだと信じている(らしい)のだ。被災地住民は『真実』を教えさえすればすぐさま自分たちの方に馳せ参じると信じている(らしい)のだ。
つまりこれ,被災地側からみると,コスト(ほぼ)ゼロで自分たちの人生やら誇りやらなにやら,一切合財買いたたかれてるわけで。
つまり,真正面から,『お前ら,安いだろ?』と言われているに等しいので。
安いからこそ,福島民なり,被災地民の(多数の)支持を獲得するに相応しいコストを払わないわけで(首おいてけは自分の命を晒して『俺たちと一緒に戦ってくれる奴』という信頼を勝ち取ったわけである)。
ところが彼らは,こういう共闘をしないのである。
福島産品については,おそらく,既に死に終った土地の近くの,近く死に絶える土地を無理に延命させようとする旧勢力の浅慮がどうこうとか理由を付けて,「一緒に食う」ことさえしないだろう。
むしろそのあるべき死を早めるためということで―例の信長さまが麦畑を焼いたように―福島産品を廃絶しようとするだろう。そして宣言するだろう,ニーチェばりに。その宣言についてこれない者は愚者であるとも言うだろう。
…まあ彼らはニーチェではないし,およそ二回目は喜劇に陥るだろうなあとも思われるわけだが。
で,現実として,福島は死んでない。
山菜・イノシシを食べてたじいちゃんレベルで,漸く規制値を超える程度。並みの平地で慎重に作れば,野菜・果物は水準に至る。
こうなると,ご飯も誇りも確保されてるわけで,完全に今まで通りとはいかないまでも,今までの延長線上でやれるわけ。
そこに,自分たちの生活も人生も歴史も故郷もそこに住むという事実も決断も何もかも,一切合財丸ごとdisる人が来て,びたいちもんださず,しかし『我々に従わぬお前は愚者だ。そこで愚劣の報いとして勝手に滅べ』とか捨て台詞をなんかどこかもわからん遠くでいいたれてるわけで。
口うるさい行政の指導をどうにかやりくりし,検査をクリアしたものを市場に出せば『それは毒だ。検査? それは嘘だ,間違いない。なぜならそれは国がやったものだからだ。その野菜は廃棄しろ。それでカネをとろうというのは人類のDNAに対する犯罪だ』とかいいたれてくださるわけで。
…どう支持できるというのか。
……「危険なフクシマから脱出するという英断を下した」人とか,「危険な農地を放棄した」人とかを,きっちり客寄せパンダとして養いきるとか,コロニーを用意してくれるとかあれば,まだ「そっち」側につくひとが増えたと思うんですけどねー…。
で、実際に反原発運動みたいのが盛り上がって来たらん?と思うことはあっても多少は我慢してたんですよ。こんだけ盛り上がってるからそれなりに人数おるんやろうし、俺より頭良い人が割といるみたいやから、原発がなくても、今までかそれ以上に立地がやってけるモデルを提示してくれるやろ、と
― Dombury Sofan (@DomSofan) October 3, 2013
たぶん,無理。
その種の人々で,本気で関わっている人で,千万単位~億単位のお金を運用するのに手慣れた人はどれだけいるのか。
一千万あったら,いろいろこみこみで人間一人(~一家族)を一年,養えるかな。
ここで『400万あったら一家が食えるぞ!』と言っちゃうような人が中核にいたらダメじゃないかな。家だのなんだの,諸事務費用だの,仕事場所のコストだの,インフラ等々コミでのお話。なお私もそれまでのランクではないので,この辺の数字はかなり適当。しかし,当座で1億をすぐに動かせるようでないと,この種のプロジェクトは動かないだろう。
そういう認識がない,お金を運用できない,お金を調達できない―まあひとを動かせませんよね,それでは。お金が動かないんじゃあ,ひとも動きませんわね。
―私が色々動けるのは,お給料がさしあたり保障されているからですし。
なので,アレらは,”都会の小金持ちのお遊び”と呼ばれて終わるレベルを,そうは超えない。
「原発がなくても、今までかそれ以上に立地がやってけるモデル」というが,彼らはその立地は既に死んで今後数世紀にわたって居住不可能と判定するはずであって。
だからこそ,彼らの判断では強制移住させられる万人単位の人々に住居,仕事,コミュニティ…一切合財を提供するような枠組みの提供が求められる(が,彼らにはできていない)。
少なくとも,モデルケースの提示くらいは求められる。
そのモデルケースとなると,これ,予算的には文科省的な案件ではなく,経産省的な案件なわけで。
で,反原発運動にコミットしている「頭のいいひと」~典型的には学者のうち,どのくらいが経産省的プロジェクトを獲得する・仕切ることができるのだと?
そうした「利権」を,実際とりまわす人は,さてどれくらい活躍できるだろう。そんな「利権」をとりまわすことを,運動の支持者のどれほどが許容するだろう?
よし,利権がいやだというなら,誰が寄付を出すのだ?
大企業の有力者も,運動の名簿に名前を連ねているかもしれない。彼らはどれだけお金を出した?
そんなこんなで,彼らは自分の意見を表出する(言論の)自由を満喫するが,しかし(福島はじめ被災民・避難民をふくめた人民の,実質的な)平等にはさほど意がない,実権もない。
―そーなると,彼らではどうしようもない。我々は着実堅実に生活していくよりほかはない。彼らは仕方ない。数十年前の「彼ら」と同じような過ちを繰り返すだろう。もはや何度も繰り返されて,喜劇にさえならないレベルの気もするけど。
なお私はそちらさんの運動に関わらない模様。むしろ地位(というか,業績か)と能力とコネとを使い,国富をつかって第三世界援助的方向に動く。我々のプロジェクトは,彼らの誇りを補強し,食卓のおかずを何回か増やし,ちょっとしたお土産等で楽しませることができる。あと我々も潤う(研究は進むし,昇進昇給も早まるものと思われる)。
まー,今後を見据えた先行投資の対象そのものなので,関係者の皆様の期待にそむかぬよう心がける次第。というか,学術プロジェクトなので。これ自体か,周辺のアレコレをカネにするよう考えるのは,学者以外の誰かだ,きっと。
ところで、teiresiasさんのいうこういう構図は韓国に謝罪する人に感じるものに通じる気がします。謝罪とは、「(韓国人の守りたいものを韓国人が守れない事は日本人には分かっていた。しかし日本人もそれを守らなかった。だから)ごめんなさい」と言っているように聞こえ、本当の意味で韓国人を侮辱していると感じます。
もう講義はおわったのかもしれませんが、それでは。
学部生向け講義(ですよね?)を,このくらいの内容が定着するくらいに,またポイントを押さえてできるのは,優秀な人なんじゃないかなーと。
>こういう構図は...
どのあたりがはまるのか,ちょっとすぐには分らないですね。
もちろん,こんな”ちょっと思いました”くらいのメモを本格的に使う事なんかありませんので,あとで時間をとって分析考察する時に気付くかもしれません。
…いつの段階の何を指しているのかも不明ですし,「韓国人」概念の形成がいつからか・どのレベルでか・どのレベルで問題にするのか,とか。
しかし,それらの品々の流出時期に”大事にしたい!”という感覚がどれほどあったか。また,流出したがゆえに惨禍から救われたというのは,それなりに事実ではある。
この点,「ごめんなさい」の対象ではあまりない。
文句があるならギメにも言って来いとか。
定番ネタですが,つ インド考古学調査局
インド共和国独立は1947年,考古学調査局長は1948年まで Sir Mortimer Wheelerだとか,なんとか,まあいろいろ。