翁長知事の思い出。那覇市長時代、冬恒例の青森の雪を使った雪遊びイベントが、東日本大震災後に「放射能怖い」の声で中止になりそうになった時、イベント再開へ舵を切ったのが、当時の翁長市長。デマ払拭の一助となるあの姿勢はかっこよかった。
— まさや@北緯24度付近の島々 (@Masaya_ok_jp) 2018年8月8日
理性的な人だったのだなあと改めて。
沖縄県翁長知事が急逝されました。防衛大臣として訪問したとき、法政大学時代、東京に行くのにパスポートが必要で悔しい思いをしたこと、また戦後レジームからの脱却をいうのなら、なぜ自主防衛して米軍基地をなくさないのかと言われ、翁長知事の保守の一面にふれました。心よりご冥福をお祈りします。
— 稲田朋美 (@dento_to_souzo) 2018年8月9日
そこは「骨太のお考え」「その思想のルーツ」「切実な問い」とか穏当な・中立的な言葉になさいな。
彼は日本的な”革新”で知られた人なのだから、これにわざわざ保守という属性をつけるのは、保守派として知られる稲田氏の我田引水、死者を(さっそく)自分の利益のために利用するもの、と批判があろう。
発言・行動に事後的につけられる評価としての「革新」「保守」を、あたかも本来的な属性として語るかのような、そういうのはちっと見識が足りないような。なにしろコレ、相当相対的な・相補的な概念だものねえ。
日本的に所謂”保守”の立場から重要な価値と思うが、「愛国」でくくれる問題だろうから、それでいけばよかったのではないか。
日本人であるという自己意識があってこそ、またそれに愛着を持っていてこそ、「日本」に行くのにパスポートが必要という現実に悔しく思うものだろう。
そうした状況を肌身で知ればこそ、米軍基地のプレゼンスの大きさに批判的になる―ここに「自主」「独立」という語の欺瞞性を見るというのも国家なり民族なりへの愛着をもてばこそ、と。
そうすれば、「愛国」―これにかけては右派左派の対立がおきにくい―の概念で片がつく。
そうして、相互に理解できる・共感できる概念でくくって、「私はそこにいます」としておく。そうして
同じ日に、保守で知られた津川雅彦氏の死に対し、同じく尊厳を踏みにじる反応もあったんですよ。
— にこ( ´ω` ) (@ikuyuk) 2018年8月8日
今生じてるのは、ネットや国会という特定の場所にではなく、また特定の思想を持つ人だけでなく、「一方の不正義は目につくが他方のそれは見えない」人達が鏡像の様に罵り合っている状況です。 https://t.co/zENvBzNXvF
日付変更線を間において罵り合っているようなひとたちをよそにしておくのが、まあ、多数の投票・支持を得なければ生存できないひとの採るべき道のような。
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