大淀を出発して人吉・八代・弓削を経由し三池に至る110kV送電線。これは一つの路線なんだろうか?それとも変電所間をつなぐ
複数の路線の集合体なんだろうか?「大淀幹線」という名前が判ったんだけど、この名前で呼んでいいのかなぁ・・・
だけど「南熊本人吉線」よりもずっと古いし、もっと広い範囲に使われてるようなので、差し当たってはこの名を使うことにしよう。
(三池から武雄に続くものは別の路線と考えます。理由は後述。)
「1925.2」の年月表示がある南熊本人吉線64号。近所の人は「昭和4年(1929年)にできた」という。
今回の「九州電力」はいつも語っている現在の九州電力とは違う。1930年から1939年まで存在した送電専業の会社のことだ。
紛らわしいのでこのブログでは「旧九電」と呼ばせていただく。電気化学工業と熊本電気が半分づつ出資して大淀幹線を運営する
ために立ち上げた。発電所は持たない。
「大正14年の電線路」を書いた時点では、その線路が熊本県内を通っていない九州送電のことにはあまり触れないつもりだった。
実物を見てない線路について書くのはここの主旨と違う。しかしその後、大淀幹線の誕生に九州送電も関わっていたことを知った。
頂いたコメントでこの会社に言及された方もいらっしゃった。スルーする訳にはいかないようだ。史料だけに頼った記事になるけど
ご勘弁を。まあ、妄想ばっかり書き連ねてあるよりはマシかなw
何にせよ「大正14年の電線路」未読の方がおられましたら、コメント欄も含めて先に目を通しておかれることをお勧めいたします。
「供給区域並送電線路図」(出典:熊本電気株式会社「熊本電氣の現況」1933年)
むやみに巨大でスミマセン。(||| ̄▽ ̄;)熊本電気とその系列会社の1933年(昭和8年)春頃の設備図。表題と凡例は左読み、
図中の地名等は右読みなのでご注意ください。全体に赤っぽく変色してるのは時間のせい。でも微妙に傾いてて気持ち悪いのは
自分のせいです。重ねがさねゴメンナサイ m(__;)m
大淀幹線は二重の点線で描かれている。長い。亘長93kmの苓北火力線が真ん中の折り目の左端、「富岡」の「岡」あたりから
島伝いに「甲佐」の「佐」あたりまでなので、それをモノサシにすると三池までで250kmくらい??これは旧九電の送電線が最長に
なっていた頃の姿だ。三池-武雄はこの翌年に東邦電力に譲渡された。(なので別の路線。でしょ?)
どこの区間を・いつ・どの会社が建設したのか、が問題だ。
大淀第一発電所の運転開始時に電気化学工業が大淀-八代を完成させていたのは間違いない。自分の見た「1925.2」を信じて
「八代-弓削も完成していた。造ったのは熊本電気だろう。」と考えていた。しかし、それを真っ向から否定する物証が!Σ(゜Д゜)
熊本電気の送電系統図(部分)1929年6月
出典:熊本電気株式会社「創立弐拾周年記念 熊本電気株式会社沿革史」
大淀第一発電所は稼動していたけど第二発電所が建設中で、66kV送電だった時期のもの。八代変電所に大淀からの線が入り、
八代1・2号線→松橋→松橋1・2号線→弓削→大牟田3・4号線→横須と続いている。さっきの1933年の線路図で八代から横須まで
(銀水はまた別の話)大淀幹線の西を並走している方だ。横須は熊本電気が電化の構内に置いていた変電所。もしかしたら春に
電化の裏で見た変電施設がそれだったかもしれない。とにかく1929年には大淀幹線の八代-三池は未完成だったということだ。
そうなると疑問なのが送電方向。八代線・松橋線は黒川や菊池川の発電所群からの電力を南に送る送電線だったはず。逆だよ?
2回線の片方を逆向きに使ったんだろうか?知識のある人なら系統図から読み取れるのかな。自分にはさっぱり解りません。
今度は1933年の系統図(部分) 前掲「熊本電氣の現況」より
1931年秋に大淀第二発電所が完成して110kV大淀幹線の運用が始まった。もちろんその頃には送電線もきっちり完成している。
この図は運用開始後の系統を示したものだ。大淀幹線は八代変電所を通っていても熊本電気の線路との連系はない。代わりに
弓削で繋がるようになっている。この線は大淀第一・第二(当時は電化の子会社である大淀川水力電気の所有)からだけでなく、
人吉で球磨川電気、弓削で熊本電気から受電して三池に運んでいた。供給先も電化だけじゃない。三井鉱山・東邦電力・九州
水力電気があった。旧九電は「集めて・運んで・配る」という画期的な電力事業者だったわけだ。電力の需給バランスが悪ければ
九州のもう一つの110kV幹線を持つ九州送電との間で融通し合うこともできた。うむ。やっと九州送電が出てきたなw
いや、大淀幹線と九州送電との関わりはそれだけじゃないんです。またもや大きくて申し訳ないけど次の図を見ていただきたい。
国立国会図書館近代デジタルライブラリー収録
「熊本逓信局管内電気事業概要 第7回(大正13年9月)」より一部を転載。
↑クリックで元の史料へ移動できます。
こちらは熊本逓信局管内の1924年(大正13年)4月時点の送電線図。自家用・供給用すべての「送電線」が記載されている。
右下の「大淀第一変電所」から北へ向かう点線がある。耳川変電所で2本に別れ、片方は大分から北九州へ、もう片方は熊本を
横断して大牟田へ。この大牟田行きが計画段階の大淀幹線だ。建設は九州送電が行う予定だった。それが旧九電に変更された
経緯は前の記事のコメント欄に書いたのでここには繰り返しません。
1924年4月には建設申請が耳川経由のルートで出されていたのに、翌年2月には全然違う場所に鉄塔が建った。南熊本人吉線の
「1925.2」が正しければそういうことになる。どうも1924年頃には電化はすでに九州送電を諦めていたらしい。大淀川水力電気を
熊本電気と合併させようとして宮崎県に却下されている。この子会社、元々は九州送電計画のために作ったようなんだけどねぇ。
つまりこの図は九州送電設立の遅れにしびれを切らして水面下で人吉経由ルートを画策していた時期のものってことだ。
合併がダメなら新会社ってことで旧九電を作ることになったんじゃないかと。妄想ですか?
どのみち鉄塔建設が1925年なら旧九電の設立より前だ。ルート変更もいつ申請していつ許可になったかは判らない。でも新会社
設立を前提に早くから線路建設準備が進められていた可能性はある。許可が下りて即着工!1年たらずで鉄塔だけ何基か建てた
とか。熊本電気側の記録には建設に関する記載が見当たらない。電化側の文献はまだ見てないな。電化が準備したのかな。
どうなんだろう。今の九電が何の根拠もなく年月表示するとも思えない。その辺尋ねてみたいんだけど今はちょっと、ねー。(´д`)
この送電線についての調査はまだまだ続けますよ!未だ不明な事柄もいずれ明らかになる・・・といいな~。
大淀幹線運用開始後の各社の送電線の様子が知りたい方はこちらでどうぞ。
国立国会図書館近代デジタルライブラリー
「熊本逓信局管内電気事業要覧 第18−22回 [第7冊]熊本逓信局管内送電線路及發電所圖(昭和12年6月)」
この記事の作成に当たっては以下の文献も参考にさせていただきました。
・九州電力株式会社「九州地方電気事業史」(2007年)
・荻野喜弘博士「1930年代初期の福岡県大牟田における電力融通問題」(「経済学研究」2005年)
複数の路線の集合体なんだろうか?「大淀幹線」という名前が判ったんだけど、この名前で呼んでいいのかなぁ・・・
だけど「南熊本人吉線」よりもずっと古いし、もっと広い範囲に使われてるようなので、差し当たってはこの名を使うことにしよう。
(三池から武雄に続くものは別の路線と考えます。理由は後述。)
「1925.2」の年月表示がある南熊本人吉線64号。近所の人は「昭和4年(1929年)にできた」という。
今回の「九州電力」はいつも語っている現在の九州電力とは違う。1930年から1939年まで存在した送電専業の会社のことだ。
紛らわしいのでこのブログでは「旧九電」と呼ばせていただく。電気化学工業と熊本電気が半分づつ出資して大淀幹線を運営する
ために立ち上げた。発電所は持たない。
「大正14年の電線路」を書いた時点では、その線路が熊本県内を通っていない九州送電のことにはあまり触れないつもりだった。
実物を見てない線路について書くのはここの主旨と違う。しかしその後、大淀幹線の誕生に九州送電も関わっていたことを知った。
頂いたコメントでこの会社に言及された方もいらっしゃった。スルーする訳にはいかないようだ。史料だけに頼った記事になるけど
ご勘弁を。まあ、妄想ばっかり書き連ねてあるよりはマシかなw
何にせよ「大正14年の電線路」未読の方がおられましたら、コメント欄も含めて先に目を通しておかれることをお勧めいたします。
「供給区域並送電線路図」(出典:熊本電気株式会社「熊本電氣の現況」1933年)
むやみに巨大でスミマセン。(||| ̄▽ ̄;)熊本電気とその系列会社の1933年(昭和8年)春頃の設備図。表題と凡例は左読み、
図中の地名等は右読みなのでご注意ください。全体に赤っぽく変色してるのは時間のせい。でも微妙に傾いてて気持ち悪いのは
自分のせいです。重ねがさねゴメンナサイ m(__;)m
大淀幹線は二重の点線で描かれている。長い。亘長93kmの苓北火力線が真ん中の折り目の左端、「富岡」の「岡」あたりから
島伝いに「甲佐」の「佐」あたりまでなので、それをモノサシにすると三池までで250kmくらい??これは旧九電の送電線が最長に
なっていた頃の姿だ。三池-武雄はこの翌年に東邦電力に譲渡された。(なので別の路線。でしょ?)
どこの区間を・いつ・どの会社が建設したのか、が問題だ。
大淀第一発電所の運転開始時に電気化学工業が大淀-八代を完成させていたのは間違いない。自分の見た「1925.2」を信じて
「八代-弓削も完成していた。造ったのは熊本電気だろう。」と考えていた。しかし、それを真っ向から否定する物証が!Σ(゜Д゜)
熊本電気の送電系統図(部分)1929年6月
出典:熊本電気株式会社「創立弐拾周年記念 熊本電気株式会社沿革史」
大淀第一発電所は稼動していたけど第二発電所が建設中で、66kV送電だった時期のもの。八代変電所に大淀からの線が入り、
八代1・2号線→松橋→松橋1・2号線→弓削→大牟田3・4号線→横須と続いている。さっきの1933年の線路図で八代から横須まで
(銀水はまた別の話)大淀幹線の西を並走している方だ。横須は熊本電気が電化の構内に置いていた変電所。もしかしたら春に
電化の裏で見た変電施設がそれだったかもしれない。とにかく1929年には大淀幹線の八代-三池は未完成だったということだ。
そうなると疑問なのが送電方向。八代線・松橋線は黒川や菊池川の発電所群からの電力を南に送る送電線だったはず。逆だよ?
2回線の片方を逆向きに使ったんだろうか?知識のある人なら系統図から読み取れるのかな。自分にはさっぱり解りません。
今度は1933年の系統図(部分) 前掲「熊本電氣の現況」より
1931年秋に大淀第二発電所が完成して110kV大淀幹線の運用が始まった。もちろんその頃には送電線もきっちり完成している。
この図は運用開始後の系統を示したものだ。大淀幹線は八代変電所を通っていても熊本電気の線路との連系はない。代わりに
弓削で繋がるようになっている。この線は大淀第一・第二(当時は電化の子会社である大淀川水力電気の所有)からだけでなく、
人吉で球磨川電気、弓削で熊本電気から受電して三池に運んでいた。供給先も電化だけじゃない。三井鉱山・東邦電力・九州
水力電気があった。旧九電は「集めて・運んで・配る」という画期的な電力事業者だったわけだ。電力の需給バランスが悪ければ
九州のもう一つの110kV幹線を持つ九州送電との間で融通し合うこともできた。うむ。やっと九州送電が出てきたなw
いや、大淀幹線と九州送電との関わりはそれだけじゃないんです。またもや大きくて申し訳ないけど次の図を見ていただきたい。
国立国会図書館近代デジタルライブラリー収録
「熊本逓信局管内電気事業概要 第7回(大正13年9月)」より一部を転載。
↑クリックで元の史料へ移動できます。
こちらは熊本逓信局管内の1924年(大正13年)4月時点の送電線図。自家用・供給用すべての「送電線」が記載されている。
右下の「大淀第一変電所」から北へ向かう点線がある。耳川変電所で2本に別れ、片方は大分から北九州へ、もう片方は熊本を
横断して大牟田へ。この大牟田行きが計画段階の大淀幹線だ。建設は九州送電が行う予定だった。それが旧九電に変更された
経緯は前の記事のコメント欄に書いたのでここには繰り返しません。
1924年4月には建設申請が耳川経由のルートで出されていたのに、翌年2月には全然違う場所に鉄塔が建った。南熊本人吉線の
「1925.2」が正しければそういうことになる。どうも1924年頃には電化はすでに九州送電を諦めていたらしい。大淀川水力電気を
熊本電気と合併させようとして宮崎県に却下されている。この子会社、元々は九州送電計画のために作ったようなんだけどねぇ。
つまりこの図は九州送電設立の遅れにしびれを切らして水面下で人吉経由ルートを画策していた時期のものってことだ。
合併がダメなら新会社ってことで旧九電を作ることになったんじゃないかと。妄想ですか?
どのみち鉄塔建設が1925年なら旧九電の設立より前だ。ルート変更もいつ申請していつ許可になったかは判らない。でも新会社
設立を前提に早くから線路建設準備が進められていた可能性はある。許可が下りて即着工!1年たらずで鉄塔だけ何基か建てた
とか。熊本電気側の記録には建設に関する記載が見当たらない。電化側の文献はまだ見てないな。電化が準備したのかな。
どうなんだろう。今の九電が何の根拠もなく年月表示するとも思えない。その辺尋ねてみたいんだけど今はちょっと、ねー。(´д`)
この送電線についての調査はまだまだ続けますよ!未だ不明な事柄もいずれ明らかになる・・・といいな~。
大淀幹線運用開始後の各社の送電線の様子が知りたい方はこちらでどうぞ。
国立国会図書館近代デジタルライブラリー
「熊本逓信局管内電気事業要覧 第18−22回 [第7冊]熊本逓信局管内送電線路及發電所圖(昭和12年6月)」
この記事の作成に当たっては以下の文献も参考にさせていただきました。
・九州電力株式会社「九州地方電気事業史」(2007年)
・荻野喜弘博士「1930年代初期の福岡県大牟田における電力融通問題」(「経済学研究」2005年)