瓢泉堂から一本北の辻(信号機付、山本薬品が目印)を左折し西へ歩いてゆく。道は緩やかに下りとなって東海道本線の下をくぐる。
緑色の歩行者専用道の先に木々に囲まれたスペースがある。細い道に入ると若宮八幡宮の鳥居が現れる。ご神木の近くには矢倉村の歴史を説明する石碑が設置されていた。私はここが古墳跡であることを初めて知った。
矢倉村と若宮八幡宮
矢倉は、宿場町草津に列なる東海道沿いの街道集落であり、また大津への短捷路である矢橋道が分岐する交通の結節点でもあった。
享保六年(一七九二)の矢倉村明細帳によれば、当時家数一四四、人数七四九と数えるまでに発展していたが、もとは街道より西方三〇〇メートル余り離れた当若宮八幡宮周辺に戸数三十戸余りからなる小集落であったという。
その小集落が慶長十九年(一六一四)、膳所藩主戸田氏鉄による草津宿の拡張・整備を目的とした、矢倉村の東海道沿いへの移住策が図られ、街道集落としての形態が整ったのである。
全国的に著名な草津名物の姥ヶ餅屋も、当時は矢橋道との交点で店先を構え、旅人相手に繁昌を極めたことは多くの浮世絵で周知のとおりである。
一方、矢倉の故地には現在、応神天皇を祀る若宮八幡宮が残るのみで旧状を窺うべくもないが、矢倉村の村名起源に因む若宮八幡宮は、応神天皇が東国順按の時、この地に兵庫を建て、武器を蔵したことにより、兵庫村(後に、矢倉村と改称)と称したという縁起を伝える武神祭祀の古社である。
加えて、当宮南側の宇古屋敷においては、昭和五十三年、五十四年に実施された発掘調査の結果、鎌倉時代から安土桃山時代にわたる建物跡・井戸跡等の旧矢倉村の遺構が確認されたほか、若宮八幡宮が鎮座する基壇も一辺二十五メートルを測り、横穴石室を有する古墳で、かつて円筒埴輪が出土したと伝えられる。さらに、近年の草津川新川用地内における発掘調査に伴い、古墳時代から奈良・平安・鎌倉時代におよぶ大規模な集落跡の実態も判明、矢倉が古代から開発の進んだ地域であったことが解明されつつある。
なお、旧矢倉村から移住した家人達は、今も「居住組」と唱え、「サンヤレ踊り」と呼ばれる囃子物を継承し、若宮八幡宮の祭事を取りおこない、矢倉の伝統を守りつづけている。
緑色の歩行者専用道の先に木々に囲まれたスペースがある。細い道に入ると若宮八幡宮の鳥居が現れる。ご神木の近くには矢倉村の歴史を説明する石碑が設置されていた。私はここが古墳跡であることを初めて知った。
矢倉村と若宮八幡宮
矢倉は、宿場町草津に列なる東海道沿いの街道集落であり、また大津への短捷路である矢橋道が分岐する交通の結節点でもあった。
享保六年(一七九二)の矢倉村明細帳によれば、当時家数一四四、人数七四九と数えるまでに発展していたが、もとは街道より西方三〇〇メートル余り離れた当若宮八幡宮周辺に戸数三十戸余りからなる小集落であったという。
その小集落が慶長十九年(一六一四)、膳所藩主戸田氏鉄による草津宿の拡張・整備を目的とした、矢倉村の東海道沿いへの移住策が図られ、街道集落としての形態が整ったのである。
全国的に著名な草津名物の姥ヶ餅屋も、当時は矢橋道との交点で店先を構え、旅人相手に繁昌を極めたことは多くの浮世絵で周知のとおりである。
一方、矢倉の故地には現在、応神天皇を祀る若宮八幡宮が残るのみで旧状を窺うべくもないが、矢倉村の村名起源に因む若宮八幡宮は、応神天皇が東国順按の時、この地に兵庫を建て、武器を蔵したことにより、兵庫村(後に、矢倉村と改称)と称したという縁起を伝える武神祭祀の古社である。
加えて、当宮南側の宇古屋敷においては、昭和五十三年、五十四年に実施された発掘調査の結果、鎌倉時代から安土桃山時代にわたる建物跡・井戸跡等の旧矢倉村の遺構が確認されたほか、若宮八幡宮が鎮座する基壇も一辺二十五メートルを測り、横穴石室を有する古墳で、かつて円筒埴輪が出土したと伝えられる。さらに、近年の草津川新川用地内における発掘調査に伴い、古墳時代から奈良・平安・鎌倉時代におよぶ大規模な集落跡の実態も判明、矢倉が古代から開発の進んだ地域であったことが解明されつつある。
なお、旧矢倉村から移住した家人達は、今も「居住組」と唱え、「サンヤレ踊り」と呼ばれる囃子物を継承し、若宮八幡宮の祭事を取りおこない、矢倉の伝統を守りつづけている。