澄み切った秋の日差しに誘われて散歩に連れて行ってもらえば、道沿いの豪邸の生け垣の間から見える美しい庭木の紅葉に目を奪われます。道に舞う枯葉さえ詩情をさそいます。
此処で思い出されるのは高校時代の国語の時間に習ったベルレーヌの詩「枯葉」です。遠い昔の記憶の糸を手繰り寄せて思い出してみます。
以前このブログにも書きましたように僕が高校二年の頃友達の間でこうした詩を暗記することが流行して「○○を暗記したぞ」というと「それを見せて」と云うので文庫本なんかでそれを見せると、友人がその本を見ている. そこで覚えた詩をサラサラと云う. ミスなしで云い終わると、友人が尊敬してくれるという流行であった。藤村の「千曲川旅情の詩]とか「カラマツの林をいでてカラマツの林に入りぬ」とか「小諸なる古城のほとり雲白く遊子悲しむ」とかを、競争で覚えたのもこの頃であった。(T)
秋の日の
ヴィオロンのため
息身に染みて
ひたぶるに
うら悲し。
鐘の音に
胸ふたぎ
色変えて
涙ぐむ
過ぎし日の
想い出や
げに我は
うらぶれて
ここかしこ
定めなく
飛び散ろう
落ち葉かな。
ベルレーヌはフランスの詩人、訳は誰だったか忘れました。上田敏か堀口大学だったではないでしょうか。青春と云うか思春期と云いますかそんな匂いにあふれた詩でしたネ。青春はフランス人も日本人も同じ感性なんですね。「げに我は」以下はオソマツ君のことのようですが、老人には、こんなにロマンチックな感性は考えられません。失礼シマシタ。(T)
晩秋の散歩道で。