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武蔵野うどんの店「久兵衛屋」(東京・武蔵村山市、ダイヤモンドシティ・ミュー)

2007-07-16 09:23:45 | Weblog
武蔵野うどんの店「久兵衛屋」(東京・武蔵村山市、ダイヤモンドシティ・ミュー)

昨年11月18日、都内最大級の郊外型ショッピングセンター「ダイヤモンドシティ・ミュー」が武蔵村山市内に開業した。場所は2003年に閉鎖した日産自動車村山工場の跡地。核テナントは三越とジャスコである。そのほか180の商店、飲食店が入り、4000台分の駐車場が設けられるという大規模なもの。今回は、この「ダイヤモンドシティ・ミュー」のなかにある武蔵野うどんの店「久兵衛屋」(きゅうべいや)を探訪してみた。この店は上場企業である大和フーヅ株式会社(本社:埼玉県熊谷市)がチェーン展開する店である。チェーン店というと、一種の味気なさを感じるかもしれない。しかし、店の入り口にはガラス張りのコーナーがあり、そこでは若い女性がうどんを打っている。これまで本誌で紹介した東村山、神田駅前、小平の店は何れもただ一回訪れ、すぐに原稿を書いた。それに引き換え、今回は2回目にしてようやく原稿を書く決心がついた。その理由は、この店がチェーン店であることに起因する。「こんな店を紹介してもよいのかな」という若干の危惧があった。しかし、2度目の訪問で紹介に値するにと判断した。

「武蔵野うどん膳」を注文する。定価は980円。ザルに載った冷めたうどんを、温かい汁に浸して食べる。濃い目の汁には豚肉、ネギ、しいたけ、にんじんが入っている。てんぷらは5品。海老、茄子、オクラ、プチトマト、かぼちゃといったところ。プチトマトが珍しい。これに茶碗蒸しとデザート(白玉と煮た小豆)が付く。うどん、汁、てんぷら、茶碗蒸しの何れも神経が行き届いている。「いらっしゃいませ、こんにちは」(注)などと大きな声で“お客を友達扱い”しない。店員のマナーにも好感がもてた。
「久兵衛屋」に隣接して武蔵村山市の物産展示場がある。そこで「村山うどんMAP」なる資料をもらった。そこには武蔵村山市内の14店のうどんの店の紹介が出ている。ただし、なかに麺の玉を売る店等が4店舗混じっている。武蔵村山市内の個人経営のうどん店にも行ってみたい。しかし、東京都にありながら武蔵村山市には鉄道の駅がない。バス路線はあるのだが、どこでバスに乗り、どこで下車すれば目的のうどん屋にたどり着けるのか。これが分からない。しかも、「村山うどんMAP」の地図はやや芸術的なもの。余程地元に精通していなければアクセス不能だ。ということで、うどんの宝庫である武蔵村山市内の“うどん探訪”は、しばらくお預けである。
(注)「いらっしゃいませ」は、謙譲語。「こんにちは」は、相手と対等な立場に立つ。この2つの語を間髪なしで続けられると、お客は「馬鹿にされたような」気がしてしまう。
「いらっしゃいませ、こんにちは」は、マクドナルドが日本進出の際に持ち込んできたもの。おそらく米国本社の接遇マニュアルの翻訳であろう。日本人の(少なくとも私の)耳には不快なコトバとして響く。

木股文昭・田中重好・木村玲欧編著『超巨大地震がやってきた』

2007-07-16 09:22:09 | Weblog
木股文昭・田中重好・木村玲欧編著『超巨大地震がやってきた』

本書は名古屋大学大学院環境学研究科所属の研究者たちによる共同研究・調査の成果の報告書である。同研究科は“環境学”というテーマの性格から、理学・工学・人文社会科学の研究者を有している。これら学際的なスタッフが協力して本書をつくりあげた。同研究科のスタッフたちは、2004年12月26日発生したスマトラ沖地震津波を対象に調査団を組成、2005年2月の第一次調査を開始。以後、数次の調査団を派遣して現地調査を行なった。本書の章立ては次のようになっている。

序 章 巨大な地震が起きた
第1章 自然現象としての超巨大地震
第2章 大津波発生
第3章 立ち直る人々
第4章 巨大地震と津波に備えて
第5章 日本の地震・津波対策

スマトラ島全体で16万7000人の犠牲者を出した津波。しかし、住民、地域社会、行政の何れも何の備えもなかった。最も津波被害の大きかったアチェで使用されている言語(アチェ語)。殆どの住民たちは、「津波」に相当する現地語を知らない。この地域は19世紀半ばにマグニチュード8クラスの地震があった。数メートル程度の津波が発生している。しかし、150年の年月により、津波伝承はおろか、津波というコトバまでも消えてしまっていた。ちなみに、アチェ語の「津波」は、「イブーナ」。「海の向こうから来る大きな波」という意味だ。「コトバと防災」といったテーマが扱われること自体が、学際的アプローチの成果といってよかろう。
津波の被害にあった海岸地域には、かつてはマングローブの林があった。しかし、林は伐採され、そこはエビの養殖池になっている。海岸から平地が続くこの地域では、津波から逃げようとしても3-4キロ行かなければならない。地震や津波が自然災害であることはもちろんであるが、経済優先の開発が被害を大きくしたともいえよう。人口1万人の集落で生存者は僅か50人。そんな集落がある。調査団は、そこを訪れて、聞き取り調査した。マダリナさんという母親は、娘を小脇に抱えて集落に近い山へ向かって走った。「なぜ山に走っていったのかは、わからない」とマダリナさんは語っている。津波の被害地は何時までも水が引かない。そのため、山に逃げた50人の集落民は2日間飲まず食わず。3日目に集落外から助けが来て避難所に入ることができた。
(2006年、時事通信社、1800円)

小学生時代の“本の記憶”—『偕成社五十年の歩み』を参照して

2007-07-16 09:19:18 | Weblog
小学生時代の“本の記憶”—『偕成社五十年の歩み』を参照して


小学生時代に「お世話になった本」に、偕成社の偉人伝シリーズがある。黄色いカバーのかかった偉人伝。今でも、あの本の手触りを思い出す。10冊以上は、愛蔵していた。先般、偕成社の社史『偕成社五十年の歩み』(1987年刊)を頂戴して、過去の記憶を確認する機会があった。すると、“偕成社の偉人伝”は通称で、正式名称は“偉人物語文庫”と称することが分かる。その第1巻は、1949年(昭和24年)4月に発刊された『ベーブ・ルース』。著者は沢田謙であった。次いで年内に『リンカーン』、『福沢諭吉』、『コロンブス』、『エジソン』が刊行されている。当時の日本は占領中。このラインアップから、見え隠れする“アメリカの影”を読み取ることができる。5人のうち、3人はアメリカ人だ。加えて、コロンブスは、“アメリカ大陸発見者”である。そのような見地に立つと、コロンブスもやはりアメリカ関係者。このシリーズの最初の5冊のうち4冊(80%)までがアメリカ関連本ということになる。少々どころか大いにバランスを欠いている。そう批判されてもやむをえない。
『偕成社五十年の歩み』の巻末には同社創業(1936年)以来の出版リストが付いている。このリストの中から記憶をたどりつつ、私が所有していた本をリストアップしてみよう。

沢田謙『エジソン』 1949年(昭和24年)刊
沢田謙『アインスタイン』1950年(昭和25年)刊
沢田謙『ノーベル』1951年(昭和26年)刊
沢田謙『フォード』1951年(昭和26年)刊 
川端勇男『ディーゼル』1952年(昭和27年)刊
柴田練三郎『チャーチル』1952年(昭和27年)刊
沢田謙『フランクリン』1952年(昭和27年)刊
丸尾長顕『マゼラン』1953年(昭和28年)刊
沢田謙『パスツール』1953年(昭和28年)刊
浅野晃『源頼朝』1953年(昭和28年)刊
沢田謙『高峰譲吉』1954年(昭和29年)刊

このリストを見て、色々なことに気づく。先ず、沢田謙の著書が多いことである。『偕成社五十年の歩み』で、沢田謙は「外交、政治評論家」と紹介されているのみ。詳しいことはわからない。ところが、たまたま神戸の一栄堂書店から送ってきた古書目録(2006年5月号、29ページ)の中に、戦前期の沢田謙の著作を2冊発見した。書名は『ヒットラー伝』(1934年、講談社)と『ムッソリーニ伝』(1935年、同)である。古書価は3,000円と2,000円。ヒットラーの方が1,000円高い。沢田謙は、戦前にこのような本を書いていたのだ。チョット驚いた。その後、沢田謙に関する新たな情報を得た。須賀敦子の『遠い朝の本たち』(2001年、ちくま文庫)を読んでいたら、この沢田謙は『プルターク英雄伝』の編著者として登場している(187ページ以下)。須賀敦子(1929年―1998年)の少女時代に読んだ本として出てくる。『プルターク英雄伝』が出版されたのは戦前または戦時中のことであろう。話題をもう一度伝記を書いた著者に戻す。沢田謙以外の著者で、注目すべき人物がいる。後に『眠狂四郎無頼控』等の剣豪小説や『図々しい奴』等の現代小説作家として有名な柴田練三郎がチャーチルの伝記を書いている。柴田練三郎は、『イエスの裔』(1951年)で直木賞を受賞している。また、マゼランの伝記を書いているのが丸尾長顕。多彩な人物で作家としても活躍したが、日劇ミュージックホールの演出家というと分かるかもしれない。『源頼朝』を書いた浅野晃は、プロレタリア運動に参加した共産党員。獄中で転向した。そんなことを知ったのは、ごく最近のことである。

上記リストの中で、『源頼朝』を除くと、残りすべては、父が選んだ本である。『源頼朝』は、講談社世界名作全集で読んだ『源平盛衰記』との関連で、私が頼んで買ってもらったもの。父が、私のためにと選んだ本については、ひとつの傾向がある。ずっと後になって、そのことに私は気が付いた。私の年齢は40歳ぐらい。3人の子供の父親になっていた。父の選んだ偉人たちの殆どが「発明者」または「発見者」である。例外は2人。父が尊敬するイギリスの政治家チャーチル、ポルトガルの海洋探検家マゼランである。この2人を除くと、父の選択した本は“「発明」または「発見」をした科学者の伝記”ということになる。父は事務系のサラリーマンとして会社での人間関係に苦労していた。そんな苦労を子供(私)にはさせたくない。わが子(私)には理科系方面に進学させ、クリエイティブな仕事をさせたい。そんな思いから偕成社の偉人伝シリーズを利用して(息子の将来の進路の)誘導を試みたのだろう。しかし、(なんら後悔するわけではないが)私は父と同じ事務系サラリーマンの道を歩んでしまう。“適性”を考慮すれば、この選択は正しかったと思う。