かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

夕焼け

2015-09-23 | 気ままなる日々の記録

昨日の夕焼は格別でした。

秋分の日も過ぎ、いよいよ秋もたけなわ、まもなく、紅葉のシーズンとなります。こんな季節になると思い出すのが、高校時代の教科書だったか副教材だったかに出ていたヴェルレーヌのあの詩です。訳は確か堀口大学とかいう方だったとおもいます。思い出すまま書いてみますと、

秋の日の 

ヴィオロンのため息身に染みて

ひたぶるに うら悲し  

鐘の音に胸ふたぎ色かえて

涙ぐむ過ぎし日の想い出や

げに我は、うらぶれて、ここかしこ、

飛び散ろう落ち葉かな。

こんな詩が口を突いてでてきます。遠い若き日の思い出です.

ベルレーヌは確かフランス人だから、この詩の「鐘の音」は教会の例の「キン,コン、カン、コン」でしょうね。でも日本人にとっては、お寺の「ゴーン」のような気がしますし、「ゴーン」の方がこの詩に合うように思えますがどうでしょう。現に上の夕焼の写真を見ていてもどこからか、「ゴーン」と云うお寺の鐘の音が聞こえてくるような気がします。(E)

 


昨日、およそ30年ぶりに友人が来てくれ、心おきなく雑談に興じました。

2015-09-23 | 気ままなる日々の記録

話題は多岐に及びましたが、興味深かったのは、母親が外国人で父親が日本人の子どもで、母親がかわいいこの子は日本人として育つので早く日本語を覚えてくれるようにと、自分の母国語で赤ちゃんに語りかけることを控えて育てた子供が、幼稚園に行っても小学校に入っても全然日本語を話さない子供になってしまった。つまりこの子は母親とコミュニケーションができない子供で日本語も全然覚えようとしない子供になってしまった。ということのようです。

  此処で思い出すのが藤原雅彦氏が英語教育を「聞く話す」に特化して小学校低学年から始めるとしたとき、これに反対して、小学校低学年では日本語教育をしっかりすべきで、豊かな日本語を覚えた子どもがそれを外国語に置き換えることはそれほど難しいことではない、と主張しておられたことである。

美しい夕陽、美しい花、美しい景色などを覚えることによって「美しい」と云う概念が育つ、こうしたものを多くしてこそ豊かな情操が生まれるわけで、このことを忘れて早くから少しばかり英会話を教えたりしてもよいことは一つもないという論旨だったと思う。脳の発達段階に応じて言葉を覚えそれによって、いろいろな認識や概念を身に着けていくというわけである。「アンヨ」と云う言葉を覚えた幼児にキリンの絵を見せキリンちゃんの「アンヨはどれ?」と聞くと正しく足を指差す。更に椅子やテーブルの「アンヨは?」と訊けば正しく椅子やテーブルの足を指差す。これが、コンピューターではできない能力だと云います。つまり、足の機能を合わせて理解していてテーブルを見て上の板の部分を支えている部分を探してその部分を足だといって指差す能力は人間の脳の計り知れない力だと云います。

特別支援学級によくみられるという親とのコミュニケーションができない子供にどんな支援が必要か、正に発達心理学の解決すべき緊急課題だと思われます。国家プロジェクトとして研究体制を整え支援にのりだすべきだと思われます。この子達もれっきとした日本国民であるからだ。