欧州中世末期14〜15世紀にかけての百年戦争に関する以下の本を読んだ。
百年戦争―中世末期の英仏関係 (刀水歴史全書) | |
城戸 毅 著 | |
刀水書房(2010/5刊) |
著者は英国史の専門家である。
本書の特徴は,本書の「まえがき」に明確に示されている。著者は,まえがきに以下のように記している。
『百年戦争を講義題目として取りあげ,さらにそれをのちに出版しようという計画は,このテーマがきわめて人口に膾炙し,タームとしてはよく知られたものでありながら,我が国にそれにまとまった研究がなく,教科書や概説書などにおける記述も全く通り一遍で,浅いものにとどまっており,多くの場合にその理解は,欧米におけるそれからは大きくずれており,どちらかというと中世というこの戦争が起こった時代にふさわしくない,時代錯誤的な解釈に陥っていることに満足できない,という気持ちから発した』。
つまり,英国史を専門とする学術研究者の観点から見て,「百年戦争」というものを,多くの日本人は理解していないということになる。著者は高校の世界史教科書の百年戦争の記述に対しても,厳しい意見を述べているが,その引用は,避ける。
百年戦争というと,その末期のジャンヌダルクの活躍を想起するが,本書は,ほとんど触れない。
しかし,百年戦争の経緯を相当に詳細に記述する。
そして,最も丁寧に記述されているのが,百年戦争が終わることとなった「アラス会議」についてである。
アラス会議は,イングランド,フランス,および,ブルゴーニュの講和会議であり,ブルゴーニュのアラスという場所で行われたためである。
会議の詳細は,本書を読まれたい。
私が,関心を抱いたのは,アラス会議の参加者である。
イングランド,フランス,ブルゴーニュそれぞれの王族の代表者が会議に参加するのは当然である。また,封建時代であるが,王族を代表する以外の諸侯が参加することも理解できる。加えて,会議の議長が,カトリッック教会であったというのも,中世という時代を考えれば当然であろう。
しかし,驚くのは,フランスの都市代表も講和会議の参加者であったということである。例えば,パリやリオンという都市の代表である。
イタリアの中世後半からフィレンツェやミラノの都市国家が台頭する。
フランスでは都市国家は台頭しないが,自治都市(すなわち,フランス王やイングランド王の裁判権が及ばない都市)があり,パリもその一つであったということである。そこから出る代表は,都市の中心である教会の司教であったり,各ギルドの組合代表であったり,パリには大学があったからその代表となる。
これが,日本の戦乱に例えてみれば,
日本の南北朝時代の南北朝の講和会議に,例えば京都や堺などの商人や寺院の代表が会議に参加していたとことになる。南北朝時代ではなくても,関ヶ原いたる豊臣家と徳川家の争いに,難波,堺,京などの寺院や町人の代表が,口を挟むことができたということになる。しかし,日本ではそんなことは,実際には起きなかったであろう。
なぜ,アラス会議において,パリやリオン(他にも)の都市代表が参加したかといれば,各都市における徴税権や裁判権を王権が完全に掌握していなかったためである。
逆に,なぜ,自治都市かといえば,徴税権や裁判権を都市独自に決定しえていたということになる。
フランスの王権が自治都市を制圧するのは,百年戦争が終わって,ブルボン王朝による「絶対王政」が完成してからである。その絶対王政は,フランス革命によって,18世紀末には崩壊するのであるから,精々300年程度しかなかったことになる。
観点を変えて,政体とは何かと?と考えてみると,それは,「徴税権」,「立法権」,「裁判権」が誰によるのかということなる。
「民主主義」とは,その権利が,市民(日本では「国民」)の権力による政体と考えることができる。
徴税権には対となって「納税義務」があるのであるから,民主主義は「自分たちで決めた徴税方法」により「納税」するという政体のことになる。これは,立法権,裁判権も同様である。
それらを犯すことは,民主主義に反する。
中世の戦争から,現代の政体を考えることができる。歴史とは,時間差の「比較文化論」であるからであろう。
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