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白木屋の大火  一九三二年(昭和七年)十二月

2006-09-26 06:35:58 | Weblog
江戸時代、東海道など五街道の起点として栄えた東京・日本橋。往時のにぎわいをとり戻そうと、旧東急百貨店お跡地に昨年三月、地上二十階建ての「日本橋一丁目ビル」が開業した。商業ゾーン「COREDO(コレド)日本橋」には、歴史ある土地柄にふさわしく、飲食店など伝統ある名店が国内外から招かれた。このビルは三越と高島屋の間にある。「二つの百貨店の間をつなぎ、これまでになかった人の流れを作っている」と「日本橋一丁目ビル」の三井不動産企画統括役である大堀正博さんは語る(二〇〇四年七月十日付読売)。この新ビルは、日本橋にくる買い物客の行動範囲を、更に広げる相乗効果も生んだ。

ところで、この「日本橋一丁目ビル」の建設地は、戦前から戦後の一時期まで百貨店の白木屋が建っていた場所。そして、歴史に残る白木屋大火の場所でもある。『白木屋三百年史』(1957年・白木屋)には、「白木屋の大火」について約三〇ページを費やして開設している。白木屋大火は、一九三二年(昭和七年)十二月十六日午前九時十五分四階玩具売場から発生した。出火原因は豆電球のソケットに装飾用の銀線が接触して発生したスパーク。これが雪に見せかけた綿→枯れたクリスマスツリー→セルロイド玩具と燃え移り、さらに五階(家具美術品)、六階(特売場)、七階(食堂、ホール)、八階(店員食堂)へと延焼した。火災による死者は十四人。うち一人(問屋関係者)以外は店員の犠牲者だった。また重傷者二一名の中にも顧客は殆どいなかった。
 火災の際、屋上で陣頭指揮を取っていたのが元軍人の山田忍三専務。「船長がむやみに船から降りられるか」といって、山田専務は建物と運命をともにする決心だった。しかし、山田専務は屋上へ上がってきた警視庁消防課長の命令でようやく屋上を去った。この白木屋の大火がもたらした影響は数多くあるが、なかでも、最も大きな影響を与えたのは、火災保険問題であった。従来、大工場あるいは大商店街の大火による保険の填補は、しばしばあった。しかし、一万余坪の大ビルディングの大半が焼失というケースは、初めてのことであり、損害保険業界にとっても、また重大問題であった。
 この火災の関係損保会社は、帝国海上、東京火災、日本火災、明治火災等、大小三〇社。保険金額は建物六〇〇万円、什器一一二万五〇〇〇円、商品二八〇万五〇〇〇円、合計総額九九三万円だった。什器や商品はともかく、建物の損害査定は、再保険関係が複雑なこともあり交渉は翌年に持ち越された。保険会社側による白木屋の損害調査は、実害検査と査定のために三か月を費やされた。結局、建物に対して支払われた火災保険金は一四五万円だった。ところで、白木屋火災というと、どうしても避けて通れないのが「ズロース」の問題。加太こうじ『昭和事件史』(一九八五年・一声社)の「白木屋の火事」の項には、次のような文書が紹介されている。

若い女のこととて裾の乱れが気に、片手でロープにすがりながら片手が裾を抑えたりするために、手がゆるんで墜落してしまったというような悲惨事があります。こういうことのないよう、今後、女店員には全部、機械的にズロースを用いさせるようにします

 加太こうじは、「白木屋の火事以来、日本の女性の多くが、ズロースをはくようになった」という説を紹介する。ただし、加太こうじの説は少し違う。「そういわれると、そんな気もするが、事実はそうではない。実は昭和八年から九年にかけて、日本の若い女性の多くが洋服を着るようになったからである」というものである。