コンテンツに対する「愛」の有る無しなんぞは正直どうでもいいんだけれど、コンテンツをやる上で最低限必要であろう勉強や訓練を怠らない・厭わないための「興味」は絶対欠かせない、とは思う。「興味」に基づかない勉強や訓練は身につかないし、そこで生み出される創作も良いものにはならない
— 酔鏡仙 (@suikyosen) 2018年9月15日
0年代以降の大河の課題って脚本家が長編歴史ドラマを書く上でのノウハウを会得出来ないというところではないかと。上手くいってなかった大河って大体歴史イベントの処理だけでいっぱいいっぱいで思想をドラマに投影出来てない(そもそも思想が薄っぺらい)
— 侘助 (@minoruno) 2018年9月15日
愛とか熱意とかより単純なテクニック不足
とまあ、研究に際しても同じよね、という。
出てきたデータをきちんと整理するのだ―という風に指導する場合、その「きちんと」の基準が、思想がなければ、単なる羅列に終わる。
これは研究に限らないけど、その筋の人の仕事には、個別に取り出せば「そんくらい誰でもできるわ」という作業を、想像を超えるような密度でやることで成り立ってるという側面がある。
— 縮限 (@contractio) 2018年9月15日
「想像を超える密度でやっている」というところまでは想像だけで容易に到達できるはずなのに、そこまで到達できないのがダメな素人。
— 縮限 (@contractio) 2018年9月15日
たとえば歴史学者の重要な仕事に校訂があるけど、そこでやってる作業の一つ一つは、たとえば普通の「校正」と同じ。だけど要求される密度が違う。
— 縮限 (@contractio) 2018年9月15日
一般人が「まさかそこまでしないだろう」というレベルの密度で作業をしているから、彼らはプロなんである。
そういうところが分からん水準の人たちが「自分は学者である」という自意識をふりかざして先生してたりしますからねー…。
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