送電鉄塔の見える場所

稜線の向こうに消えてゆく鉄塔の列はどこへ続いているんだろう

大正14年の電線路

2011-04-17 01:30:06 | 戦前の幹線
はじめに訂正と反省を少々。前々回の「鉄塔の年齢を知る」で九州地区内に送電線を持ってるのは九州電力・電源開発・チッソと
書きましたが、今回あれこれ調べている途中で三井系の送電線がまだあることと宮崎県企業局と大分県企業局も持っているのを
知りました。自治体は盲点だったな。熊本県が持ってないからそういうもんなんだと思い込んでました。ごめんなさい。では本題に。


  
                   熊本県宇城市に立つ大正鉄塔の列。人吉は奥の山の向こう。

元・南熊本人吉線に1925年当時110kVで電力を送り出していた発電所はどこだったのか」の問いに九州電力から返事が来た。
「建設当時の電源は不明です。1951年にはこの線路は弓削-人吉-大淀と続いており、大淀が電源側でした。」
え、人吉が終点じゃないの?送電方向が逆だった?
大淀…確か宮崎県に大淀川ってあったよね。人吉どころじゃない、めちゃくちゃ遠くないかぁ?弓削も熊本市内ではあるけれど
北寄りだ。こっちの端も少し遠くなった。

 
                      弓削変電所付近の鉄塔群。新旧さまざま。大小いろいろ。

探してみると九電宮崎支店のサイトの中に「1925年12月 大淀川発電所運転開始」の記載がある。場所は現在の都城市高岡町、
宮崎県でも南の端に近い。やっぱり遠いよー。建設したのは電気化学工業。福岡県の大牟田工場に送電していたらしい。
また線路が延びた。三池炭鉱の街じゃないか。石炭を燃やす古い火力発電所がいくつかあったはずだ。なんでまた遠い都城に
水力発電所を建設しなきゃいけなかったんだろう。

 
                  線路の中継地のひとつ、三池変電所に入ってくる熊本からの電線路。

電気化学工業は1915年に苫小牧で創業。王子製紙の余剰電力を使ってカーバイドや窒素肥料の製造を始めた。第1次大戦中の
好景気で紙の増産のため電力を回してもらえなくなったことから三井鉱山が持っていた余剰電力に目を付けて1916年に大牟田に
進出してきた。その5年後には糸魚川に水力発電所を備えた大工場を建設しているし、現在も北陸電力と折半で卸電力の会社に
出資していたり千葉工場にLNG火力発電設備を持っていたり、一貫して電源の開発に力を入れている会社だ。
自家発電と窒素肥料といえば思い出すのはチッソ。戦前の日本窒素肥料と電気化学工業とはシェアを競い合う2大勢力だった。

 
           現在の電気化学工業株式会社大牟田工場。正門への行き方が分かりませんでした・・・

三井鉱山からの融通(鉱山は熊本電気注1と送電契約をしてはいたけれど蒸気力利用が大半で電力はほとんど使わなかった)に
加えて熊本電気と九州水力電気注2からも供給を受けて生産開始した電化大牟田工場はやがて自前の電源確保を考え始める。
それが大淀川発電所だ。なぜもっと近い場所にしなかったのか。問題はどうやら水利権にあったらしい。その頃の各社入り乱れた
水系の奪い合いは相当に熾烈なものだったという。
電化は大淀川河口に新工場を建設する計画で水利権を獲得した。しかし後に送電線建設+大牟田工場拡張へと方針を変更して
しまう。これには宮崎県民が猛反発。大規模な県外送電反対運動が巻き起こった。県側では外部の資本家が続々と水利権を
申請してくることに危機感を抱いて、県内での操業を許可の条件にしていたんだから地元が納得しなかったのは当然だよなぁ。

    
     工場の海側に変電設備がありました。この鉄塔は九電のものではなさそう。三井の発電所からの線路でしょう。

そんな大騒動の末にようやく発電所が完成し1926年1月には送電開始…あれ?資料によって12月だったり1月だったり記載が
まちまちなんですよ。12月に試運転を始めて1月から本格稼動だったのかもしれないけど詳細不明。それよりも。その時の電圧は
66kVだったそうだ。大淀川発電所というのは現在の大淀川第一発電所。電化は続けて大淀川第二発電所の建設に取りかかり
1931年に完成させている。110kV送電が始まるのはここからだ。なんだけど・・・送電線について文献に気になる記述が。
66kV送電開始時には大淀-八代は電化が線路を新設、八代-大牟田は熊本電気の送電線を使ったと書いてある。第二発電所の
運転開始に先立って電化と熊本電気が共同出資して送電専門の新会社を立ち上げ、この会社が1930年代に入って大淀-八代間
送電線の110kV仕様への改修と八代-大牟田の新線路建設を行なったのだという。
はじめの熊本電気の66kV送電線って、別の線路があったってこと?いや、あったけどアレはアレで使用中だったはず。
現存する鉄塔の年月表示との整合性は?自分が見た「1925.2」の鉄塔は八代-大牟田区間にある。弓削より北はまだ見てないし
当初の建設年月が見えなくなってる部分も多い。1925年に全部が完成してたわけじゃないのかな。でもなんか腑に落ちない。
第二発電所の建設許可は第一発電所の着工前に下りている。普通に考えれば熊本電気で110kV仕様の線路を建設して最初は
66kVで運用し、新会社はそれ引き継いで昇圧工事をしたんだと思うけどね。いくら昔でも着工して1年で全線完成は無理でしょ・・・
文献の著者は送電線の実物を見てはいないだろう。戦前の事情は九電ですら大まかにしか判らないらしい。まだまだ謎だらけだ。

 
         三池変電所全景。右の鉄塔2本が熊本から来た線路。端が110kVの2階建、隣が220kV、だと思います。

謎については置いといて、この110kV送電線は1932年には佐賀県の武雄まで延長されて南部九州の電源地帯で作られた電力を
北部九州の工業地帯へ運ぶ幹線となる。線路の所有者が代わった時から一企業の自家用送電線ではなくなったということだ。
現在も自家用であり続けているチッソの送電線との運命の分かれ道はここらへんだったんだな。

        
      三池変電所脇の110kV鉄塔、熊本側。1991年建設。             同じく佐賀側。1932年建設。 

この幹線にいくつもの会社の発電所や送電線が連系されて電力プールを形成していたとか、60Hz110kVの西部ルートのほかに
50Hz110kVの東部ルートがあって相互間の融通も行われてたとか、調べていくと全然知らなかった史実がどんどん出てきた。
東部ルートの電線路は戦後になってからの周波数統一や220kV送電線の登場などで大部分がすでに失くなっているようだ。今の
路線図から当時の線路を辿ることはできない。西部ルートの鉄塔だって現在進行で失くなりつつある。自分が「1925.2」の鉄塔に
出会ったのってものすごいラッキーだったんだなぁ・・・


注1.大正末期には熊本県の大半、昭和初期にはほぼ全域に送電していた会社。白川・菊池川・緑川の各水系に権利を持つ。
注2.大分県を中心とした九州東部が送電エリア。筑後川・山国川の水利権を保有。北九州工業地帯へも電力供給していた。

     この記事を作成するにあたっては下記を参考にさせていただきました。
      ・荻野喜弘博士「1930年代初期の福岡県大牟田における電力融通問題」(「経済学研究」2005年)
      ・山田元樹氏「大牟田の近代化遺産」
      ・電気化学工業株式会社HP
      ・九州電力株式会社HP
     また次の方々には質問へのご回答をいただいたり資料を送っていただいたりと大変お世話になりました。
      ・九州電力株式会社
        工務部送電グループ ご担当者様
        系統運用部給電運営グループ ご担当者様
     改めて厚くお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。