送電鉄塔の見える場所

稜線の向こうに消えてゆく鉄塔の列はどこへ続いているんだろう

大淀幹線鉄塔カタログ

2012-07-29 23:32:44 | 戦前の幹線
白状すると大淀幹線の旅はまだそんなに進んではいない。弓削と八代の間を行ったり来たりしただけだ。
でも、見てきたことだけじゃなく、教えてもらった話や文献で知った事もある。とりあえず少し整理しておいたほうがいいだろう。
まず今回は大淀幹線時代からの鉄塔のいくつかをご紹介しておこう。

      

南側の到達点は今ここ。南熊本人吉線は永らく休止中なのでちょっと鬱蒼としている。それでも下草はちゃんと刈ってあった。
大淀幹線の原型にかなり近いと思われるタイプ。ハイレールとか昇塔防止器とかアークホ-ンなんかは1925年当時はなかった
だろうし塗り替えられてるのは確実だ。茶色の塗装を初めて目にしたときは「もしかして錆びてる!?」とびっくりしたものだ。
(茶色鉄塔は今年の2月だったかに別の場所でも見かけた。鉄塔の色ってけっこうバリエーションあるんだね~ w(゜ο゜)w)
現在は碍子装置は耐張型が多いけどこれが建った当時は懸垂型のほうが多かったようだ。33kVなんかの線路ではピン碍子も
使われていた。どこに送電線を通そうが文句を言う人なんかほとんどいなかった時代、一直線に突き進む電線路には懸垂型が
向いてたんだろう。碍子の数が半分で済む。とっても高価だったらしいですから (;´◇`)

     

ひとつ手前のは耐張型だった。最初からそうだったのか後から改造されてるのかは不明。腕金に細かく補助材が入ってるから
改造されてる可能性が高いかな。古鉄塔には珍しく架空地線用の帽子がある。電線高を上げるために付け足したように思える。
脚元も怪しい。これ本来の結界が埋まってしまってるんじゃ?いくらなんでも地面からいきなり斜材が生えてるのは変すぎ!
前後数kmにわたって山麓の斜面を進んでいくルート。でも段差のある結界はここだけだ。ほかの鉄塔の敷地はぎりぎりの広さ
ではあってもきちんと平坦に整地してある。イマドキの鉄塔とは違うんです。水平材を包むコンクリートは地面にくっついて
しまった部分を保護するための処置だろう。それなりに年季が入ってて昭和中盤な印象。主柱の根元のコンクリ部分だけは
もうちょっと新しそうに見えた。

       
           南熊本人吉線70号           南熊本人吉線47号         南熊本松橋線23-1号

古鉄塔いろいろ。左のはおそらく耐張型のオリジナル。川沿いの平地に建っていて前後の鉄塔はどちらもこれより高い所にある。
懸垂型には厳しい条件だ。とんがり帽子がない。腕金の補助材が84号よりシンプル。そのあたりに原型っぽさが漂う。
中央のは中段の腕金の上側が折れている。離隔距離の基準が変わったときに新基準に合わせて吊材を電線から遠ざける改修が
施されているからだそうだ。懸垂型鉄塔のほとんどはこのパターン。時代の変遷を体現した姿ということでなかなかに興味深い。
右のはどうだろう。腕の形から考えると元からの耐張型。とすると帽子が謎だ。さてこの鉄塔、半年ほど前に撤去されてしまった。
古い線路では鉄塔建て替えの際に径間を延ばして基数を減らすことがある。ここも大筋そのケース。ただ前後の鉄塔の建て替えと
この鉄塔の撤去の間には幾分の時間差があった。両側がとんがり帽子になったのでここにも同じような帽子を載せたんだろうか。
解体が決まっている鉄塔のプチ整形。そんな風に考えるとちょっと切ないね (´・ω・`)

        
                                 弓削分岐線10号

えーと・・・この脚元はいったいどういうこと?ピースサイン、いや、むしろ「犬神家の一族」のワンシーンのような・・・( ̄ロ ̄lll)
2段重ねならそんなに珍しくはない。四角い足に重ねた逆三角形の部分は上から見るとL字型。主柱と斜材を一緒にコンクリートで
固めてある。これまでは「昔はこんな足もあったんだ~」としか思ってなかった。しかし!これで解った!建設当時からの足は1段目
だけだ。2段目から上が付け加えられたのはたぶん鋼材の劣化を食い止めるため。3段目が必要になるなんてこの鉄塔はいったい
どんな過酷な目に遭ってきたんだろう・・・( ̄◇ ̄;)
大正鉄塔としては背の高いほう。次の鉄塔で下を横切っていく線路がある。下の線路は大淀幹線よりも古い。かつての2代目松橋送電幹線だ(関連記事はこちら)。木柱や鉄柱が多かった時代に66kV鉄塔はとても大きく見えただろう。さらにその上を越えていく
110kVの電線路。どれだけ目立ってたか。当時の鉄塔マニアと話してみたいなぁ。現在はお若い方で90歳くらいでしょうか・・・
片回線に避雷碍子が付いている。これは昭和も末期になって登場した技術。大淀幹線鉄塔の改造例としては最新の部類に入る。

          
                           イオンモール宇城バリュー分岐線6号

捻架鉄塔も紹介しておかなきゃ。一般的な捻架だと、片側を上→中/中→下/下→上、反対側では下→中/中→上/上→下とする
電線の配置替えを線路の1/3地点と2/3地点で行う。地面との距離の違いによって引き起こされる電気的な不均衡を均すためだ。
大淀幹線上で知ってるのは2基。ひとつは小川と松橋の境界付近。八代変電所から弓削変電所までの距離の1/3ならその辺か。
どう捻ってあるか判りますか?この画像だと片側しか見えませんね・・・上相と中相だけが入れ替わってて下相はそのまんま。なぜ
そんな中途半端なことになってるんだろう?( ̄~ ̄;)
  
    

もう1基は弓削変電所のすぐそば。変電所の間を3等分してるとは言いがたい。こっちのは3段とも位置は入れ替わってる。うーむ。
調べてみると入ってくる電線と変電所の相配置が揃っていない場合には捻架して合わせてから繋ぐことがあるそうだ。なるほど。
大淀幹線のケースでは別個に造られてそれぞれに運転されていた複数の系統を繋ぎ合わせようとしていた訳だ。そもそも会社が
違うんだから相配置くらいズレてて当然。変電所の間近にこんなのがある理由は解った。でもそうなると捻架鉄塔が1基たりない。
2/3地点のはどうした~?・・・無くなったんだろうな。該当しそうな地域の鉄塔は全部更新されちゃってるし。今では途中にいくつも
変電所ができてるから要らなくなったんだ。しょーがない。
実用品である電線路は時代とともにどんどん変わっていく。自分にとってはそれも魅力だ。ということで、次回も大淀幹線です♪

九州送電と九州電力

2011-07-18 06:29:57 | 戦前の幹線
大淀を出発して人吉・八代・弓削を経由し三池に至る110kV送電線。これは一つの路線なんだろうか?それとも変電所間をつなぐ
複数の路線の集合体なんだろうか?「大淀幹線」という名前が判ったんだけど、この名前で呼んでいいのかなぁ・・・
だけど「南熊本人吉線」よりもずっと古いし、もっと広い範囲に使われてるようなので、差し当たってはこの名を使うことにしよう。
(三池から武雄に続くものは別の路線と考えます。理由は後述。)

       
         「1925.2」の年月表示がある南熊本人吉線64号。近所の人は「昭和4年(1929年)にできた」という。

今回の「九州電力」はいつも語っている現在の九州電力とは違う。1930年から1939年まで存在した送電専業の会社のことだ。
紛らわしいのでこのブログでは「旧九電」と呼ばせていただく。電気化学工業と熊本電気が半分づつ出資して大淀幹線を運営する
ために立ち上げた。発電所は持たない。

大正14年の電線路」を書いた時点では、その線路が熊本県内を通っていない九州送電のことにはあまり触れないつもりだった。
実物を見てない線路について書くのはここの主旨と違う。しかしその後、大淀幹線の誕生に九州送電も関わっていたことを知った。
頂いたコメントでこの会社に言及された方もいらっしゃった。スルーする訳にはいかないようだ。史料だけに頼った記事になるけど
ご勘弁を。まあ、妄想ばっかり書き連ねてあるよりはマシかなw
何にせよ「大正14年の電線路」未読の方がおられましたら、コメント欄も含めて先に目を通しておかれることをお勧めいたします。


               「供給区域並送電線路図」(出典:熊本電気株式会社「熊本電氣の現況」1933年)

むやみに巨大でスミマセン。(||| ̄▽ ̄;)熊本電気とその系列会社の1933年(昭和8年)春頃の設備図。表題と凡例は左読み、
図中の地名等は右読みなのでご注意ください。全体に赤っぽく変色してるのは時間のせい。でも微妙に傾いてて気持ち悪いのは
自分のせいです。重ねがさねゴメンナサイ m(__;)m
大淀幹線は二重の点線で描かれている。長い。亘長93kmの苓北火力線が真ん中の折り目の左端、「富岡」の「岡」あたりから
島伝いに「甲佐」の「佐」あたりまでなので、それをモノサシにすると三池までで250kmくらい??これは旧九電の送電線が最長に
なっていた頃の姿だ。三池-武雄はこの翌年に東邦電力に譲渡された。(なので別の路線。でしょ?)

どこの区間を・いつ・どの会社が建設したのか、が問題だ。
大淀第一発電所の運転開始時に電気化学工業が大淀-八代を完成させていたのは間違いない。自分の見た「1925.2」を信じて
「八代-弓削も完成していた。造ったのは熊本電気だろう。」と考えていた。しかし、それを真っ向から否定する物証が!Σ(゜Д゜)

  
                       熊本電気の送電系統図(部分)1929年6月
              出典:熊本電気株式会社「創立弐拾周年記念 熊本電気株式会社沿革史」

大淀第一発電所は稼動していたけど第二発電所が建設中で、66kV送電だった時期のもの。八代変電所に大淀からの線が入り、
八代1・2号線→松橋→松橋1・2号線→弓削→大牟田3・4号線→横須と続いている。さっきの1933年の線路図で八代から横須まで
(銀水はまた別の話)大淀幹線の西を並走している方だ。横須は熊本電気が電化の構内に置いていた変電所。もしかしたら春に
電化の裏で見た変電施設がそれだったかもしれない。とにかく1929年には大淀幹線の八代-三池は未完成だったということだ。
そうなると疑問なのが送電方向。八代線・松橋線は黒川や菊池川の発電所群からの電力を南に送る送電線だったはず。逆だよ?
2回線の片方を逆向きに使ったんだろうか?知識のある人なら系統図から読み取れるのかな。自分にはさっぱり解りません。

       
                 今度は1933年の系統図(部分) 前掲「熊本電氣の現況」より

1931年秋に大淀第二発電所が完成して110kV大淀幹線の運用が始まった。もちろんその頃には送電線もきっちり完成している。
この図は運用開始後の系統を示したものだ。大淀幹線は八代変電所を通っていても熊本電気の線路との連系はない。代わりに
弓削で繋がるようになっている。この線は大淀第一・第二(当時は電化の子会社である大淀川水力電気の所有)からだけでなく、
人吉で球磨川電気、弓削で熊本電気から受電して三池に運んでいた。供給先も電化だけじゃない。三井鉱山・東邦電力・九州
水力電気があった。旧九電は「集めて・運んで・配る」という画期的な電力事業者だったわけだ。電力の需給バランスが悪ければ
九州のもう一つの110kV幹線を持つ九州送電との間で融通し合うこともできた。うむ。やっと九州送電が出てきたなw
いや、大淀幹線と九州送電との関わりはそれだけじゃないんです。またもや大きくて申し訳ないけど次の図を見ていただきたい。

          
                       国立国会図書館近代デジタルライブラリー収録
                 「熊本逓信局管内電気事業概要 第7回(大正13年9月)」より一部を転載。
                                 ↑クリックで元の史料へ移動できます。

こちらは熊本逓信局管内の1924年(大正13年)4月時点の送電線図。自家用・供給用すべての「送電線」が記載されている。
右下の「大淀第一変電所」から北へ向かう点線がある。耳川変電所で2本に別れ、片方は大分から北九州へ、もう片方は熊本を
横断して大牟田へ。この大牟田行きが計画段階の大淀幹線だ。建設は九州送電が行う予定だった。それが旧九電に変更された
経緯は前の記事のコメント欄に書いたのでここには繰り返しません。
1924年4月には建設申請が耳川経由のルートで出されていたのに、翌年2月には全然違う場所に鉄塔が建った。南熊本人吉線の
「1925.2」が正しければそういうことになる。どうも1924年頃には電化はすでに九州送電を諦めていたらしい。大淀川水力電気を
熊本電気と合併させようとして宮崎県に却下されている。この子会社、元々は九州送電計画のために作ったようなんだけどねぇ。
つまりこの図は九州送電設立の遅れにしびれを切らして水面下で人吉経由ルートを画策していた時期のものってことだ。
合併がダメなら新会社ってことで旧九電を作ることになったんじゃないかと。妄想ですか?
どのみち鉄塔建設が1925年なら旧九電の設立より前だ。ルート変更もいつ申請していつ許可になったかは判らない。でも新会社
設立を前提に早くから線路建設準備が進められていた可能性はある。許可が下りて即着工!1年たらずで鉄塔だけ何基か建てた
とか。熊本電気側の記録には建設に関する記載が見当たらない。電化側の文献はまだ見てないな。電化が準備したのかな。
どうなんだろう。今の九電が何の根拠もなく年月表示するとも思えない。その辺尋ねてみたいんだけど今はちょっと、ねー。(´д`)
この送電線についての調査はまだまだ続けますよ!未だ不明な事柄もいずれ明らかになる・・・といいな~。

大淀幹線運用開始後の各社の送電線の様子が知りたい方はこちらでどうぞ。
  国立国会図書館近代デジタルライブラリー 
  「熊本逓信局管内電気事業要覧 第18−22回 [第7冊]熊本逓信局管内送電線路及發電所圖(昭和12年6月)」

この記事の作成に当たっては以下の文献も参考にさせていただきました。
 ・九州電力株式会社「九州地方電気事業史」(2007年)
 ・荻野喜弘博士「1930年代初期の福岡県大牟田における電力融通問題」(「経済学研究」2005年)

            

大正14年の電線路

2011-04-17 01:30:06 | 戦前の幹線
はじめに訂正と反省を少々。前々回の「鉄塔の年齢を知る」で九州地区内に送電線を持ってるのは九州電力・電源開発・チッソと
書きましたが、今回あれこれ調べている途中で三井系の送電線がまだあることと宮崎県企業局と大分県企業局も持っているのを
知りました。自治体は盲点だったな。熊本県が持ってないからそういうもんなんだと思い込んでました。ごめんなさい。では本題に。


  
                   熊本県宇城市に立つ大正鉄塔の列。人吉は奥の山の向こう。

元・南熊本人吉線に1925年当時110kVで電力を送り出していた発電所はどこだったのか」の問いに九州電力から返事が来た。
「建設当時の電源は不明です。1951年にはこの線路は弓削-人吉-大淀と続いており、大淀が電源側でした。」
え、人吉が終点じゃないの?送電方向が逆だった?
大淀…確か宮崎県に大淀川ってあったよね。人吉どころじゃない、めちゃくちゃ遠くないかぁ?弓削も熊本市内ではあるけれど
北寄りだ。こっちの端も少し遠くなった。

 
                      弓削変電所付近の鉄塔群。新旧さまざま。大小いろいろ。

探してみると九電宮崎支店のサイトの中に「1925年12月 大淀川発電所運転開始」の記載がある。場所は現在の都城市高岡町、
宮崎県でも南の端に近い。やっぱり遠いよー。建設したのは電気化学工業。福岡県の大牟田工場に送電していたらしい。
また線路が延びた。三池炭鉱の街じゃないか。石炭を燃やす古い火力発電所がいくつかあったはずだ。なんでまた遠い都城に
水力発電所を建設しなきゃいけなかったんだろう。

 
                  線路の中継地のひとつ、三池変電所に入ってくる熊本からの電線路。

電気化学工業は1915年に苫小牧で創業。王子製紙の余剰電力を使ってカーバイドや窒素肥料の製造を始めた。第1次大戦中の
好景気で紙の増産のため電力を回してもらえなくなったことから三井鉱山が持っていた余剰電力に目を付けて1916年に大牟田に
進出してきた。その5年後には糸魚川に水力発電所を備えた大工場を建設しているし、現在も北陸電力と折半で卸電力の会社に
出資していたり千葉工場にLNG火力発電設備を持っていたり、一貫して電源の開発に力を入れている会社だ。
自家発電と窒素肥料といえば思い出すのはチッソ。戦前の日本窒素肥料と電気化学工業とはシェアを競い合う2大勢力だった。

 
           現在の電気化学工業株式会社大牟田工場。正門への行き方が分かりませんでした・・・

三井鉱山からの融通(鉱山は熊本電気注1と送電契約をしてはいたけれど蒸気力利用が大半で電力はほとんど使わなかった)に
加えて熊本電気と九州水力電気注2からも供給を受けて生産開始した電化大牟田工場はやがて自前の電源確保を考え始める。
それが大淀川発電所だ。なぜもっと近い場所にしなかったのか。問題はどうやら水利権にあったらしい。その頃の各社入り乱れた
水系の奪い合いは相当に熾烈なものだったという。
電化は大淀川河口に新工場を建設する計画で水利権を獲得した。しかし後に送電線建設+大牟田工場拡張へと方針を変更して
しまう。これには宮崎県民が猛反発。大規模な県外送電反対運動が巻き起こった。県側では外部の資本家が続々と水利権を
申請してくることに危機感を抱いて、県内での操業を許可の条件にしていたんだから地元が納得しなかったのは当然だよなぁ。

    
     工場の海側に変電設備がありました。この鉄塔は九電のものではなさそう。三井の発電所からの線路でしょう。

そんな大騒動の末にようやく発電所が完成し1926年1月には送電開始…あれ?資料によって12月だったり1月だったり記載が
まちまちなんですよ。12月に試運転を始めて1月から本格稼動だったのかもしれないけど詳細不明。それよりも。その時の電圧は
66kVだったそうだ。大淀川発電所というのは現在の大淀川第一発電所。電化は続けて大淀川第二発電所の建設に取りかかり
1931年に完成させている。110kV送電が始まるのはここからだ。なんだけど・・・送電線について文献に気になる記述が。
66kV送電開始時には大淀-八代は電化が線路を新設、八代-大牟田は熊本電気の送電線を使ったと書いてある。第二発電所の
運転開始に先立って電化と熊本電気が共同出資して送電専門の新会社を立ち上げ、この会社が1930年代に入って大淀-八代間
送電線の110kV仕様への改修と八代-大牟田の新線路建設を行なったのだという。
はじめの熊本電気の66kV送電線って、別の線路があったってこと?いや、あったけどアレはアレで使用中だったはず。
現存する鉄塔の年月表示との整合性は?自分が見た「1925.2」の鉄塔は八代-大牟田区間にある。弓削より北はまだ見てないし
当初の建設年月が見えなくなってる部分も多い。1925年に全部が完成してたわけじゃないのかな。でもなんか腑に落ちない。
第二発電所の建設許可は第一発電所の着工前に下りている。普通に考えれば熊本電気で110kV仕様の線路を建設して最初は
66kVで運用し、新会社はそれ引き継いで昇圧工事をしたんだと思うけどね。いくら昔でも着工して1年で全線完成は無理でしょ・・・
文献の著者は送電線の実物を見てはいないだろう。戦前の事情は九電ですら大まかにしか判らないらしい。まだまだ謎だらけだ。

 
         三池変電所全景。右の鉄塔2本が熊本から来た線路。端が110kVの2階建、隣が220kV、だと思います。

謎については置いといて、この110kV送電線は1932年には佐賀県の武雄まで延長されて南部九州の電源地帯で作られた電力を
北部九州の工業地帯へ運ぶ幹線となる。線路の所有者が代わった時から一企業の自家用送電線ではなくなったということだ。
現在も自家用であり続けているチッソの送電線との運命の分かれ道はここらへんだったんだな。

        
      三池変電所脇の110kV鉄塔、熊本側。1991年建設。             同じく佐賀側。1932年建設。 

この幹線にいくつもの会社の発電所や送電線が連系されて電力プールを形成していたとか、60Hz110kVの西部ルートのほかに
50Hz110kVの東部ルートがあって相互間の融通も行われてたとか、調べていくと全然知らなかった史実がどんどん出てきた。
東部ルートの電線路は戦後になってからの周波数統一や220kV送電線の登場などで大部分がすでに失くなっているようだ。今の
路線図から当時の線路を辿ることはできない。西部ルートの鉄塔だって現在進行で失くなりつつある。自分が「1925.2」の鉄塔に
出会ったのってものすごいラッキーだったんだなぁ・・・


注1.大正末期には熊本県の大半、昭和初期にはほぼ全域に送電していた会社。白川・菊池川・緑川の各水系に権利を持つ。
注2.大分県を中心とした九州東部が送電エリア。筑後川・山国川の水利権を保有。北九州工業地帯へも電力供給していた。

     この記事を作成するにあたっては下記を参考にさせていただきました。
      ・荻野喜弘博士「1930年代初期の福岡県大牟田における電力融通問題」(「経済学研究」2005年)
      ・山田元樹氏「大牟田の近代化遺産」
      ・電気化学工業株式会社HP
      ・九州電力株式会社HP
     また次の方々には質問へのご回答をいただいたり資料を送っていただいたりと大変お世話になりました。
      ・九州電力株式会社
        工務部送電グループ ご担当者様
        系統運用部給電運営グループ ご担当者様
     改めて厚くお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

鉄塔の年齢を知る

2011-02-13 21:43:32 | 戦前の幹線
まず2つほどおことわりを。
1つ目。今回の記事は昨年7月の「チッソ株式会社水力センター」「南熊本松橋線と南熊本人吉線」の続きです。これから遠くまで
行くことになりそうな、昔を巡る旅への準備でもあります。そういう流れでお読みください。
2つ目。これは九州電力限定の話です。九州地区内に鉄塔を持っているのは九州電力と電源開発とチッソです。でも電発の線路は
熊本県内を通ってないので見たことがありません。チッソのには年月表示がありません。九電のも県内のしか見てませんが規定や
慣例は全社共通でしょう。
ということで九州地区外にお住まいの方は「へぇ~」で流して下さい。九州で鉄塔を見ていこうと考えてらっしゃる方は要注意!

 

始まりは「南熊本人吉線 54 1925.2」の番号札に出会ったことだった。
最初思ったのは「南熊本と人吉って遠いじゃん!」直線距離で約50km。そりゃもっと長い電線路はいくつもある。でも熊本市近郊に
暮らす自分にとっては人吉って山の彼方のそのまた向こう。(人吉の皆さん、ごめんなさい m(_ _)m)
次に「1925年・・・大正14年。そんな古いもんが残ってるんだぁ。すごいなぁ・・・」
そのうちに疑問が湧いてくる。当時から110KV路線なんてあったんかな。あとから建て替えられたりしてない?だいたい番号札に
表示されてる運用開始年月って、鉄塔の?路線の?他の鉄塔の年月表示はどうなってたっけ。

       例1                 例2                  例3                   例4

     例1.  昨年建て替えられた鉄塔。現在の表示は建替年月。
     例2.  建てられてから11年後に路線が再編成されているが、表示は当初の建設年月のまま。
     例3.  これも既設鉄塔を使用して路線を再編成したもの。こっちは新路線の運用開始年月が表示されている。
          変更前の表示も路線開設年月。鉄塔本体は相当古そう。
     例4.  併架の上段が再編された路線。変更前の上の札の表示が判りづらいが「1997.10」
          この17号では変更後に上段の札だけ「併」の文字入りになったが、18号では上下とも「併」入り。

ばらばらだ。いったいどういう基準なんだろう。九電の社内規定なんて考えたって分かるわけないので質問のメールを送ってみた。
     「大正時代の年月表示のある鉄塔を見ました。当時から建て替えられてないものでしょうか?」
     「鉄塔建て替えや路線再編の際に表示年月が更新されますね。昔からそうだったのですか?」
     「基幹系統の送電電圧に110kVが使われ始めたのはいつからですか?」
得体の知れない自称マニアからのメールだ。待たされることも覚悟していたが翌日には返答があった。
「当社では1965年に標識に関する基準を制定しており、鉄塔の標示札には建設年月を記載することになっています。したがって
あなたが見た鉄塔は当時から建て替えられていません。基幹系統への110kVの採用がいつ始まったかについては資料が残って
いないので確認できませんが、当社が設立された1951年にはすでに採用されていました。現存する110kV鉄塔の最古のものは
1925年に建設されています。」要約するとこういうことだった。
                (ノ゜ο゜)ノ オオオオォォォォォォ- あれは九州最古の110kV鉄塔なのか!
なら大電力を送出していた発電所がやっぱりあったんだ。それはどこ?当然それも質問しましたとも!その顛末は次回にて!!

今回は表示年月の話だ。規定は判った。しかしどうなのよ。現実に建設年月と違う標示がついているものがあるし。実例を挙げて
「あれはどうなんでしょう?これは何なんでしょう?」と重ねてやりとりしているうち、だんだん事情が見えてきた。
  ・鉄塔を建て替えたら表示を更新する、路線変更だけなら年月は更新しない。
  ・併架鉄塔だと親線路(電圧階級の高い方。同じ電圧なら運用開始の早い方。)の標示札に鉄塔建設年月、併架線路の札に
   路線運用開始年月を記載する。併架線路は「支持物を持たない線路」という扱いになるからだ。そして札の右肩に「併」の
   文字を入れて区別する。
原則はこうだ。しかし路線はけっこう頻繁に組み直される。そういう際に原則とはちょっと違う取り扱いが慣例として行われている
らしい。たぶん経費と手間を省くためだろう。別に鉄塔の機能に関わることではないし手順が決まっているなら誰も困らない。
たとえばこんな具合。親線路が廃止になったとする。併架だった方が新しい親になる。でもよっぽど傷んでないかぎり標示札は
変えない。おいおい、建設年月が見えなくなっちゃうよぉー。空いたところに新しい路線がやってくると今度はそっちが併架だから
「併」入りで運用開始年月の札が付く。両方が「併」の札だったりするのはこういうケース。
併架線路でなくても路線再編時に表示が更新されてしまうこともある。以前から建設年月が見えなくなっていたからそうしたのか
勢いでなってしまったのか分からないけど南熊本松橋線が誕生した時には併架部分も単独の部分も2つの分岐線も全部まとめて
「2010.6」に変更されてしまった。あれの場合は基準制定以前にも路線再編されてた可能性が高いからしょうがないかなぁ・・・

               
                  1972年開設の220kV線路と1942年開設の110kV線路との併架
 
こんなのも。既設線路のある場所に新設の電圧階級の高い線路を通す場合。当然鉄塔は建て替える。親になるのは新しい方だ。
この時に既存路線の表示札は旧鉄塔から外したものをそのまま使うことが多いそうだ。画像の例では作り直してあるようだけど。
でも鉄塔建設よりも古い年月が表示されてますね。前からの札を継続使用していたらどっちにも「併」は入らないところだった。
なんかもう何を信じたらいいのか分かんないです・・・(T△T)・・・

  
                         分岐箇所に建てられた引きおろし鉄塔

事態を打破してくれたのはこの分岐の鉄塔だった。2本先で農機具製造工場に入る。工場は1975年の竣工だ。出会った時点では
「表示年月=建設年月」を信じていたので元々の送電先はどこ!?もしや昔あった鉱山?と思って調べ回った。でもその鉱山は
大正期前半から操業を縮小している。九電も「鉱山に送電していた記録はないし1951年時点ではそんな分岐はなかった」と言う。
うーん、分からん。画像とにらめっこ。・・・ちょっと待て。この鉄塔って大正の香りがしないよね。なぜ?

 
              昔風の鉄塔                                  現在主流の鉄塔

古風な鉄塔と今風の鉄塔、どこが違うんだろう。まずは全体のシルエット。古い鉄塔では主柱は下の方だけが傾きを持っていて
腕金の取付部分では垂直に立っている。寸胴な印象だ。今のものは上半分も少し傾いているのでスリムに見える。
トラスの組み方も違う。等辺山形鋼鉄塔の場合、よく見かけるのは◇の窓を小さい三角形が囲んでいるのが特徴のブライヒ構造。
対して古い感じのは上から下まで×が並んでいる。ダブルワーレン構造っていうやつだ。
(鋼管鉄塔の場合は話が別です。さっきの220kV/110kVの2階建のは鋼管製ですからね。)
たしか鉄塔の歴史を解説してるサイトがあったな。それによると昭和初期までは上部が垂直な設計が主流だった。
腕金取付部分にもテーパー(傾き)のある鉄塔が初めて建てられたのは1937年。以降は大半がダブルテーパーの設計だという。
そしてブライヒ結構。ダブルテーパー鉄塔の開発者でもある堀貞治氏が1941年に考え出されたものなのだそうだ。
つまり弓削分岐線28号は1925年に建設されたものではありえない。農機具工場ができた時に建て替えたが標示は以前のものを
そのまま使ったと考えるべきだろう。

以上のことを踏まえて最初の画像をもう1度よく見ていただきたい。・・・ダブルテーパー&ブライヒ結構です。
ちょっとぉ!建て替えられてないって言ったのにぃー。

落ち着け、九電が嘘をついたわけじゃない。「大正時代の年月表示のある鉄塔」などと漠然とした問いだったから一般論の答えが
返ってきただけだ。「南熊本人吉線の54号と47号は建て替えされてない鉄塔ですか?」と問えば「54号は建て替えられています。
47号は当初のままです。」という答えだったかもしれない。でもそれだったら「ああそうでしたか」で終わってしまっていて鉄塔の
構造のことまでは考えなかっただろう。自分で鉄塔の建設年代を見分ける手がかりを得られたんだから良かったと思おう。

このような事情を頭に入れていただいたところで次回は元・南熊本人吉線の正体について。以前に立てた推測は間違ってました。
南熊本人吉線ですらなかった時代があったんです。そしてもっとずっと長い路線だったんです。
と、ここまできて突如浮上する「110kV路線の九州初登場は1931年だったかも」疑惑。ガ━━ΣΣ(゜Д゜;)━━ン!!
どっちにしたって九州最古であることに変わりはないんですけどね、ホントにもう何を信じていいのかワカラナイ・・・_| ̄|○


この記事を作成するに当たっては長島洋雄氏のサイト「架空送電線」の記述を参考にさせていただきました。
また、お忙しいなか不躾けなメールにも丁寧に応対して下さった九州電力株式会社工務部送電グループのご担当者様に、改めて深く御礼申し上げます。

   追記:あまりにも文章が読みづらい&説明が不親切&レイアウトが変だったので若干改稿しました。
       構成が悪いのと話がくどいのは直ってません。ごめんなさい。                    (2011-03-05)