送電鉄塔の見える場所

稜線の向こうに消えてゆく鉄塔の列はどこへ続いているんだろう

緑川電力をめぐる事情

2011-08-22 00:45:24 | 発電所
暑い~。わが家のまわりは田んぼと畑ばっかりだから都会に比べればかなりマシだろうと思う。でも暑いよぉ。
なので、予定を変更して今回は山の中の水力発電所を取り上げることにする。
取材はカンカン照りの午後に決行した。それでも涼しかったです。やっぱり水辺はいいなぁ (*⌒▽⌒*)

     
                      津留発電所。現在はチッソ・・・じゃなかった、JNCの所有。

本題に入る前に前回の補足。
八代から弓削までの送電方向のことだ。逆向きの電線路しかなかったはずなのにどうやって?と悩んでたんだけど、そんなの
気にしなくてもいい方法があったんですね。大淀からの電力を八代で熊本電気に渡す。熊本電気は同量を弓削から送り出す。
収支が合っていさえすれば間が繋がっていようがいまいが関係ない。実際にその方法が採用されていたかどうか確認はできて
ないけど、不自然なやり方で電気を流すよりはずっと合理的だ。ご指摘下さったKitakumaさん、ありがとうございました。

   

左の鉄塔の手前の緑の屋根は津留発電所。右の鉄塔の下のクリーム色の建屋が内大臣川発電所。どちらもJNCのもの。
一方、堰と石組みの取水施設は九州電力大井早発電所のものだ。上流側から見ると津留の放水口と大井早の取水口は一体と
なっている。去年そのことを知ってからずっと不思議に思っていた。会社が違うのに太っ腹だなぁ。いや、津留は九電の所有だった
時期があったんだっけ。だから?どこかで発電用水利権は1水系1事業者だと読んだ気がするけど熊本では違うんだろうか?
その疑問が大淀の件を調べているうちにちょっぴり解けてきた。熊本電気の社史に書かれていた意外な事実!

    
            大井早発電所取水口                        大井早発電所ほぼ全景
   左が緑川本流からの流入、津留発電所放水口は手前。

昔の水利権設定の範囲について。水系をまるごと独占するわけではなく、逓信省などがあらかじめピックアップした「水力地点」に
対して水利申請をしていたようだ。一つの川に水力地点はいくつもある。水量・落差・その他諸々によって得られる出力が違う。
狭い範囲にいくつかあれば上流側か下流側か右岸か左岸かでも有利不利がある。小さな集落の電灯用に使うのなら理論出力が
あまり大きくなくても村に近いほうがいいだろう。大規模な電源開発をしたいなら一番有力な地点が欲しい。思惑が重なりあうと
奪い合いになる。明治の頃は単純に早い者勝ちだった。それが大正期に入ると審査制に変わっていった。そうなると裏から手を
回してみたり地元の会社という体裁を整えてみたり、あの手この手の戦略が講じられるようにもなる。


        水圧鉄管はいったん上の小屋の水車?を通っている。これ、まさかメインの発電機じゃないよね・・・
    
大正時代に緑川電力という会社があった。津留発電所を造ったのはここ。外見がいかにも「日窒の発電所」だから日本窒素肥料が
建てたと思ってたら、違うんだぁ。でも津留は日窒の鏡工場に電力供給するための発電所だったのになんでだろう?
一方、大井早発電所は最初は九州製紙のものだった。九州製紙~??
実のところ緑川電力は九州製紙の子会社だ。最初は九州製紙と地元有力者とで「九州水力電気期成組合」として設立し、津留と
横野の水利権を獲得。しかし組合の形では業務に制約があるということで、1917年に「緑川電力株式会社」に組織変更している。
九州製紙は緑川電力を立ち上げて本格的に電力供給事業に参入するつもりだったのかなぁ。


津留発電所裏の古い鉄塔。津留分岐連絡線1号?いまだに「日窒」w シングルテーパーのは配電鉄塔。普通に6.6kV。

ともかく津留発電所は先に運転開始していたお向かいの内大臣川発電所に続いて、1919年には鏡へ向けて電力を送り始めた。
横野発電所の建設工事も始まった。九州製紙本体は大井早発電所と並行して、球磨川河畔の美しい建屋で有名な深水発電所の
建設にも取り掛かっている。しかしこの頃になると第一次大戦景気の後に続く不況の影が落ちてくる。資金繰りが苦しくなった緑川
電力は熊本電気に引き取られることに。未完成の大井早発電所も一緒だ。「創立弐拾周年記念 熊本電気株式会社沿革史」では
この辺の事情が「イマドキは小規模事業者がやってくのは大変だからウチみたいなしっかりした会社に任せて正解よ!」みたいな
上から目線な書き方になってて笑ったw(そういう本なんです。自分たちの仕事への自負心と同業者への対抗心にあふれてます。
熱いです。いったんは熊本電気に決まりかけてた白川水利を日窒に持って行かれたことへの恨み言なんかは爆笑モノです。)
そんなこんなで1922年には熊本電気が津留・大井早・横野の3つの発電所を譲り受けた。指をくわえて見ていたに違いない緑川の
水利権を他社の窮状につけ込んでまんまとかっさらったと思うのはちょっと意地の悪すぎる見方かなw

    
 津留発電所は熊本電気になってからは近隣集落への配電も行なっていた。これはその設備だろう。向こう側のは受電用です。  

3つの発電所は他の一般供給用発電所と同じように、戦時中は日本発送電の管理下に置かれ戦後は九州電力の所有となった。
津留発電所がチッソに譲渡されたのは1964年。緑川ダムの建設に伴い、取水口が水没して運転できなくなるチッソ緑川発電所の
現物補償としてだった。今年の4月から所有者の名前がJNCに変わったけど、これはチッソが水俣病補償専業の会社となって事業
部門をすべてJNCに移したからで、運用の実態が変わったわけではありません。まあね、日窒鏡工場は85年も前に閉鎖されてて
そこに繋がってた津留発電所はそのあとはたぶん一度もチッソの系統に繋がれたことはないんですけどね(= ̄▽ ̄=)

 
  横野発電所の建屋へと階段が続く。中央の画像は水圧鉄管上部の水槽、右の画像は数十m上流寄りにある別の水槽。

3つの発電所のうち最上流の横野発電所は送電線のない発電所。道からは建屋が全然見えないうえに鉄塔もないから、入口の
標識が立ってなかったら気付かずに通り過ぎてたに違いない。建設当初は津留発電所への送電線があった。でも6.9kVで木柱と
いうから現在の配電線とあまり変わらないのか。今は6.6kVのようだった。津留に繋がっているかどうかは分からない。
この付近には津留への水路が横野への水路を跨ぎ越している所もある。そんなのを見ると「ああ、以前はどちらも同じ会社のもの
だったんだ」と実感する。

  
  崖下から上がってくる配電線。そのまま周りの集落へ送られているようだった。奥の白いポールは資材運搬用の索道。

水力発電所は明治後期から昭和初期にかけて作られたものが多い。廃止されてしまった所もあれば、何度も所有者を変えながら
生き残ってきた所もある。その特性上火力発電所などよりも寿命が長いので時代を反映したドラマをたくさん持っている。
他の発電方式に較べて水力発電所はマニアが多いってのも納得できるかなぁ~w


 追記 : 記事の内容に不正確な記述や説明不足と感じられる部分などがありましたので修正しました。
      それから、参考にさせていただいた文献・サイトを書き忘れていました。申し訳ありません。
      あらためてご紹介させていただきます。
        ・九州電力株式会社 「九州地方電気事業史」(2007年)
        ・熊本電気株式会社 「創立弐拾周年記念 熊本電気株式会社沿革史」(1929年)
        ・国立国会図書館近代デジタルライブラリー 
          逓信省電気局 「発電水力地点要覧 大正6−(9)年」(1922年)
          逓信省     「水力調査書 第5巻 水力地点表、気象表」(1923年)
        ・九州電力株式会社HP
        ・JNC株式会社HP   
        ・日本製紙株式会社HP
        ・ゴン太氏 「九州ヘリテージ>調査書>坂本隧道・旧西日本製紙株式会社工場跡」
                                                                (2011-08-23)