かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

オソマツ君の慙愧の念

2015-01-13 | 気ままなる日々の記録

1月11日の読売新聞の「編集手帳」に次のような文章があった。

「……何事に寄らず「すごい」と「ヤバイ」などで済まそうとする風潮が若者世代にみられる。恩師から「字引」はまず「序文」と「凡例」を読め、と教えられた。辞書の内容は様々だが序文には大抵迫力がある。長年の苦労に加えて先達の業績も背負って筆を執っているからであろう。敬愛すべき序文たちの居場所は紙の辞典にしかないと思い込んでいたら、どうやらそうでもないらしい。……」

 私はここで、視線を外してわが身を振り返った。恩師からこんな言葉をお聞きした記憶が全くない。思い出されるのはもっと酷い記憶ばかりである。オソマツ君は昭和24年に新制中学校に入学し、初めて英語と云う教科を習った。しかし、オソマツ君が入学した田舎の中学校には英語の先生が一人も居なかった。戦争中,軍の命令で英語教育が日本の学校から消されていたためである。曰く「敵性言語の教育は不要!」そこでオソマツ君の中学校には県内の国立大学の学生がアルバイトとして英語を教えにきておられた。

 この学生先生は、今では見なくなった角帽をかむって萌歯の下駄をはいてギシギシいうおんぼろ自転車にのって駅から中学校へ通っておられた。自分は一応経済学の本を英語で読んでおられただろうが、教育実習の経験もなければ、学習指導要領に書かれているミニマムエッセンシャルズと云う考えも知ない。授業中マリリンモンロー主演のアメリカ映画の話ばかりして、生徒の人気をとり、英語については、教科書を読んで、続けて日本語訳を云われるだけだったから、生徒はその日本語訳を必至でノートに取るという授業ばかりだった。関係代名詞も文の五型も教わらなかった。そんなオソマツ君が驚いたのは高校へ入ってからであった。都市部の中学から来た生徒や私立中学から来た生徒との英語の学力差は瞠目に値し語彙、文法、発音から作文まで、田舎の新制中学卒業生とは天と地ほどの違いがあったのです。。チョット目先の利いた大人たちは新制中学の教師の力不足は気が付いていた節があります。一番よくこの差を知っていたのは教育委員会であり文部省《文部科学省の前身)だったでしょう。

 そしてまた現代も同じ状況が再生産されているようで心を痛めています。第一、教員免許状が安易に発行されすぎています。 教育実習で指導教官から授業のレベル、授業展開、生徒への叱咤激励の仕方、テスト問題の作成など教師生活の一から十までを徹底的に教え込んでから免許状を授与するシステムを重視すべきです。文科省が行う学力テストの結果を公表すべきかどうか毎年議論されていますが、これも当然公表すべきで、授業改善の貴重なデータとして活用すべきだと思います。

 

 

 

 

 


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