百醜千拙草

何とかやっています

民主主義と規制

2021-11-26 | Weblog
またも、前回の続きのような話ですけど、先日は全国的な動物実験規制協会による施設の視察がありました。施設の動物実験委員会と動物実験施設の責任者が主に対応したので直接どういうやりとりがあったのかは不明ですが、施設の動物実験管理者も現場の状況の理解に問題があると思いますけど、上位規制組織の言い分は更に非現実的だったようで、話をきいてうんざりしました。規制する側にしてみれば、現場の不利益は気にしないのでしょう。

長期的に動物実験が減っていくことは望ましいと私も思いますけど、現状では、動物実験をやっている方は、それなりのニーズに基づいて、生活もキャリアも賭けて、なんらかの有意義な情報を得るために動物を犠牲にしてやっているわけで、だれも、好きで動物を殺したり虐待したりしているものは研究室にはいないです。そんな中で、不必要としか思えない数々の規制がトップダウンでどんどん増えてきて、それは全部現場に丸投げされ、違反者が厳しく処罰されるという状況が実際に起こっています。この流れはほぼ一方的で、年々、管理者のパワーは増大する一方でありながら、現場の事情は考慮されることは少く、窮屈で不十分なサポートの中で、研究者は規制におびえながらなんとかやっているのが実情でしょう。

だいたい、もしも本当に動物の命、や動物福祉ということを目的としているのなら、野生動物の狩りや害獣駆除も同様の厳しさで規制しないと不公平です。結局は人間の勝手な理由で一方的に線引きが行われていることには変わりありません。

規制というのは個人の自由を縛るものですけど、規制が年々、さまざまな分野で強まっているということに私は危機感を抱いています。

近代民主主義の象徴のフランス革命はフランス憲法と国旗にその精神が引き継がれ、フランスは国のスローガンとして、自由、平等、博愛をあげています。また、他の民主主義国家の憲法の精神のコアにあるものは、ドイツでは統一、正義、自由、カナダでは生命、安全、自由、そしてアメリカはもちろん自由の国であることを売りにしています。これら近代民主主義を受け継いだ国家で共通して尊重されるべきものと考えられているものは「自由」であるようです。自由とは個人の尊重に他なりません。社会やその構成員は王や支配者の持ち物ではなく、個人の集まりが社会であって、その自由意志の総和が社会に反映されるべきだという考えがあると思います。

しかしながら、人間が増え社会生活を営むには、個人の自由の制限はやむを得ません。数々の法律や規律があり、守らないものには罰が与えられます。議会制民主主義では、その個人の意思が代議士によって汲み取られて議会で議論された上で決定されるはずです(日本ではそうはなっていませんが)。しかし、一部の権力や支配力を持つものにとっては、国民の意志ではなく、彼らの自由意志を優先させた政策を施行してもらいたいわけで、政府政党と癒着し、彼らの都合の良い法案を作らせ、一般国民の富を合法的に移し替えて、彼ら自身と彼らに利益誘導する政治家だけが得をするようなシステムに変えて行っています。日本では、それを隠そうともしません。一般国民から消費税を通じて否応なく金を巻き上げて、企業や富裕層の減税分の補填に使うという非人道的なことが、露骨に行われています。死語だと思われていた「政商」という言葉が、政府と癒着した派遣会社のマクラ言葉に添えられるようになりました。加えて、アベ政権からは、そもそも権力者の暴走を防ぐためにある憲法を権力者自らが軽視し、一時的に憲法を上書きできるような法案を通し、そして憲法そのものさえも彼らに都合の良いように書き換えようとしています。

腐敗した政権政党のあからさまで非合法的な手段によって、日本は、非民主主義、独裁国家へと変貌し、国民の奴隷化が促進されつつあります。昔の、百姓は生かさず殺さず、を、政府は今は一般労働者(特に非正規雇用者)を対象に行なっており、人々は日々の生活に追われて、選挙に行く気力も国会を見る気力もなくしているように見えます。

しかし、この傾向は日本は極端ですけど、諸外国でも多かれ少なかれ、起きていることだと思います。民衆の力によって成し遂げられた近代民主主義でしたが、だんだんと世界的規模で、形骸化して侵食されていきつつあるのではないかと私は感じています。この近代からの退行は、テクノロジーの進歩によって、権力側が、さまざまなレベルにおいて、一般国民を管理することが容易になったことがあると思います。つまり権力者のもつ権力がより強力になったということです。アメリカでは生まれた時からソーシャルセキュリティ番号を与えられ、社会のあらゆる活動でその番号を要求されます。その番号は納税記録から銀行やその他の資産情報、過去の職歴、犯罪歴、などなどの情報にリンクしており、その気になれば、特定の国民の資産、履歴、行動パターン、は丸裸同然で収集できます。悪いことに、権力者だけではありません。国民同士がお互いを監視し、管理するような社会になりつつあります。

そして、現在、個人の自由というのはそうした自己増殖する管理システムのために、どんどんと侵食されているように感じます。法に基づいたガイドラインに沿って人々はお互いを尊重しあって社会生活を営むというのが理想ですが、困ったことに、何らかの問題が起こるたびに何らかの規制が生まれ、その規制のために新たな問題が生まれ、その問題のためにさらに規制が敷かれるということが繰り返された挙句に、何か行動すれば何らかの規制に引っかかり、規制にひっかかれば、罰せられるということが起こるようになりました。

私は心配性ですけど、悪いことに心配したことの半分ぐらいは実際に起こります。世界規模のディストピア化は当面進行していくかも知れません。
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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2021-11-26 12:41:13
途中まで真っ当なこと書いてると思ったら、

…どーして「アベが悪い」に着地するのかねぇ…
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