送電鉄塔の見える場所

稜線の向こうに消えてゆく鉄塔の列はどこへ続いているんだろう

九州送電と九州電力

2011-07-18 06:29:57 | 戦前の幹線
大淀を出発して人吉・八代・弓削を経由し三池に至る110kV送電線。これは一つの路線なんだろうか?それとも変電所間をつなぐ
複数の路線の集合体なんだろうか?「大淀幹線」という名前が判ったんだけど、この名前で呼んでいいのかなぁ・・・
だけど「南熊本人吉線」よりもずっと古いし、もっと広い範囲に使われてるようなので、差し当たってはこの名を使うことにしよう。
(三池から武雄に続くものは別の路線と考えます。理由は後述。)

       
         「1925.2」の年月表示がある南熊本人吉線64号。近所の人は「昭和4年(1929年)にできた」という。

今回の「九州電力」はいつも語っている現在の九州電力とは違う。1930年から1939年まで存在した送電専業の会社のことだ。
紛らわしいのでこのブログでは「旧九電」と呼ばせていただく。電気化学工業と熊本電気が半分づつ出資して大淀幹線を運営する
ために立ち上げた。発電所は持たない。

大正14年の電線路」を書いた時点では、その線路が熊本県内を通っていない九州送電のことにはあまり触れないつもりだった。
実物を見てない線路について書くのはここの主旨と違う。しかしその後、大淀幹線の誕生に九州送電も関わっていたことを知った。
頂いたコメントでこの会社に言及された方もいらっしゃった。スルーする訳にはいかないようだ。史料だけに頼った記事になるけど
ご勘弁を。まあ、妄想ばっかり書き連ねてあるよりはマシかなw
何にせよ「大正14年の電線路」未読の方がおられましたら、コメント欄も含めて先に目を通しておかれることをお勧めいたします。


               「供給区域並送電線路図」(出典:熊本電気株式会社「熊本電氣の現況」1933年)

むやみに巨大でスミマセン。(||| ̄▽ ̄;)熊本電気とその系列会社の1933年(昭和8年)春頃の設備図。表題と凡例は左読み、
図中の地名等は右読みなのでご注意ください。全体に赤っぽく変色してるのは時間のせい。でも微妙に傾いてて気持ち悪いのは
自分のせいです。重ねがさねゴメンナサイ m(__;)m
大淀幹線は二重の点線で描かれている。長い。亘長93kmの苓北火力線が真ん中の折り目の左端、「富岡」の「岡」あたりから
島伝いに「甲佐」の「佐」あたりまでなので、それをモノサシにすると三池までで250kmくらい??これは旧九電の送電線が最長に
なっていた頃の姿だ。三池-武雄はこの翌年に東邦電力に譲渡された。(なので別の路線。でしょ?)

どこの区間を・いつ・どの会社が建設したのか、が問題だ。
大淀第一発電所の運転開始時に電気化学工業が大淀-八代を完成させていたのは間違いない。自分の見た「1925.2」を信じて
「八代-弓削も完成していた。造ったのは熊本電気だろう。」と考えていた。しかし、それを真っ向から否定する物証が!Σ(゜Д゜)

  
                       熊本電気の送電系統図(部分)1929年6月
              出典:熊本電気株式会社「創立弐拾周年記念 熊本電気株式会社沿革史」

大淀第一発電所は稼動していたけど第二発電所が建設中で、66kV送電だった時期のもの。八代変電所に大淀からの線が入り、
八代1・2号線→松橋→松橋1・2号線→弓削→大牟田3・4号線→横須と続いている。さっきの1933年の線路図で八代から横須まで
(銀水はまた別の話)大淀幹線の西を並走している方だ。横須は熊本電気が電化の構内に置いていた変電所。もしかしたら春に
電化の裏で見た変電施設がそれだったかもしれない。とにかく1929年には大淀幹線の八代-三池は未完成だったということだ。
そうなると疑問なのが送電方向。八代線・松橋線は黒川や菊池川の発電所群からの電力を南に送る送電線だったはず。逆だよ?
2回線の片方を逆向きに使ったんだろうか?知識のある人なら系統図から読み取れるのかな。自分にはさっぱり解りません。

       
                 今度は1933年の系統図(部分) 前掲「熊本電氣の現況」より

1931年秋に大淀第二発電所が完成して110kV大淀幹線の運用が始まった。もちろんその頃には送電線もきっちり完成している。
この図は運用開始後の系統を示したものだ。大淀幹線は八代変電所を通っていても熊本電気の線路との連系はない。代わりに
弓削で繋がるようになっている。この線は大淀第一・第二(当時は電化の子会社である大淀川水力電気の所有)からだけでなく、
人吉で球磨川電気、弓削で熊本電気から受電して三池に運んでいた。供給先も電化だけじゃない。三井鉱山・東邦電力・九州
水力電気があった。旧九電は「集めて・運んで・配る」という画期的な電力事業者だったわけだ。電力の需給バランスが悪ければ
九州のもう一つの110kV幹線を持つ九州送電との間で融通し合うこともできた。うむ。やっと九州送電が出てきたなw
いや、大淀幹線と九州送電との関わりはそれだけじゃないんです。またもや大きくて申し訳ないけど次の図を見ていただきたい。

          
                       国立国会図書館近代デジタルライブラリー収録
                 「熊本逓信局管内電気事業概要 第7回(大正13年9月)」より一部を転載。
                                 ↑クリックで元の史料へ移動できます。

こちらは熊本逓信局管内の1924年(大正13年)4月時点の送電線図。自家用・供給用すべての「送電線」が記載されている。
右下の「大淀第一変電所」から北へ向かう点線がある。耳川変電所で2本に別れ、片方は大分から北九州へ、もう片方は熊本を
横断して大牟田へ。この大牟田行きが計画段階の大淀幹線だ。建設は九州送電が行う予定だった。それが旧九電に変更された
経緯は前の記事のコメント欄に書いたのでここには繰り返しません。
1924年4月には建設申請が耳川経由のルートで出されていたのに、翌年2月には全然違う場所に鉄塔が建った。南熊本人吉線の
「1925.2」が正しければそういうことになる。どうも1924年頃には電化はすでに九州送電を諦めていたらしい。大淀川水力電気を
熊本電気と合併させようとして宮崎県に却下されている。この子会社、元々は九州送電計画のために作ったようなんだけどねぇ。
つまりこの図は九州送電設立の遅れにしびれを切らして水面下で人吉経由ルートを画策していた時期のものってことだ。
合併がダメなら新会社ってことで旧九電を作ることになったんじゃないかと。妄想ですか?
どのみち鉄塔建設が1925年なら旧九電の設立より前だ。ルート変更もいつ申請していつ許可になったかは判らない。でも新会社
設立を前提に早くから線路建設準備が進められていた可能性はある。許可が下りて即着工!1年たらずで鉄塔だけ何基か建てた
とか。熊本電気側の記録には建設に関する記載が見当たらない。電化側の文献はまだ見てないな。電化が準備したのかな。
どうなんだろう。今の九電が何の根拠もなく年月表示するとも思えない。その辺尋ねてみたいんだけど今はちょっと、ねー。(´д`)
この送電線についての調査はまだまだ続けますよ!未だ不明な事柄もいずれ明らかになる・・・といいな~。

大淀幹線運用開始後の各社の送電線の様子が知りたい方はこちらでどうぞ。
  国立国会図書館近代デジタルライブラリー 
  「熊本逓信局管内電気事業要覧 第18−22回 [第7冊]熊本逓信局管内送電線路及發電所圖(昭和12年6月)」

この記事の作成に当たっては以下の文献も参考にさせていただきました。
 ・九州電力株式会社「九州地方電気事業史」(2007年)
 ・荻野喜弘博士「1930年代初期の福岡県大牟田における電力融通問題」(「経済学研究」2005年)

            

苓北火力線 195-193号

2011-06-13 00:16:54 | 苓北火力線
195号へは萩尾大溜池の堰堤北端に上がる農道から右折して入る。でもこの道、入口付近は轍が完全にえぐれてしまっていて
4WDでないとちょっと無理。徒歩で行くことにした。上のほうはいい道なのに (´д`)



登りきると視界が開ける。海の見える敷地はこれでいくつ目だっけ、だんだん海岸線が近づいてきた。ここへ行ったのは11月初旬
だったから湿度があまり高くなくて天草まで見渡せた。熊本の沿岸部では春は黄砂、夏場はモヤが多くて、景色なんて全然期待
できないのですよ。まあ、季節感がズレているのは勘弁してくださいませ。

 

前回書いたように195号の航空障害灯は静電誘導方式なので鉄塔には機材の類は載ってない。上部には何かあるんだろうけど
下からじゃ分からない。鉄塔の上を見てみたいなぁ。登らなくても見えるような低い鉄塔ってないだろうかw
しかし午前の光で見る結界は明るい。夕陽を浴びている時のような艶っぽさはないけれどすっきり爽やかでこれも良いですね♪

次の194号へは細い山道を行く。傾斜の緩い下りだから楽勝~。小山を半分降りたあたりにぼうぼう茂った結界があった。



中に入れないというほどじゃない。でもクモの巣だらけだ。秋の大きなコガネグモの巣は意外に丈夫で簡単には振り払えない。
結界の外側はもう完全に藪。枝が伸びてきているから上部を撮ろうとすると写り込んでしまう。真っ赤に色づいたハゼの葉と鉄塔の
組み合わせは秋らしいからいいかー。青空とのコントラストは悪くない。涼しくて気持ちがいいのでなんでも許せてしまう気分。

 

ここで持ってきたお弁当を食べることにする。この日は代休だったんだけど姑には仕事のフリして家を出てきたんだよねw でないと
一日中鉄塔巡りなんてできないからさぁ・・・なんという不良ヨメw でもこれから行き先がもっと遠くなってきたらどうしようかな。
そろそろ送電線趣味を白状するべきかなぁ。
座り込んであれこれ考えていたら眠くなってきた。いいかげんで次へ行かないと。立ち上がってまた坂を下って行く。

          

193号はもうほとんど平地と言っていい。どんどん降りてゆくとミカン畑の向こうに姿が現れた。続きの鉄塔もほぼ同じ平面上に
並んでいるのが見える。先の方に頭だけ見えてるのは191号だ。191号については過去にレポートしてるけど古いケータイで撮った
画像はボロボロだしその後何度も再訪してるし、このシリーズ次の回で改めてレポートしますね^^;

 
        11月5日 老番側から結界を見る                   1月7日 同じ場所を若番側から

さて敷地にたどり着くと…なんだこれー!背丈より高く葛がもくもく絡まりあってて結界に突入するのは無理っぽい。チャレンジは
したんですよー。でもダメでした。かずらは潅木よりもタチが悪い。なので葛がすっかり枯れてしまった年明けにリベンジを敢行。
霜柱をざくざく踏んでついに結界中心に到達!\(^-^)/バンザーイ
枯れ草の塊に突っ込んでゆく自分を近所の方が訝しげに見ておられたようだったが知るものかw 通報されなくてよかったww

 

それでもやっぱり視界クリアな結界画像とはいかなかった。でもこれはこれで冬の味わいが出ているということにしといて下さい。


次回はどうしよう。去年見つけた廃線のことを書こうか、戦前の資料集的なものを入れるか。資料集だと写真もなんもない堅苦しい
回になっちゃうかなぁ。悩む。

苓北火力線 198-196号

2011-05-25 23:32:12 | 苓北火力線
 
                       桜の季節に。左から197号・198号・199号。

3月に自分専用のPCを手に入れて、更新頻度を上げるつもりがますます遅くなってます・・・スミマセンm(_ _;;m
去年失敗したので今年は田植えが始まる前に写真だけでも撮っとこうと走り回ってたら、画像ファイルがどえらいことに。_| ̄|○ 
そんなこんなでちょっと疲れ気味なので今回は癒しの苓北火力線です。 (* ̄ー ̄)~♪ ゆったり眺めてくださいね。

          
    
198号は200号の向こうから尾根を続いてきた道の突き当たり。車でそばまで入れるので例のごとく仕事の帰りに立ち寄ってみた。
北向きの急斜面に夕陽が差し込んでいる。入口の正面に航空障害灯用の電柱が立っていた。番号札のあるB脚は一番下かw

  

これは職場から見える5本の紅白鉄塔の右端にあたる。午後ずっと「早く終えたい~、あそこに行きたい~」とちらちら眺めていた
場所に来てるんだ・・・ 工場の方向に目を向けても木々に遮られて見通しが利かない。航空障害灯の高さからなら見えるかな。
草の伸びた結界に入り込んで頭上を仰ぐと電線が端正な「>」を描いている。空の色に紅白が映える。紅白塗装は晴れた夕暮れが
いちばん鮮やかだ。九州電力の赤は橙色に近い。広島で見たのはもっと真っ赤だったような気がする。塗色の規定では「赤及び白
又は黄赤及び白」となってるから九電では「黄赤」を使っているんだろう。
立ち去り際にもう一度見上げると、まだ明るい空を背景にぽぉっと航空障害灯が点っていた。ああ、和むなぁ(^-^)

「←197号」の標識は198号近くの道端で見つけていた。細いけど歩きやすい山道・・・だったのは最初だけで、進むにつれて土が
えぐれて階段が浮き上がっていたりなくなっていたり。この道、もう使われていないっぽい。しかも急傾斜で下っていく。そのうちに
せせらぎの音が聞こえ始めた。198号からはほぼ同じ高さに197号が見えていた。だから尾根伝いにすぐ行けると思ったんだけど、
いったん谷底まで降りてから登り返さなくちゃいけないのなら日暮れ時に行くのは無謀すぎるな。

  

というわけで別のルートを捜して出直しするはずが、そのまま梅雨に突入し猛暑にへたばり、ようやっと197号にたどり着いたのは
もう野菊の咲く頃だった。なので鉄塔の周りにはムカゴだのアケビだの秋の恵みがたっぷりと。いや~美味でした ( ̄▽ ̄)V
(ホントは山のものは勝手に採っちゃだめです。地主さんの所有物ですから。この場合の地主さんは九電ですね。ゴメンナサイ。)

 

これにも航空障害灯用の配電線が繋いである。同時に絶縁架空地線(IGW)にもなっている。IGWは195号の航空障害灯用か。
198号・197号は配電線に繋がってるのになぜ195号だけ静電誘導方式?1本だけ低光度だから?これまでに見つけた静電誘導
方式採用の206号と204号も低光度だった。メーカーの製品情報を見ると静電誘導方式の航空障害灯を作っているのは1社だけ。
しかも低光度の1種類だけ。そうなんだー。中光度以上だと必要な電力を取り出すための仕組みが大掛かりになってしまうらしい。
研究はしたけど製品化には至ってないというところだ。技術的に可能だということとビジネスとして引き合うかどうかということは
まるっきり別の話だもんなぁ。

参考までに。
 低光度航空障害灯
  点滅しない赤色灯。60m以上90m未満の鉄塔の場合、頂上と中央あたりに取り付ける。
 中光度赤色航空障害灯
  点滅する赤色灯。90m以上150m未満の鉄塔の頂部に取り付ける。
  (あわせて塔高が105m未満なら2等分、105m以上なら3等分する位置に低光度航空障害灯を設置。)
 中光度白色航空障害灯
  白色の閃光。低光度や中光度赤色に代えて設置することがある。塔高105m未満なら頂部だけ、105m以上なら頂部と中央。
 高光度航空障害灯
  白色の閃光。塔高が150m以上になると頂部にこれ、途中に中光度白色(間隔は塔の高さによる)。

しかし自分、よっぽど航空障害灯が好きらしい・・・ スペーサーも萌えポイントだったり。     

 

次の196号はブラックバスで有名な萩尾大溜池の堰堤の脇。広めの敷地に鉄塔が2本並んで建っている。もう1本は上下ともに
110kV仕様、南熊本松橋線/南熊本宇土線の4回線。紅白ですらないのに下相の線が4回線鉄塔を軽く越えていくんですよ!
真ん中の架空地線に白い碍子が入っているのが見える。IGWがどういうものなのか実はよく理解できてないんだけど、充分な
電力を得るためには相応の長さの閉じた回路が必要らしいので、197号から195号までの間は鉄塔を伝って電気が流れていって
しまわないように碍子を入れてるってことで合ってるのかな?

  

この辺は南側はいくつも並んだ溜池、北側はゴルフ場というロケーションで、小山の頂上から頂上へと電線路が飛んで行く。
角度鉄塔の連続だ。こういうのっていいなぁ (〃▽〃)


予告。次回も苓北火力線の続きです。旅の方はこれを書いてる時点では180号まで到達してます。忘れないうちに書かないと!
ただし今後しばらくは大正鉄塔の取材を優先するつもりでいます。何本かは今年中に建て替えられるとか弓削分岐線の改編とか
古鉄塔解体につながるような情報がいくつか出てきたのです。なくなってしまう前にひとつでも多く見ておきたい。
苓北火力線も大正鉄塔も行こうとする先が自宅から遠くなってきました。ガソリン価格が高騰しないことを祈るばかりです・・・

大正14年の電線路

2011-04-17 01:30:06 | 戦前の幹線
はじめに訂正と反省を少々。前々回の「鉄塔の年齢を知る」で九州地区内に送電線を持ってるのは九州電力・電源開発・チッソと
書きましたが、今回あれこれ調べている途中で三井系の送電線がまだあることと宮崎県企業局と大分県企業局も持っているのを
知りました。自治体は盲点だったな。熊本県が持ってないからそういうもんなんだと思い込んでました。ごめんなさい。では本題に。


  
                   熊本県宇城市に立つ大正鉄塔の列。人吉は奥の山の向こう。

元・南熊本人吉線に1925年当時110kVで電力を送り出していた発電所はどこだったのか」の問いに九州電力から返事が来た。
「建設当時の電源は不明です。1951年にはこの線路は弓削-人吉-大淀と続いており、大淀が電源側でした。」
え、人吉が終点じゃないの?送電方向が逆だった?
大淀…確か宮崎県に大淀川ってあったよね。人吉どころじゃない、めちゃくちゃ遠くないかぁ?弓削も熊本市内ではあるけれど
北寄りだ。こっちの端も少し遠くなった。

 
                      弓削変電所付近の鉄塔群。新旧さまざま。大小いろいろ。

探してみると九電宮崎支店のサイトの中に「1925年12月 大淀川発電所運転開始」の記載がある。場所は現在の都城市高岡町、
宮崎県でも南の端に近い。やっぱり遠いよー。建設したのは電気化学工業。福岡県の大牟田工場に送電していたらしい。
また線路が延びた。三池炭鉱の街じゃないか。石炭を燃やす古い火力発電所がいくつかあったはずだ。なんでまた遠い都城に
水力発電所を建設しなきゃいけなかったんだろう。

 
                  線路の中継地のひとつ、三池変電所に入ってくる熊本からの電線路。

電気化学工業は1915年に苫小牧で創業。王子製紙の余剰電力を使ってカーバイドや窒素肥料の製造を始めた。第1次大戦中の
好景気で紙の増産のため電力を回してもらえなくなったことから三井鉱山が持っていた余剰電力に目を付けて1916年に大牟田に
進出してきた。その5年後には糸魚川に水力発電所を備えた大工場を建設しているし、現在も北陸電力と折半で卸電力の会社に
出資していたり千葉工場にLNG火力発電設備を持っていたり、一貫して電源の開発に力を入れている会社だ。
自家発電と窒素肥料といえば思い出すのはチッソ。戦前の日本窒素肥料と電気化学工業とはシェアを競い合う2大勢力だった。

 
           現在の電気化学工業株式会社大牟田工場。正門への行き方が分かりませんでした・・・

三井鉱山からの融通(鉱山は熊本電気注1と送電契約をしてはいたけれど蒸気力利用が大半で電力はほとんど使わなかった)に
加えて熊本電気と九州水力電気注2からも供給を受けて生産開始した電化大牟田工場はやがて自前の電源確保を考え始める。
それが大淀川発電所だ。なぜもっと近い場所にしなかったのか。問題はどうやら水利権にあったらしい。その頃の各社入り乱れた
水系の奪い合いは相当に熾烈なものだったという。
電化は大淀川河口に新工場を建設する計画で水利権を獲得した。しかし後に送電線建設+大牟田工場拡張へと方針を変更して
しまう。これには宮崎県民が猛反発。大規模な県外送電反対運動が巻き起こった。県側では外部の資本家が続々と水利権を
申請してくることに危機感を抱いて、県内での操業を許可の条件にしていたんだから地元が納得しなかったのは当然だよなぁ。

    
     工場の海側に変電設備がありました。この鉄塔は九電のものではなさそう。三井の発電所からの線路でしょう。

そんな大騒動の末にようやく発電所が完成し1926年1月には送電開始…あれ?資料によって12月だったり1月だったり記載が
まちまちなんですよ。12月に試運転を始めて1月から本格稼動だったのかもしれないけど詳細不明。それよりも。その時の電圧は
66kVだったそうだ。大淀川発電所というのは現在の大淀川第一発電所。電化は続けて大淀川第二発電所の建設に取りかかり
1931年に完成させている。110kV送電が始まるのはここからだ。なんだけど・・・送電線について文献に気になる記述が。
66kV送電開始時には大淀-八代は電化が線路を新設、八代-大牟田は熊本電気の送電線を使ったと書いてある。第二発電所の
運転開始に先立って電化と熊本電気が共同出資して送電専門の新会社を立ち上げ、この会社が1930年代に入って大淀-八代間
送電線の110kV仕様への改修と八代-大牟田の新線路建設を行なったのだという。
はじめの熊本電気の66kV送電線って、別の線路があったってこと?いや、あったけどアレはアレで使用中だったはず。
現存する鉄塔の年月表示との整合性は?自分が見た「1925.2」の鉄塔は八代-大牟田区間にある。弓削より北はまだ見てないし
当初の建設年月が見えなくなってる部分も多い。1925年に全部が完成してたわけじゃないのかな。でもなんか腑に落ちない。
第二発電所の建設許可は第一発電所の着工前に下りている。普通に考えれば熊本電気で110kV仕様の線路を建設して最初は
66kVで運用し、新会社はそれ引き継いで昇圧工事をしたんだと思うけどね。いくら昔でも着工して1年で全線完成は無理でしょ・・・
文献の著者は送電線の実物を見てはいないだろう。戦前の事情は九電ですら大まかにしか判らないらしい。まだまだ謎だらけだ。

 
         三池変電所全景。右の鉄塔2本が熊本から来た線路。端が110kVの2階建、隣が220kV、だと思います。

謎については置いといて、この110kV送電線は1932年には佐賀県の武雄まで延長されて南部九州の電源地帯で作られた電力を
北部九州の工業地帯へ運ぶ幹線となる。線路の所有者が代わった時から一企業の自家用送電線ではなくなったということだ。
現在も自家用であり続けているチッソの送電線との運命の分かれ道はここらへんだったんだな。

        
      三池変電所脇の110kV鉄塔、熊本側。1991年建設。             同じく佐賀側。1932年建設。 

この幹線にいくつもの会社の発電所や送電線が連系されて電力プールを形成していたとか、60Hz110kVの西部ルートのほかに
50Hz110kVの東部ルートがあって相互間の融通も行われてたとか、調べていくと全然知らなかった史実がどんどん出てきた。
東部ルートの電線路は戦後になってからの周波数統一や220kV送電線の登場などで大部分がすでに失くなっているようだ。今の
路線図から当時の線路を辿ることはできない。西部ルートの鉄塔だって現在進行で失くなりつつある。自分が「1925.2」の鉄塔に
出会ったのってものすごいラッキーだったんだなぁ・・・


注1.大正末期には熊本県の大半、昭和初期にはほぼ全域に送電していた会社。白川・菊池川・緑川の各水系に権利を持つ。
注2.大分県を中心とした九州東部が送電エリア。筑後川・山国川の水利権を保有。北九州工業地帯へも電力供給していた。

     この記事を作成するにあたっては下記を参考にさせていただきました。
      ・荻野喜弘博士「1930年代初期の福岡県大牟田における電力融通問題」(「経済学研究」2005年)
      ・山田元樹氏「大牟田の近代化遺産」
      ・電気化学工業株式会社HP
      ・九州電力株式会社HP
     また次の方々には質問へのご回答をいただいたり資料を送っていただいたりと大変お世話になりました。
      ・九州電力株式会社
        工務部送電グループ ご担当者様
        系統運用部給電運営グループ ご担当者様
     改めて厚くお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

これからのこと、初代たぬ猫のこと。

2011-03-28 00:05:18 | 雑記
春を迎えて浮き立っていた気持ちを一気に冷やしてしまった恐ろしい地震の発生から半月が経ちました。
震災で命を落とされた方々のご冥福を心よりお祈りいたします。また辛い日々を送っていらっしゃる被災地の皆様が一日も早く
落ち着いた暮らしを取り戻せることを願って止みません。加えて救援活動や復旧作業に尽力しておられる皆様に心からの敬意と
感謝を送ります。

まだ余震が続いていますし福島第一原発の現状もとても大丈夫などとは言える段階ではありません。それでも復興に向けて
あちこちで活動が始まっています。いつまでも非常時ではないのです。これからは震災後の日常を生きていくのです。
今度の震災では計画停電の混乱とか物資の不足など、天災とはいえない騒動も起きました。これらは東日本だけの問題では
ないでしょう。日本の社会が抱え込んでいた無理が表に出たんです。これまでのライフスタイルを根本から見つめ直す。
これも「今、自分にできること」です。こんな時だからこそ改めるべきところは改めていきましょうよ。
今回はこのブログの趣旨からはまるっきり外れた内容ですけどちょっとだけ言わせて下さい。

               
                             初代たぬ猫 目つきがヤンキーでした

今回の事態は自分たちの生活がどれだけ電力に依存しているかを思い知らせてくれました。長時間の停電を経験された方は
どうしても必要なものとそうでもないものを改めて意識されたことでしょう。
自分は1999年の台風18号のあと5日間電気のない生活を送りました。9月下旬の出来事で冷暖房は要りませんでしたから一番
困ったのは冷蔵庫です。3日で中身が全滅しました。傷み始めた食材を一緒に片付けてくれたのが初代たぬ猫です。
当時住んでいたアパート周辺が縄張りだった野良猫で、基本的には自分で狩りをして生きてる奴でした。台風の通り過ぎた朝、
引きちぎられた水道管や潰れた車や折れた電柱を目にして途方に暮れる人間どもの前に普段と変わらぬ態度で現われました。
停電も断水も野良猫には無縁なんですよね…
電気も水も来ない部屋の中でのキャンプもどきの生活だって数日で終わると思えばそれほど辛くはありません。(多少テンションが
変になってたのは認めます。)かえって本当に必要なものが分かってスッキリした気分でした。これからは猫のようにシンプルに
生きようと決心し、初代たぬ猫師匠に弟子入りしました。食料は自力で調達、宵越しの金なんざ持たねぇぜ!ならカッコよかったん
ですが…そういう訳にもいかずw。一度便利で豊かな生活を知ってしまったらそれを手放すことは至難の業です。結局いまだに
「文明生活」と決別できずにいます。まあ少しは変わったかな。物欲は減りました。田舎での貧乏暮らしが楽しくなりました。
そこらへんは気の持ちようです。

人間は食物連鎖の輪から半端に抜け出した特殊な存在です。生物としては相当な困ったちゃんです。けれど自然の恩恵なしでは
生きていけません。そのことを自覚して謙虚になりましょう。自然を押さえ込もうなどと思い上がったところで太刀打ちできるもんじゃ
ないことは言うまでもありません。そういう視点に立ってこれから進むべき方向を考えてみませんか。


<追記>
草稿の時点ではもっと長くて過激な内容でした。あんまりだったので大半を切り捨ててアップしました。言いかけて止めてしまった
モヤモヤ感が消えません。どんなことを考えていたのか項目だけ列挙させていただきます。

  ・莫大なエネルギーを消費してまで昼と夜、季節の移り変わりに逆らうのはまともなことなのか?
  ・日本の人口の1/3が首都圏に集中しているのは正常な状態と言えるのか?
  ・「需要を掘り起こす」と「需要を作り出す」の違い。仕掛けられたトレンドに踊らされてないか?
  ・日本人一人が生きていくための金銭的環境的コスト。「命の価値の地域格差」的なこと。
  ・人間は本当にエライのか?

「お金も地位も幸せになるための手段に過ぎない。生きる目的にしてはいけない。」自分はそう思ってます。
同意しろというつもりはありません。それぞれで自分なりの道を考えてみて下さい。
(2011-03-31)